第36話 宇野家





 少し歩いて朝日野さんの家から離れたところで、私は恐る恐る声を掛ける。


「あの、柊一さん……」


「あの様子だと、多分あの家じゃあ何も起こってなさそうだったねえ」


「あ、あのう」


「ん? 遥さんどうしたの?」


「手をそろそろ……」


 新婚という設定のために繋いだ私たちの手は、未だ繋がれたままだったのだ。話を聞くために仕方なかったとはいえ、かなり恥ずかしかった。だが彼は何も思っていないようで、思い出したようにパッと手を離す。


「ああーごめんごめん!」


「い、いえどうもごちそうさまでした……」


「柊一、新婚設定が一番もっともらしかったからしょうがないけど、勝手に女性の手を握ったりするもんじゃない。次からは許可を得ろ」


「分かったー」


 許可って、許可って。そりゃ間違ってないけど、私に拒否するなんて出来ないよ。


 口を尖らせた私に気付かないのか、二人は早速本題に入って行く。


「柊一の言う通り、あの家は何も起こってないと見て間違いないだろう。三石さんのお宅ほどのことが起きていたら、鼻歌歌いながら玄関掃除なんか出来るはずがない」


「普通の感覚ならそうだよねえ。他のおうちはどうかな? ピンポンして聞いてみてもいいけど」


「さすがにインターホンまで鳴らして訪問したら怪しまれる。通報でもされたらどうする」


「それもそっかー」


 ゆっくり歩きながらそう話していると、ふと背後が気になった。立ち止まり振り返ってみるも、特に気になるものはない。道には誰もいないし、おかしな点もない。


「井上さん? どうしました」


「あ、いえ……なんか視線を感じた気がしたんですが、気のせいだったみたいです」


 私は胸を撫でおろし、二人に駆け寄る。多分、あの家にいたから敏感になっているんだろう。


 細い道を歩いていくと、宇野さんの家がすぐに見えた。やはりかなり広い土地だ。その前を通り過ぎようとしたところで、敷地内に人影を見つける。先ほど見た時にはいなかったはずなので、畑仕事でもするために丁度出てきたのかもしれない。ラッキーだ、と私たちは顔を見合わせて思った。


 敷地はぐるりと黒い柵で囲まれており、その中の畑のそばに立っていたのは一人のおじいさんだった。恐らく八十歳前後。白い長そでの肌着と思われるシャツに、下は茶色い古びたズボンを履いている。肌寒さも出てきたこの季節に、ずいぶん涼しげな恰好をしていた。


 やはり畑仕事をするつもりなのか、その周りをうろうろと歩いて観察している。

 

 三人で近づき、柵の外側から柊一さんが声を掛ける。


「こんにちは!」


 が、反応がなかった。宇野さんは畑の周りをゆっくり歩いて観察している。やや距離があるので声が届きにくいのかもしれない。今度は暁人さんが声を掛けた。


「こんにちはー!」


 ようやく宇野さんがこちらを見た。不思議そうにしながら会釈をしてくれる。暁人さんが続けて尋ねた。


「ちょっとお話いいですか?」


 宇野さんは少し首を傾げながらも、ゆっくりとした歩調でこちらに歩み寄ってきた。柵越しに見えた彼はやはり高齢男性で、深い皺が頬や額にくっきり彫られている。私たちをちらりと見た宇野さんは、暁人さんに尋ねた。


「なんでしたか?」


「こちら住まわれて長いですか?」


「ああ、もうずーっと長い事ここに住んでますよ。お若い方々が何の用ですか?」


「こっちの二人は新婚で、この辺りで新居を探しているんです。住みやすそうないいところだなあ、って思いまして。でも実際住む前にどんな場所か下見をしているんです」


 さっきの新婚設定はまだ生きていたらしい。が、今回は手を繋がれることはなかった。柊一さんはにこりと宇野さんに笑いかけ、私も必死に表情を作って宇野さんに笑顔を見せた。


 すると彼は、パッと表情を明るくさせる。


「おーそうなんですか。いや、最近はこの辺も若い人たちが増えてきたけど、やっぱり活気が出るから嬉しいことですねえ。ちょっと田舎だけど、静かで住みやすいとこだと思いますよ。少し前はもっと田舎で畑しかなかったんですがねえ、ここ最近は薬局だのコンビニだの色々出来てきたから」


 一気に口数が多くなる。嬉しそうに話す宇野さんに、嘘をついていることに罪悪感を感じつつも、情報収集のために仕方ないんだと自分を言い聞かせた。


 柊一さんが尋ねる。


「住まわれてどれくらい経つんですか?」


「いやあもう六十年にはなるかな?」


「そんなに!」


「昔は今ほど土地も高くなかったからねえ、無駄に広く持ってるんですが」


「広いですよね。畑も持ってらっしゃる」


「少し先にもっと大きな畑を持ってたんですわ。でも年で管理が厳しくなってきたから、全部売って今は趣味ぐらいの規模にしました。売ったところは全部住宅に変わってるようです」


 高齢だが、耳も遠くなさそうだし、会話もしっかり成り立っているので認知症でもなさそうだ。しっかりされた方だ。


 暁人さんが家を見回しながら感嘆のため息を漏らした。


「それでも広いおうちですよ。普通の家が何軒か建ちそうですね。ほら、ここのすぐ裏は新築の家が四軒並んでるじゃないですか。あれぐらいの広さは余裕でありそうです」


 それとなく三石さんの家の話題を振った途端、それまでにこにこ顔だった宇野さんの表情が明らかに変わった。苦々しく彼は言う。


「すぐ裏のねえ……あそこに家が建つなんてねえ」


 その言い方は、何かがあるんだ、と誰でも分かるような口ぶりだった。柊一さんがすかさず追及する。


「裏は何かあったんですか?」

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