ハロルド 終わった初恋

 ハロルドはサンドラ妃にも掛け合って、ジュリアンを説得してもらうよう頼んだ。


 しかし結果は変わらず。むしろ余計なことに口を挟むなと険悪な雰囲気になってしまったという。


「すまぬな。妾の言葉は、陛下には届かなかった」

「いいえ。サンドラ様にこのようなことを頼んでしまい、申し訳ございません」


 ハロルドが頭を下げれば、よい、とサンドラは優しく告げた。


「陛下がああなってしまったこと、妾にも原因がある。無関係なそなたの奥方を巻き込んでしまって……力になれなくてすまない」

「いいえ。そんな……」


 しかしこれでまた一つ手段を失ってしまった。もう頼る人間もいない。どうしようかと途方に暮れていると、「かあさま!」という舌っ足らずな声が耳に届いた。


「おお。アンドレア。どうした」


 サンドラとジュリアンの娘、アンドレア王女殿下であった。


「バーナードといっしょにかんむり作っていたの。かあさまにあげる」

「そうか。ありがとう」


 サンドラは冷たい美貌を崩し、娘の贈り物を受けとめるために頭を下げた。シロツメクサを編み込んで作った輪っかが、王妃の頭へとのせられる。


「どうだ。似合うか?」

「ええ。とっても!」

「そうか。バーナードにも、礼を言わねばな」


 サンドラの目線は遠くでこちらの様子を見守る騎士へと注がれた。彼女が嫁いでくる際についてきた護衛のバーナードである。


 彼はサンドラの視線に一瞬柔らかく微笑んだ。彼女もまた、目を細める。


「こんなことになってしまったが、妾は幸せだ。愛しい娘がいて、バーナードがそばにいてくれるのだから」

「サンドラ様……」


 やはりアンドレアはバーナードとの子なのだろうか。


 そう思うほど、二人の絆は固いものに見えた。


 憎いと思っていたジュリアンが、また少しだけ憐れに思えた。王妃の心は夫ではなく他の男にあったのだから。


「カトリーナ様には妾も世話になった。だからどうにか元の関係に戻ってくれるよう、陛下にも頼んでみたが……」


 だめだった、とサンドラはバーナードのもとへ駆け寄っていく娘の後ろ姿を見ながら、小さくため息を零した。


「陛下にとっては、アンドレアもルイス殿下も、居ても居なくても変わらぬ存在なのかも知れぬな」


 血が繋がっていないというのに、バーナードはアンドレアの父親のように見えた。王女殿下もそんな彼に懐いている。実の父親よりずっと……。


「酷な話かもしれないが、こうなってしまってはカトリーナ様の方から陛下にお会いになられた方が一番丸く収まる気がする。陛下も、本当はそれを望んでおられるだろう」


 ルイス殿下のためにもその方が良い、と付け加えたサンドラの言葉にハロルドは何も言えなくなってしまった。


 現在カトリーナは公爵邸で匿われている。ジュリアンも本当は彼女の様子が気になるのだろう。王家の見張りがついている、と公爵から教えられ、ジュリアンがまだ彼女を諦めきれないことを知った。同時になぜ、と強い怒りが湧く。


(なぜヴェロニカを巻き込んだ!)


 カトリーナだけを想っているなら、なぜヴェロニカを傷つける。自分もまた許せないというならば、なぜ直接罰を与えなかった。なぜ無関係の妻をこんな目に遭わせる。


(もう、あの方に仕えることはできない……)


 ハロルドはヴェロニカの実家、リンドバーグ辺境伯の力を借りることを決めた。彼の騎士団の力をもってすれば、ジュリアンも考えざるを得ない。たとえそれで戦争になったとしても――


「旦那様。お客様がお見えでございます」

「客だと?」


 出立を明日に控え、身体を休めようとしていたハロルドに家令が来訪者を告げた。


「こんな時間に一体誰だ」

「それが……」


 もしやヴェロニカに何かあったのだろうか。そう思ったハロルドはろくに返事も聞かず、玄関へと向かった。フードをすっぽりと被った人影が見える。


(まさか……)


 逃げ出してきたのだろうか。かつて彼女は自分が危機に陥った時、剣を振り回して助けに来ると言っていたではないか。だからきっと――


「ハロルド」


 ヴェロニカ、と呼びそうになったハロルドは言葉を飲み込んだ。落胆と、困惑にも似た感情が胸にこみ上げる。


「なぜ貴女がここに……」


 カトリーナであった。


 彼女はハロルドの姿を見ると、胸に抱きついてきた。フードがめくれ、亜麻色の髪が零れ落ちる。幾分やつれているようには見えたが、自分を視界に映すとぱあっと表情を輝かせた。


