28、宰相閣下
「ヴェロニカ」
ジュリアンに名を呼ばれ、ヴェロニカは振り返った。
「こちらにおいで。美しい薔薇が咲いているんだ」
ヴェロニカは別に薔薇などに興味はない。
動かないヴェロニカにジュリアンがもう一度おいでと言う。そこからまた動かなければ、ジュリアンが一歩近づく。それでようやく、ヴェロニカも諦めて彼の方へ足を向けた。
「な、きれいだろう?」
「そうね……」
彼の言う通り、一面花畑かと思うほど薔薇が花壇に規則正しく植えられていた。
赤やピンク、オレンジ、黄色……よく見ればどれも微妙に彩色が違っており、同じものは一つとしてないのかもしれない。
とにかくこれだけ色とりどりの薔薇を見るのは初めてだった。
(香りもすごい……)
「そなたは花より、甘い菓子などの方がいいか?」
揶揄うように顔を覗き込まれ、思わずムッとする。
「私にだって、花を楽しむ感性くらいあるわ」
「食べられる花もあると知っているか?」
「えっ、これ食べられるの?」
素っ頓狂な声をあげるヴェロニカにジュリアンは目を丸くして、やがて声を立てて笑った。
「な、なによ!」
「やっぱり花より菓子の方が好きなのではないか」
「違うわよ! あなたが食べられるなんて言うから、てっきりこの薔薇を食べることができるのかと思って……。そんなに笑わなくたっていいじゃない」
馬鹿にされているようで、ヴェロニカは恥ずかしくなった。ひとしきり笑った後、ジュリアンは困ったように言った。
「すまない。ただそなたの反応がかわい……いや、何でもない」
ふいと顔を逸らして、ジュリアンはヴェロニカに背を向ける。
「ここの薔薇は食べられないが、食用の花があるのは確かだ。食事の飾りとして盛り付けたり、焼き菓子に混ぜたり、酒やシロップに漬け込んだりする」
「ふうん……女性に人気が出そうね」
しかしジュリアンはどうしてそんなことを知っているのだろう。やはり過去にたくさんの女性と付き合っていたから、そういうことにも詳しいのだろうか。
(だったらやっぱり最低じゃない)
「今度、用意するから食べてみるといい」
振り返ってジュリアンが勧めてみるも、いらない、とヴェロニカはそっけなく答えた。
「そう、か」
彼は一瞬言葉に詰まり、やがて「そなたは我儘だな」と寂しそうに微笑んだ。
(どうしてそんな顔するのよ)
このところずっとだ。庭に連れ出して、花やきれいな景色を見せて、ヴェロニカを喜ばせようとしている。ヴェロニカはそんなことちっとも望んでいないというのに。
(冷たくあしらえば傷ついた顔をして、どうして私が罪悪感を覚えないといけないの?)
「今日はもう、帰ろう」
ジュリアンが手を差し出してくる。ヴェロニカは手を取らない。彼は腕を下げて、行こうと言った。
彼はヴェロニカがどんなに失礼な態度をとっても、もう怒らない。ただ焦がれるようにじっと視線を寄こしてくるだけだ。
(どうすればいいのよ……)
ジュリアンがそんな態度なばかりに、ヴェロニカも調子が狂う。以前のように怒鳴り散らすことができない自分が嫌でたまらなかった。
ジュリアンが訪れる頻度もずっと増えた。グレンダの話だと空いている時間の限り、ここへ出向いているらしい。
(暇なの?)
