第8話 もっとウケたかったね



「今日、もっとウケたかったね」


 呟くようにこぼす筧に、碧は心の中で頷いた。舞台上では、それこそ生きた心地がしなかった。


「稽古してるときにはもうちょっと手ごたえがあったのにね。いざお客さんの前に出て見たら、シーンとしちゃって小さな笑いすら起きない。せっかくのデビューライブなんだから、碧にはもっといい思いをさせてあげたかったのにな」


 筧の口調が自分だけを責めているように、碧には感じた。悪いのは、しどろもどろでうまくボケられなかった自分だというのに。


「碧、ごめんね。今日の結果は、私の書いたネタがつまんなかったせいだよ。本当ごめん。次こそはもっと面白いネタ書くから」


 頭を下げられなくても、筧の思いは碧にも痛いほど伝わった。自分を卑下する筧は、舞台上よりもずっと見ていられない。


 高架の上を電車が通っていく。乗客が二人を一瞬見て、すぐに過ぎ去っていく。


「そんなことないよ。私は筧の書いたネタ、面白かったって思ってるし。それをうまく表現できなかった私がいけないんだよ。漫才はボケで進んでいくっていうのにね」


「ううん。碧は舞台に立つの初めてだったんだから、多少はうまくいかなくてもしょうがないよ。私がもっとリードすべきだった。碧だって今日はやりづらかったでしょ」


 確かにやりづらさはあったが、そんなもの舞台に立った経験のない碧には、はっきりとは分からない。筧だってやりづらさを感じていたはずだ。


 でも、それを自分のせいにしていては、互いが互いを庇うばかりで終わりがない。いくら夜が暗くても、気分まで暗くなることはないはずだ。


「いや、そんなことないよ。筧が隣にいてくれて、私はやりやすかったよ。ほら、もうこの話は終わりにしてさ、みんなのとこ戻ろうよ。そんでもって次こそは、お客さんを笑わせられるようにがんばろ」


 気持ちを切り替えて、踵を返そうとする碧にも、筧はつれなかった。じっと立っている姿が夜に引きずり込まれていくように思える。今日の出来が、相当堪えているようだ。


「ねぇ、碧。そんな気丈に振る舞わなくてもいいから、本音を聞かせてよ」


「本音って何? 私は十分本音を言ってるつもりだけど」


「そんなわけないでしょ。初めての舞台であんなにスベって、そんなすぐ切り替えられるわけがない」


 筧の目が、言葉よりも強く訴えかけてくる。割り切れない感情を、顔に滲ませている。


 碧は足を止めた。


 人通りは少ないけれどある。でも、誰に聞かれても構わなかった。


「……そんなの悔しいに決まってるでしょ。だって私たちは何度も一緒に練習したんだよ。それがあんな結果に終わって。不当だよ。釣り合わないよ。嘘でもいいから笑えよって思ったよ。まあ嘘の笑いも、それはそれで傷つきそうだけど」


「そうだよね。やっぱり悔しいよね。私たちがやってきたことは無意味だって言われてるみたいだった。到底納得できないよ」


 オブラートに包む気もない本音は、碧の胸の奥まで届いた。


 分かっている。今日来た客は悪くない。全ては自分たちの実力が足りなかったせいだ。


 だけれど、碧はスベった原因を誰かに被せたかった。そうして自分たちを慰めていたかった。


 でも、それでは何も解決しないし、一歩も前に進まない。


 碧は再び筧の目を見た。駅前の喧騒に埋もれないように、はっきりと言う。


「次は、次こそは絶対にウケたい」


 二人の次の舞台は決まっていなかった。だけれど、碧には再び舞台に上がる自分たちがイメージできた。


 筧は一瞬驚いたような表情を見せたけれど、すぐに目を細める。碧が以前にも増して、やる気になってくれたのが嬉しいと言うように。


「そうだね。次こそは絶対に笑わせよう。今日みたいな惨めな思いをしないために」


 二人は目だけで会話をする。決意を確かめるのに、余計な言葉は必要なかった。


 「さ、戻ろっか」と言った筧に、碧も頷く。


 階段を下る二人。相変わらずの騒ぎ声も、碧の耳には届かない。自分たちに足りないものを、瀬川たちに臆せず聞こうと思った。





 駅を一歩出た瞬間から、碧は見慣れない街並みに圧倒される。三六〇度サブカルチャーの匂いが充満しているし、駅前を行き交う人々が全員演劇や文化に精通しているように見えた。井の頭線に乗ったのも初めてだったし、もちろんこの駅で降りたのも初めてだ。


