15、ヴェロニカの怒り

「なんだ。もっと泣き暮らしているかと思ったぞ」


 また来る、とは次の日であった。


「そんなみっともない真似は致しませんわ」


 本当は一晩中眠れなかったのだが、ヴェロニカはジュリアンに一切そうした様子を見せなかった。隙を見せてしまえば負けだと思ったのだ。


「そうだな。そなたは静かに涙を流すより、物に当たって喚き散らすタイプだな」


 わざと挑発するような物言いは、ヴェロニカの感情を乱して愉しもうとしている。


「どうした。だんまりか。昨日、私が言ったことを認めるのか」

「いいえ」


 きっぱりと否定する。


「あなたの言うことは、何一つ信用できませんわ」


 あからさまな言い方は彼の気分をいささか害したようだった。


「信用できないとは、国王に向かってずいぶんな口の利き方だな」

「あら、お気に障りました? なら私など、とっと王宮から追い出してくださいな」

「追い出して、おまえはどこへ帰る」

「もちろん、主人と子どもたちのもとへですわ」


 決まってるじゃありませんか、と言えばジュリアンは馬鹿にしたように笑った。


「私の言ったことを忘れたのか? そなたはもうハロルドの妻ではないぞ」

「私は信じませんわ」


 ヴェロニカはこの時まだ、国王の言ったことを性質の悪い冗談だと思っていた。何も本気でハロルドとヴェロニカを離婚させようとしているのではない。ただヴェロニカに言うことを聞かせるための脅しだと。


「冗談ではない」


 けれどジュリアンが呆れたようにため息をついたことで、彼の顔を凝視した。まさか、という嫌な予感がせり上がってくる。


「そなたは何度言っても信じないがな。ハロルドとの離縁の手続きを進めている」

「……冗談でしょう」


 ジュリアンはどうかなと黙って微笑んでいる。


「それ相応の理由がなければ、離縁はできないはずよ」

「妻が夫のもとへ帰って来ず、かつ他の男のもとにいる状況が長らく続けば、立派な理由が完成するはずだ」

「あなたねぇ!」


 それまでヴェロニカをこの部屋に監禁するつもりなのだ。


(そうは行くものですか!)


 彼女は立ち上がった。


「どこへ行く」

「決まっているでしょう。この部屋を出て、間違いを訂正するのよ」


(もういい。私が勝手に出て行って、屋敷へ帰ればいいだけだわ)


 けれどヴェロニカの行き先は衛兵たちが塞いでいた。彼女がどきなさいと命じても、彼らはまるで彼女がいないように目を合わせず、口も利かない。あの侍女と同じだ。主人の言うことしか聞かない。


「ヴェロニカ。そなたが今度また出て行こうとするならば、私はそなたにとって最も酷な手段をとらなくてはいけなくなる」


 これ以上酷なことなどあるものか。


「そなたの息子、名は何と言ったかな……」

「っ、卑怯者!」


 ヴェロニカの罵倒にジュリアンは笑って返す。悔しくて、このまま衛兵たちに構わず外へ出て行きたい衝動に駆られる。けれどもしそうしてしまえばエルドレッドやセシリアが――


 扉の前で固まって動かないヴェロニカにジュリアンが再度尋ねてくる。


「ヴェロニカ。そなたが間違いを訂正する相手は誰だ?」

「……司教様よ」


 結婚には司教の祝福が必要とされ、それで神に許された関係だという証になる。だから司教に訴えれば、どうにかなるはずだ。


「無理だな」

「どうしてですか」

「私がそなたたち夫婦の離縁を申し込んだからだ」


 ヴェロニカは我慢の限界だった。振り返って長椅子にくつろいで座っている男をキッと睨みつける。


「いい加減にして! どうしてそんなに私たち夫婦を切り裂こうとするの!? 何の恨みがあるというの!?」


 説明してよ! と彼女はジュリアンに詰め寄った。礼儀や慎みを慮る余裕はすでに彼女から失われていた。夫や子どもから引き離され、離婚を命じられ、彼女の頭はどうにかなりそうだった。