心の中ではそう詰りながらも、そうじゃないだろうという予感もあった。認めたくない。けれどヴェロニカの予想は当たってしまう。
◇
その日はまだジュリアンが来ていない早朝のことだった。
「困ります」
グレンダの固く、警戒する声。ヴェロニカが思わず立ち上がるのと、扉が乱暴に開かれるのは同時であった。
「こんな所に大事に囲っていたのか」
白髪の混じった金髪の男が苦々しい声でつぶやいた。ヴェロニカの父親と同じくらいの年齢。誰かを思わせる気品ある顔立ちだった。
「宰相閣下。陛下がいない間に勝手に会われては困ります」
(宰相閣下。ではこの人が……)
カトリーナの父親、フィリベール・クレッセン。クレッセン公爵である。
「娘の夫を誑かしたんだ。一言くらい文句を言う資格は、私にだってあると思わないか」
穏やかな表情でヴェロニカを見る公爵は一見好意的に見えて、瞳の奥は刺すような冷たさを感じた。
「セヴェランス夫人。助けに来るのが遅くなってすまない……と言っても構いませんか?」
「当然ですわ、閣下。むしろ遅すぎて、私見捨てられたかと思いました」
「ほう。意外な答えですな。私としては、陛下のおそばを離れたくないと、てっきり駄々を捏ねられると思っていたんですが」
「……そんなわけ、ないでしょう」
忘れていた怒りがふつふつとこみ上げてきて、ヴェロニカは拳を握った。
「言い訳させてもらうのならば、こちらも想定外だったのです。王妃と別れるとおっしゃっても、陛下のいつもの悪癖が出たと。今までにも興味本位で手を出した女は星の数ほどいる。けれど最後にはいつだって、呆気なく別れが訪れる。陛下の真のお相手は王太子まで産んだ私の娘しかいない。そう簡単に手放せるはずがない。だから貴女のこともすぐに飽きると……その時に、手厚く保護すればいいのだと考えておりました」
「その間私が弄ばれても、貴方は構わないということ?」
「大きな損失を免れるには、小さな犠牲は仕方がないものですよ、夫人」
この場合大きな損失とはカトリーナのことだ。小さな犠牲はヴェロニカ。あるいは過去ジュリアンが抱いてきたたくさんの女性たち。
「それは親として? それとも宰相として?」
「もちろん、親としてです」
話していて、ちっともそうは思えない。カトリーナもこの父親相手に苦労したのだろう。駆け落ちするまで追いつめられたのは公爵の育て方も大いに関係している気がした。
「あなたの大切な娘は今どちらにいるの?」
「それを貴女に教えて、何になりましょう」
「陛下に教えてあげようと思って」
公爵はわずかに口を噤んだ。迷っているのだろうか。ヴェロニカが本当にジュリアンの愛人とでも思っているのかもしれない。
(冗談じゃないわよ)
「土下座させて、誠心誠意謝らせて、泣いて縋らせるくらいのことをすれば、カトリーナ様ももう一度くらい、ルイス殿下のために考え直してくれるのではなくて?」
「そうですね。私もそのつもりでしたが……」
言い淀む公爵に、ヴェロニカはだったらそうすればいいじゃないと言い放った。じっとこちらを見つめる彼に、じわじわ追いつめられていく気がした。
「何?」
「……魔女、という呼び名は本当に正しいかもしれませんな」
「どういうこと」
「いいえ。何も。それよりもここを出たいというのならば、早く出ましょう」
「困ります! 閣下!」
道を塞ぐグレンダも、公爵は微笑んで見下ろすだけだ。
「どきなさい。きみも外の騎士たちのように手荒な真似はされたくないだろう」
ハッと扉の方を見れば、外に誰か倒れている姿が見えた。見張りの騎士たちだと知って、ヴェロニカは公爵の手を引いていた。
「その子に構っていないで、早く出ましょうよ」
グレンダは主に忠実だ。ここで馬鹿な真似をする可能性だってある。ヴェロニカはとにかく一刻も早く部屋を出ようと公爵を促した。
けれど時間切れだった。ばたばたと騒がしい音が聞こえてくる。
「もう嗅ぎつけたか……」
公爵が小さく舌打ちする。
「ヴェロニカ!」
ジュリアンが焦った声でヴェロニカの名を呼んだ。急いで駆けつけてきたというように呼吸や髪が乱れていた。
「おや、陛下。お早いお戻りで」
「フィリベール。なぜお前がここにいる」
無表情で尋ねるジュリアンにも、公爵は動じずに笑みを浮かべて答える。
「それはもちろん、セヴェランス夫人のことが気になったからですよ。こんな王宮の片隅でずうっと閉じ込められていては、いくら精神的にお強い夫人でも健康を損なう危険があります。ですから私が――」