「ハロルド。会いたかった」


 一瞬あの夜に戻ったかのような錯覚に陥る。けれどそれも一瞬で、すぐに彼女の身体を引き剥がした。


「カトリーナ様。こんな所に居てはいけません。どうかお帰りください」


 ハロルドの拒絶に、カトリーナは傷ついた表情を見せた。だがすぐに嫌だと、もう一度ハロルドの胸に顔を寄せる。そして懇願するように言った。


「ハロルド。どうか、わたくしと逃げてください」


 今度こそ一緒に。


 カトリーナの積年の思いが込められている声だったが、ハロルドは「できません」と静かに答えた。離れるよう、もう一度身体を押し戻せば、どうして、と彼女は声にならない悲鳴を上げた。


 どうして。それはハロルドも同じ思いだった。


「私にはヴェロニカがおります。子どももおります。彼女たちを裏切って、貴女の手を取ることはできません」


 あの時とは違う。自分の手で守らねばならないものが、今はたくさんこの手にはある。


 カトリーナとてそれは同じはずだ。それなのにどうして互いを選ぶことができるのか。どうして彼女がそう思ったのか、ハロルドは逆に尋ねたかった。


「だって、わたくしにはもう、何もありませんもの」

「……ルイス殿下が、いらっしゃるじゃありませんか」


 たとえジュリアンを愛することができずとも、ルイスは違う。彼女は自分が産んだ子を決して見放す女性ではない。


「ええ、あの子は可愛い、わたくしの子です。けれど、もう……」


 カトリーナは、疲れたように笑った。


「もう、何だと言うのです。殿下は今でもカトリーナ様のお帰りをお待ちのはずです」


 ジュリアンも本当は――


「……王宮にいても、ずっと一緒にいられるわけではありません。わたくしの手でなくとも、あの子は育っていく。それに、あの子が日々成長して、陛下の面影を見出す度、思うようになってしまったのです」


 カトリーナの目はひたとハロルドを見つめた。


「あんなにもお腹を痛めて産むのならば、あなたの子が産みたかったと」

「……何を、おっしゃっているのですか」

「あなたの子が産みたかった。あなたと結婚したかった。あの夜、陛下を選ばず、あなたとの道を選んでいれば、あの夜、何としても逃げていれば!」

「カトリーナ様!」


 ハロルドは彼女の肩を掴んで叫んでいた。カトリーナはか細い悲鳴を上げながら崩れ落ち、やがて嗚咽を漏らした。


「どうして……どうして、一緒に逃げてくれないの、ハロルド。あなたは今でもわたくしのことを忘れられないのでしょう? 幸せを願ってくれているのでしょう?」


 だからわたし、ずっと頑張ってこられたのよ。


「お願い。わたしと生きて。わたしのために、すべてを捨てて」


 あの時と、同じ言葉。


「それができないのならば、わたくしと一緒に死んで……!」


 同じなのに、違う。変わってしまった。 


「私にはできません」

「どうして?」

「……確かに貴女のことはずっと気にかけておりました。幸せも願っておりました。けれどそれは陛下との幸せをです。私と貴女が共に歩む道は、あの夜に途絶えました」

「うそよ」

「いいえ、本当です」

「うそ。うそよ。うそって言って! 貴方はわたしのものだったじゃない!」


 カトリーナは少女のように泣きじゃくった。その姿を見て、ハロルドは自分が彼女や陛下のそばにいるのは間違いだったと悟った。


 見守るべきではなかった。そのせいで中途半端な未練を彼女に持たせてしまった。ジュリアンにも嫉妬の感情を抱かせた。


 ヴェロニカにもずっと――


「貴女がここへ訪れたことはなかったことにします。どうかお帰りください」

「わたくしに……陛下のもとへ戻れというの? 許せというの?」


 あなたがそれを言うのかと、カトリーナは裏切られたようにハロルドの顔を見上げた。


「許せないのは、当然だと思います。それでも……貴女が王妃であるのは変わりありません」


 ハロルドがカトリーナのもとへ出向き、ジュリアンを説得するよう頼まなかったのは、サンドラが言ったようにあまりにも酷だと思ったからだ。父親である公爵であるならばともかく、自分には言えなかった。


 けれどそれがヴェロニカを取り戻す唯一の手段であるならば――


「王宮へお戻りいただくことを、私は望みます」

「……そんなに、奥方が大事なのね」


 否定はしなかった。カトリーナとどちらを選ぶか迫られたら、答えは決まっていた。それだけの時間をヴェロニカとは共有してきた。今頃になって気づくなんて、なんて愚かだろう。


「ヴェロニカといるあなた、わたくしの知らない人間に見えた」


 涙で目を潤ませ、カトリーナはハロルドの心変わりを責めた。


「あんなに屈託なく笑っている姿、わたくしは知らなかった……ヴェロニカが羨ましい……あなたと結婚できて、あなたの子を産めて……あなただけを愛することができて……わたくしも、ずっとあなただけを想っていたのに……」


 ジュリアンを愛することはなかった、とカトリーナは告げていた。


 彼女の心は変わっていなかった。だからこそ、ジュリアンは苦しみ、ハロルドを憎んだ。ヴェロニカを利用した。ハロルドからヴェロニカを奪った。


「カトリーナ様。いま私が愛しているのはヴェロニカなのです」


 貴女ではない、とハロルドはカトリーナの想いを終わらせるように告げた。


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