第39話 『ね?』


……あれ? ずっと微動だにしなかったのに?


 そう不思議に思った瞬間、自分の耳が変な音を感じ取った。それはズズズっと何かが這うような音だった。その音の方に顔を向けると、星野さん達が立っている場所だった。


 男はいつのまにか青年の背後に立っていた。その顔を見て、持っていた傘を落としそうになる。ずっと無表情だった男の顔は、口の端が異様なほど広がり笑っていた。

 

 目は眼球がこぼれ落ちそうなほど見開かれ、白目が血走っていた。そして彼は骨の存在を無視するような動きで両手をあげ、青年の肩にそれを掛けた。もちろん、青年は何も気が付いていない。


 そのまま強く青年を締めた。決して離してなるものか、という気持ちが伝わってくるように思える。そして青年の肩に顔を乗せると、大声で笑った。


 あはは、ははははは、あははははははははは


 僕にしか聞こえない笑い声が、辺りに響き渡る。


 顔を揺らして笑い続ける男を、僕は何も出来ずに見つめたままでいた。あの青年は確実に憑かれただろうけど、ここまでしがみつかれては睨んで怯ませてももう逃げられない。何も出来ないのが申し訳ないが、もう僕にはどうしようもできなかった。


 霊が、人に取り憑く瞬間を、初めて見た。


 ごくりと唾を嚥下した。自分の手が震えているのがわかる。


 ただ立っていただけの彼が突然豹変し人に取り憑いたこと。その光景はあまりにショッキングだった。


「な、なんだよ、変な女!」


 ずっと黙っていた青年は、そこで初めて声を出して星野さんの腕を払った。そして僕たちに強く睨みつけると、もうチカチカ点滅し始めた青信号に向かって走り去ってしまった。


 背後に、大きなものを背負ったまま。


 その背中を見送った後、僕はようやく星野さんに近づいて傘を差し出した。彼女には全く視えていないだろう。そう思って彼女の顔を覗き込んだとき、ぎょっとして少したじろいだ。


 星野さんは一人で笑っていた。もう見えなくなってしまった青年の方をみたまま、一人でふふふっと楽しそうに笑っていたのだ。


「……ほ、星野さん?」


「え?」


「な、なに笑ってるの」


 僕が問いかけると、彼女はようやくこちらを見る。その顔は光悦の表情にも見えた。


「だって、あの人」


「え? さっきのタバコ捨てた人?」


「うん。あの人……」


 そう呟いてまたふふふっと笑う。僕は何がなんだかわからず、混乱した。何をそんなに楽しそうなんだ、ポイ捨てを注意されて戸惑ってる様子が面白かったのだろうか。


「何?」


「ううん……多分、そのうち分かる」


 それだけ言うと、星野さんは勝手に歩き出した。僕は慌てて傘を彼女の頭上にキープしながら追いかける。


「て、いうか……あの人が捨てたってなんでわかったの?」


「え?ああ……。

 私ね、幽霊は視る能力はないけど。人間を見る目はあるつもりよ」


 彼女は含みを持たせた言い方でそれだけ言って、あとはこたえなかった。きっと言うつもりがないんだと思って僕は諦めた。


 その後は黙って二人でマンションまで歩き、あとはただ解散しただけ。何もなかったように、星野さんはにこやかに手を振って僕とさよならを交わした。


 あんな壮絶なものをみなくて済むなんて、羨ましいな……なんて思っていた。






 それから二日後、ニュースであの轢き逃げ事件の犯人が捕まったと報道があった。僕は自分のボロアパートでそれを見ていて、次の瞬間全身が固まった。


 出てきた犯人の顔写真は、あの青年だった。


 その上、あの轢き逃げは故意によるものだった可能性も出てきているらしく、そうなれば事故ではなく殺人だということになる。


 最後に笑って取り憑いた彼の姿を思い出した。突然豹変して高らかに笑った理由をようやく知る。自分を殺した人間をようやく見つけることができたのか……。


 なんだかモヤモヤした気分のままバイトへ向かうと、星野さんが働いていた。彼女は僕の顔を見るなり、嬉しそうに笑って『ね?』とだけ言った。僕は詳しく聞こうとしたのに、客に呼び出された星野さんはそのままホールに出てしまいきくタイミングを失った。


 星野さんは、あの青年が轢き逃げの犯人って知っていたんだろうか。だとしたらなぜ? 実は事故を目撃していたんだろうか。わからないことだらけだった。


 彼女は未だに、何も教えてくれない。






 

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