「要らぬ気遣いだ。すぐに出て行け」
陛下、と公爵がふと真面目な顔で言った。
「お戯れはここまでにしてください」
「冗談ではない」
「……この娘を本当に王妃になさるつもりで?」
「そうだ」
信じられないと公爵の目が見開かれた。ヴェロニカは「ちょっと」と文句を言おうとしたが、「何を馬鹿なことを!」という公爵の怒声にかき消されてしまった。
「一体私の娘のどこが不満だというのです! 今まで貴方に誠心誠意尽くしてきたはずですよ!」
「そなたの命令通りにな」
「だから気に入らなかったと? 何を今さら子どもじみたことを……」
迷惑極まりないと眉を顰める公爵に、ジュリアンはそうだなと否定しなかった。唇を歪めて笑う様が、ヴェロニカの目には何だか痛々しく映った。
「私もカトリーナも、そなたの筋書き通りに演じてきた。何も知らず、ただ無邪気に道化を演じてな」
「私は最上級の配役を献上したつもりですが」
「ならば演じきれなかったということだ」
「失礼ですが、おっしゃっている意味がよくわかりませんな」
「こうなったのは、そなたのせいでもあるということだ」
「私のせい? 陛下は本当に責任転嫁するのがお好きですな」
「……何でも自分の思い通りに動かそうとすると、齟齬が生じる。歪みができる」
ジュリアンがゆっくりヴェロニカたちのもとへ近づいてくる。とっさに公爵がヴェロニカの手首を掴んだ。見た目からは想像できぬ力強さだった。
「この娘はハロルドのもとへ帰すべきです」
ジュリアンは答えない。陛下、と公爵が切羽詰まった声で名を呼ぶ。
「嫌だと言ったら?」
「処分します」
これまでのように、と公爵は付け足した。ジュリアンの足が止まる。ヴェロニカが公爵の横顔を呆然と見つめれば、彼は唇を吊り上げた。
「カトリーナほど、王妃に相応しい娘はおりません」
「……そなたが宰相として、この国を支配したいだけだろう」
「いいえ、そんなことはありません。私はいつでも陛下のためを思って――」
「いいからヴェロニカの手を放せ」
ジュリアンは有無を言わせぬ声で命じた。それでも公爵が離さないと、ジュリアンの目がスッと細められる。
「ではそなたを処分するまでだな」
ゾッとするほど冷たい声で言うと、彼が片手を上げる。
たくさんの衛兵たちが部屋の中へ入ってきた。フィリベールが連れてきたと思われる騎士はすでに捕えられていた。
「……この私を切り捨てるおつもりですか」
「そうだ」
「今まで私がどれほど貴方のためにこの身を捧げてきたのか、お忘れですか」
「ああ、感謝はしている。だがそなたは私の育て方を間違えた」
殺せ、とジュリアンの口が動いた気がする。騎士の一人が足を踏み出す。握っていた公爵の手が震える。
「――ジュリアン」
ヴェロニカの声は、その場のすべての動きを止めた気がする。
「なんだい、ヴェロニカ。言っておくがそなたが帰りたいと言っても――」
「違うわよ」
声が震えないよう、お腹に力を込めた。
「ここは今、私の部屋よ。人の部屋を、勝手に汚さないで。騒ぎを起こすなら、出て行ってからやってちょうだい。それから……」
ジュリアンの目がゆっくり瞬く。
「それから?」
「公爵はただ私の話相手になっていただけよ」
「……」
「それも済んだから、もうお帰りいただくところ。あなたが言っていること、すべて間違っているの。勘違いというわけ。だから処分だなんて物騒な言葉、使わないで」
気に食わない相手である。でも、今ここで殺されたらヴェロニカの脱出する道もなくなる。だから助けてやるのだとヴェロニカは自分に言い聞かせた。
「ヴェロニカは、出て行かないのか」
「あなたが帰してくれるっていうなら、喜んで帰るわ」
「……そうか」
ジュリアンは公爵を見た。
「おまえはそういうつもりでここへ来たのか」
「……はい」
もう公爵はヴェロニカの手首を握ってはいなかった。強張った顔で、「そろそろお暇しようと思っていたところです」と感情を殺した声で述べた。
「そうか。ではフィリベール、すぐに帰るがよい」
公爵はちらりとヴェロニカを見た。彼が何を伝えたいかはわからなかったが、彼女は「またお待ちしていますわ、閣下」と別れの言葉を口にした。
彼は一度目を固く閉じて、やがて諦めたように部屋を後にしたのだった。
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