13、我慢の限界

「ヴェロニカ様。湯浴みのご用意が整いました」

「今日はもう疲れているから、寝てしまいたいわ」


 明日の朝浴びる、と反抗的な態度をとって相手の出方を伺うと、侍女は顔色一つ変えずにヴェロニカの意見を跳ね除けた。


「なりません。陛下が夜にいらっしゃいます。きちんと準備をしておくようご命令されました」


 思わず絶句するヴェロニカを置き去りにして、侍女が着ている服を脱がそうとする。ヴェロニカはとっさに彼女の手を叩き落とした。


「私はそんなことしない」

「ヴェロニカ様。わたくしたちも陛下に命じられているのです。どうかご容赦ください」

「……」

「わたくしが諦めた所で、他の者たちが貴女を世話するだけです」


 怒りが湧き、侍女を鋭く睨みつける。けれど彼女は何の表情も浮かべていなかった。まるで人形のように、ただ淡々と主の命を実行するだけである。ジュリアンはそういうふうに教育しているのだろう。


 ヴェロニカはため息をついた。従うしか、他になかった。


「――ヴェロニカ。待たせたな」


 夜遅く、ジュリアンは現れた。彼は寝台の縁に行儀よく腰かけるヴェロニカに目を細めた。


「人妻を抱いたことはあったが、臣下の妻を抱く経験はまだだったな……いや、あったかな?」


 最低の発言を口にしながら彼はヴェロニカの正面へ来ると、頬を撫で、するりと唇を撫でた。女に触れるのに慣れた手つき。当然だ。彼に妻がいる。子どもだって――


「カトリーナは私を見捨てた。あんな女、私には相応しくない」


 ジュリアンはヴェロニカをとんと寝台の上へ押し倒した。馬乗りになり、薄い夜着を脱がそうとする。彼の目はヴェロニカの身体を映しているのに、心はここにはない。閨の場で他の女の名を口にする未練がましい男。


「――陛下。おやめください」


 毅然とした声でヴェロニカはジュリアンの手を振り払った。彼はようやくヴェロニカをその目に映す。揺蕩うような虚ろな瞳がどろりと溶ける。


「まだそんなことを言うのか。大丈夫だ。何も怖いことはない。すべて私に身を委ねれば、っ――」


 ジュリアンが息を呑んだ。目が覚めたというように大きく目を見開いて、ヴェロニカの手にしているナイフを凝視している。


「そなた、何を……!」


 慌てて後ろへ飛び退く王の行動にヴェロニカは思わず笑みを浮かべる。


「ふふ。私が枕の下に隠してあったナイフを取り出したことにも気がつかないなんて。何か他のことでも――別の誰かのことを考えていらしたのではないですか」


 ジュリアンは馬鹿にされたと思ったのだろうか。あるいは図星を指されて気まずかったのか。どちらにせよ怯えはすぐに怒りへと変わってヴェロニカを憎々しげに睨みつけている。


「よくも私を愚弄したな!」


 女のような繊細な顔立ちが、一気に恐ろしいものとなり迫力があった。


 でもヴェロニカは怖いとは思わなかった。それ以上の激しい怒りが彼女の中にもあったからだ。


「愚弄ですって? それは私の台詞よ!」


 ヴェロニカは今や相手が国王というこの国で一番敬うべき人間だということを忘れた。


「あなた、ご自分が何をしているのか理解しているの? 私を騙して王宮まで連れてきて、何日も拘束して、夕食でも私とカトリーナ様のことを比較して、貶めて、それで彼女を私の夫に下げ渡すですって? 私を夫と子どもから引き離すですって? 馬鹿なことを言うのもいい加減にしてちょうだい!!」


 相手が口を挟む暇も与えず大声で捲し立てるヴェロニカにジュリアンもしばし呆気にとられていたが、その言葉の意味を理解するやいなや唇をわなわなと震わせながら「うるさい!」と怒鳴り返した。


 衝動のまま、ヴェロニカに襲いかかろうとする。彼女は「来ないで」と冷静に相手にナイフを突き付けた。一瞬踏みとどまったジュリアンが皮肉気に笑う。


「なんだ。その果物ナイフで私のことを殺すのか」


 そうしたらお前は大罪人だな、と彼はヴェロニカの無謀さを嘲笑する。


「そなたが私を殺せば、そなたの愛する夫や子どもも、みな処刑されるかもしれぬぞ?」

「ええ、そうでしょうね。だからそんなことはしないわ」


 彼女はジュリアンに向けていた刃先を自分の首筋へと当てた。


「あなたに身体を弄ばれるというのならば、その前に私は自害いたします」


 これにはジュリアンも意外だったのか、わずかに目を丸くし、けれどすぐにそんなことできるものかと高を括った。


「女にそんなことできるものか。いいからそのナイフをこちらへおやり。今ならまだ、そなたの可愛い癇癪だとして水に流してやろう」


 さぁ、と近づいた瞬間、ヴェロニカは刃先を皮膚に突き刺し、なぞるように下に引いた。


「おいっ!」


 今度こそ、ジュリアンは動揺を晒した。スッと白い首筋から血が流れるのを目にして、彼の顔は一気に色を失くしていく。


「馬鹿な真似はやめろ!」

「私は本気です。夫以外の者に抱かれるくらいなら、この世を去ります」


 ――なにも本気で死ぬつもりはない。今の行為だって刃物で指先を切ったくらいの怪我である。本当に命を絶つならば、もっと深く皮膚を切り込ませる必要がある。それはヴェロニカには――たいていの人間には無理な話である。だからこれは脅しに近かった。


「いいからそのナイフを寄こせ!」


 幸運なことに、と言っていいかはわからないが、ジュリアンはヴェロニカの予想よりはるかに狼狽えていた。ヴェロニカの傷つけた血を凝視して、ますます血の気を失わせていく。血が怖いのかもしれない。


「陛下。私を無理矢理手籠めにするというならば、私は今この場で、陛下の目の前で命を終えますわ。陛下にはそれをしかと見届けてもらいます」


 血のついた刃先をもう一度皮膚に押し当てれば、ジュリアンは「やめろ!」と先ほどよりずっと切羽詰まった声で叫んだ。


「わかった! そなたを抱くのはやめる! だから死ぬのは止せ!」

「私を家へ帰してください」

「それは……」

「陛下。どうかなされましたか!」


 騒ぎを聞きつけた侍女や侍従が寝室の扉を開け、ヴェロニカの刃物と血を見て悲鳴をあげた。ジュリアンが取り押さえろと、疲れの滲んだ声で命じた。


 ヴェロニカもここまでか、と大人しく刃物を首から離し、駆けつけてきた衛兵に大人しく拘束された。ハロルドの姿を探したけれど、彼は見当たらなかった。


「陛下」


 こちらへ、と侍従に促されて部屋を出て行こうとする背中に呼びかける。


「刃物を取り上げようが、私の意思は変わりません。あの人以外のものにされるというならば、どんな手を使ってでもあの世へ逃げ切ってみせます」


 そして死者の世界からおまえを呪ってやる。


 さすがにその言葉を直接口にすることはしなかったが、気迫だけは伝わったのかもしれない。


「そなたは恐ろしい女だな……」


 と振り返って恐ろしげに呟いたのだから。


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