 東京に来てから初めて名前を知った下北沢は、ある種の選民思想にも似た空気で碧に触れる。


 駅へと引き返したくなる気持ちを、碧は何とか堪えた。今日は筧との約束があるのだ。


 ガゼルシティ。最近、深夜帯のラジオで番組を持つようになった若手芸人の単独ライブが、一八時から行われるのだ。


 会場となるザ・スズシロは歩いて数分の距離にあるとはいえ、筧がいないとハイカルチャーな空気に碧は飲まれそうになってしまう。


 しかし、一〇分経っても二〇分経っても筧が駅から出てくることはなかった。既に開場時間を過ぎてしまっている。夏至が近いとはいえ、空も少しずつ暗くなってきた。


 今日は土曜だ。時間帯からしても寝坊はありえない。


 どうしたのだろうと思っていると、バッグに入れているスマートフォンが振動した。


“ごめん、碧。今日のガゼルシティの単独行けなくなった”


 碧は目を疑う。呆然としている間に、筧は手早く次のラインを送ってくる。


“バイト先の先輩が急に体調を崩しちゃって。このままじゃ回んないからって、急遽ヘルプで入ることになった”


“そんな。その先輩大丈夫なの?”


“分かんない。また連絡は来るかもしれないけど。だから碧、お願い。ガゼルシティの単独には一人で行って。もうチケットは渡してあるよね?”


“分かった。そういうことならしょうがないね。筧がいないのは残念だけど、私一人でも楽しんでくるよ”


“本当ごめん。この埋め合わせはいつか必ずするから”


 繰り返し謝ってくる筧に、猫のキャラクターが「OK」と言っているスタンプを送って、碧は画面をラインから地図に切り替えた。表示された道を歩き始める。


  車も通れないほど人が多く行き交う道を、避けながら歩く。開演時間はあと一〇分ほどに迫っていた。


 碧がザ・スズシロに到着したのは開演五分前だった。掲示板のポスターには目もくれず、階段を上って中に入る。


 チケットをもぎってもらってから、グッズ売り場を素通りして、劇場内に足を踏み入れる碧。


 一五〇席のキャパがほとんど満席で、碧たちの席はわりと中央にあったから、碧はそこまで座っている人たちに断りながら行かなければならなかった。


 筧の座るはずだった右隣は空席。左隣には碧と同年代だろうか、若い女性が座っていた。


 一見したときから女性客はわりあい多かったので、支持層が碧にも分かる。


 緞帳が降ろされた舞台が、主役の到来を待つ。耳馴染みのいい洋楽が、ゆったりと流れていた。


 碧が時間を確認すると、すぐに洋楽は収まって、開演を知らせる二ベルが鳴る。


 リズミカルなSEに乗って緞帳が開くと、部屋を模したセットの中にガゼルシティのツッコミ・中石なかいしが立っていた。


 これから彼女が来ると説明をしていて、その通りに長髪のカツラをつけたボケの焼津やいづが、舞台袖から現れる。


 一緒のソファに座る二人。オーソドックスな導入から、徐々に彼女の感覚がズレが明らかになる構成は、少し間違えれば嘲笑の対象になりかねないが、ガゼルシティはその線引きが絶妙で、碧は引っかかりを感じず笑えていた。


 客席のウケも上々で、一本目から十分なほど盛り上がっている。特に隣の女性は身体をのけぞらせるほど笑っていて、たった一角から会場の空気を作ってさえいた。


 だから、釣られるように碧も安心して笑える。筧にも見てほしかったとは思うほど、ガゼルシティのネタは面白かった。


 ガゼルシティは、その後も披露した五本のネタすべてで笑いを取り続け、単独ライブは盛況のうちに幕を閉じていた。最後のネタが終わって、客席に明かりがついたとき、碧には観客が感じている満足感が目に見えるようだった。一緒に来たであろう人たちと、感想を言い合っている。


 筧がいれば自分も同じことができたのにと思いつつ、碧は高揚感とともに劇場を後にした。出待ちだろうか、階段の下にたむろしている人々を横目に、ザ・スズシロから離れていく。


 少し歩いても続く満足感は碧にとっては、チケット代の三〇〇〇円以上の価値があった。簡単な出費ではないが、他の芸人の単独ライブも見てみたくなっていた。



(続く)

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