「私はただ、カトリーナの幸せを叶えようとしているだけだ」


 ヴェロニカの癇癪にもジュリアンは平然とした様子で答える。その態度がますますヴェロニカの怒りに火を注ぐ。


「だから初恋の相手であるハロルドとくっつけようとしているわけ!? 無茶苦茶よ! 彼はそんなこと許しはしないわ!」

「駆け落ちした相手だというのにか?」

「そんなの昔の話じゃない! 互いに子どもまでいるのよ!? 見捨てることなんて絶対にしない!」


 そんな馬鹿げた選択など絶対に。


「カトリーナがハロルドのもとにいてもか」

「……え?」


 一瞬何を言われたかわからなかった。


「カトリーナはハロルドの屋敷にいるぞ」

「……」

「おまえだって覚えているだろう? カトリーナがハロルドを愛していると告げたこと。彼女は私に捨てられ、愛している男に縋ったんだ。どうか自分を助けてくれとな」

「……そんなの、そんなの……信じないわ……」

「ではなぜハロルドは迎えに来ない」

「それは! あなたが邪魔しているからでしょう!?」

「いいや。私は何もしていない」

「っ」

「ハロルドは王宮へ出仕することをやめてしまった。騎士団も無断欠勤が続いているようだ」

「……うそ」


 全部嘘だ。口からの出まかせだ。


「嘘ではない。あの男は――」

「やめて! あなたの言葉は何一つ信じられない! こんな形で私をこの部屋に閉じ込めて、それでいいように懐柔しようって魂胆なんでしょう!? そんな男の言葉をどうして信じられるっていうのよ!」


 バサッとジュリアンがテーブルに何かを放り投げた。唐突な行動にヴェロニカは思わず身体をびくつかせた。彼が刃物でも取り出したのかと思ったのだ。


 だがそれは折り畳まれた手紙のようだった。何度も読み返したせいか、皺がついて、ぼろぼろになりかけている。


(なに、これ……)


「カトリーナがハロルドからもらった手紙だ」


 勢いよく顔を上げる。ジュリアンは歪な笑みで告げた。


「いつ渡したかはわからないがな。あの男らしい、生真面目な愛の言葉が綴られているぞ」

「……どうしてそれをあなたが持っているの?」


 これはカトリーナがハロルドから受け取ったものだ。それを夫であるジュリアンに進んで見せるとは考えにくい。


「気にするのはそこか? そなたは感情的な人間かと思えば、意外と律儀な面もあるのだな」

「いいから答えて」

「安心してくれ……と言うのが正しいかどうかはわらかないが、その手紙はカトリーナがある日ぽとりと落としたものだ。それを私が偶然拾った」


 つまり彼女はずっとこの手紙を肌身離さず持っていたのだ。その事実に胸の内からじわじわと、暗く激しい感情が湧いてくる。


(どうして……)


 夫から送られたという手紙を凝視する。


「これが本当にハロルドから送られたという証拠はありますの?」

「中身を読んだからだ。仕事であいつの文字を見たことがある。そなたも妻なら夫の字くらいわかるだろう?」


 平然と妻の手紙を見たというジュリアンをヴェロニカは軽蔑した眼差しで見つめる。


「故意に読んだわけではない。私とて、まさか妻がそのような手紙を持っているとも思わなかったし、手紙の差出人がハロルドとは思わないだろう?」


 ヴェロニカはもう一度手紙に目を落とす。


 一体いつジュリアンはこの手紙を拾ったのだろう。失くしたことにカトリーナは気づいているのか。拾った相手が自分の夫だと想像して、どんなに恐怖を抱いたことだろう。


 疑問は次々とわいてくるのに、ヴェロニカは尋ねることが怖かった。


「私はその手紙をもう何度も読んで、内容も覚えている。必要がないから、そなたにやろう」


 ではな、とジュリアンは腰を上げる。ヴェロニカは慌てる。


「ちょっと! 私だってこんな手紙いらないわ!」

「そうか? ではそなたが処分してくれ」

「処分って……」

「嫌か?」


 嫌に決まっている。視界にも入れたくない。


「持って帰ってよ。処分ならあなたがすればいいじゃない」


 それにこれはカトリーナの持ち物でもある。いくら夫の恋文だとしても、ヴェロニカが勝手に処分してしまうのは躊躇いがあった。……いや、そう思うことで、ヴェロニカは必死に自分を抑えていた。


「ふむ。そうか? ……そうだな。そなたの言うことも一理あるな」


 ほっと安心する。


「では一日預かっていてくれ」


 しかしそれも一瞬である。


「っ、どうして! 持って帰ればいいでしょう!?」

「そうしたいのは山々なんだが……これから大切な仕事があるのだ。たくさんの貴族が集まり、隣国からの客人を招いた食事もある。そんな時に何かの弾みでこの手紙を落としてしまうかもしれない」

「そんなの、あなたが気をつければいいだけじゃない」

「もちろん気をつけるさ。だが何事も絶対、ということはないだろう? 私の妻がこの手紙を落としてしまったように、な」

「それでも……!」

「ヴェロニカ。一日だけでいいのだ。その間、手紙には触れなくていいし、中身を読まなくとも構わない。ただ持っていてくれるだけでいいんだ」


 それくらい、できるだろう?


「私は……」

「ああ、もう時間だ。ではな、ヴェロニカ。また明日会いに来るよ」


 ジュリアンは軽やかな足取りで部屋を出て行った。


 残されたヴェロニカは、途方に暮れたように置いていった手紙を見る。その存在はすでに重たく、彼女の心に影を落としていた。


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