第42話 もしも
二胡の音が止み、
「私にはやっぱり楽の才能がないんだわ……」
「そんなことありませんよ。数日前に比べれば、ずうっと上達されてますもの」
昼下がり、碧鈴の
手習いをつけてほしいという碧鈴に従って、宮妓三人は連日のように後宮へ足を運んでいた。
「私やっぱり辞退するべきかしら? 四華の儀に参加しなくても演奏したいなんて言うべきじゃなかったわ」
「その心意気がいいのよ、碧鈴様! 根性あるとこ見せて主上に売り込むんでしょ!?」
横で
そんな我々を遠巻きにして、壁に張り付くように立たされている侍女達。碧鈴は宣言通り彼女らを使い続けているようで、両者の雰囲気は未だ険悪だが、以前ほど目に見えての対立は減っているように見えた。
なにぶん侍女達の表情はいつ見てもげっそりとしているので、碧鈴の方が彼女達より精神的に強いことは確かだ。対立が減ったというより、碧鈴が圧倒しているという方が正しいのかもしれない。
「碧鈴様、どうぞ」
譜面を曄琳が差し出すと、碧鈴がちらりと曄琳を一瞥する。
「ええと眼帯の……名前は……」
「
「曄琳ね。……ありがとう」
譜面は手から毟り取られたが、曄琳は彼女の成長に感動していた。
恋とはここまで人を変えるか。碧鈴のこれからの成長が楽しみである。
「ねえ、あなた達って当日四華の儀に参加するって本当?」
二胡と格闘し始めて半刻、少し休憩をと手を止めた碧鈴が曄琳らを見渡す。
「出るのではなく、四華の儀の宴席で少し演奏する程度ですねぇ」
燦雲が碧鈴に水袋を差し出しながら答える。碧鈴はそれを受け取ると、顔を歪めて左手を当てる。
不慣れなうちは弦を押さえる指がとにかく痛む。弦が固く皮膚が負けるのだ。指先の皮が厚くなるのを待つしかないのだが、碧鈴はこれまでほとんど二胡に触ってこなかったこともあり、ここ数日の練習で左手の指先は真っ赤だった。
碧鈴はふうんと頷くと、得意げに口端を釣り上げた。
「私があなた達の衣装を見立てるわ」
「は?」
「あら?」
「え?」
茗、燦雲、曄琳と三者それぞれ素っ頓狂な声が出た。
すぐに立ち直った燦雲が笑顔で首を振る。
「とっても嬉しいですが、そこまでしていただく必要はありませんのよ、碧鈴様」
「どうして? 他の姫もそうするって聞いたわ。今回自分達の老師を勤めた宮妓には、世話になった御礼にって衣装を贈るのよ」
まさかまた碧鈴に出鱈目を教えたんじゃなかろうか。
宮妓三人が壁際の侍女を一斉に振り返ると、侍女らは濡れ衣だと言わんばかりに何度も首を横に振った。
「ほ、ほんとにそんなことを……?」
茗がおっかなびっくり碧鈴を振り返る。碧鈴は愛らしい顔に一際可憐な笑みを浮かべて首肯する。
「そうよ。私が選ぶんだから、一番華やかで一番綺麗に仕立ててあげる。髪結いも化粧も手配させるから」
「ひえ……凌家の力怖い」
「あ、あの」
曄琳は出られないのだと言い出せず、おろおろと手を握る。
茗らには既に伝えてあったが、当日は
宮妓の身請け話は時折出てくる話で、曄琳のそれも身請けへの足がかりかと疑われたのだ。本当に居心地が悪かった。燦雲は素敵ねぇと微笑むし、茗は顔色を悪くして『どこの馬の骨とも知れない男よりはマシだけど、あたしはまだ認めない』だのなんだの。
変に反応して話を拗れさせるのも面倒なので、曖昧に笑ってやり過ごしたが、果たしてこれが得策だったかは疑問である。
「なによ、曄琳は出ないの?」
曄琳の様子に気づいた碧鈴が聞いてくるので、そうですと返すも――。
「裏方くらいでは来るんでしょ?」
「え、ええ、そうですが」
「ならいいじゃない。あなたも当日は綺麗にしてあげる」
話がどんどん進んでいくので置いていかれる曄琳である。
「その眼帯はどうにもならないの?」
「と、取りません」
「絶対ない方がいいわ。化粧映えする顔してるもの」
「取りませんので!」
曄琳と碧鈴の間に茗が入る。
「この子にも事情があるの。無理強いしないであげて」
「むう……」
碧鈴が不本意だという顔でむくれるが、曄琳としては守らなければいけない一線でもあるので譲れない。
「ありがとうございます、姐様」
「いいのいいの。四華の儀の報酬は逃したけど、これはこれで役得よねぇ。この前仕立てた衣装は次の機会で着ようっと!」
もしかしたら貰える報酬よりも衣装の方が高いかもしれないのだ、茗のご機嫌な様子に曄琳は苦笑した。
◇◇◇
教坊への道すがら、茗とふたり歩いて帰る。燦雲は
「
茗が石ころを蹴りながら曄琳の先をゆき、曄琳は数歩後ろをついていく。揺れる茗の髪の毛を目で追いながら、曄琳は口ごもる。
「ご心配をおかけして申し訳――」
「あんたさ、あたしと別れた後に殿中省へ行ったでしょ」
ぎくりと。足が止まってしまった。
「おっ、やっぱそうなんだ」
振り返った茗がニカリと笑う。
「カマかけたんだけど、当たったね」
はめられた。曄琳が気まずそうに視線を彷徨わせると、茗が横並びになるよう歩調を緩める。
「いいじゃん別に。
「や、疚しいって……」
「ちょっと会って話すくらい、誰も気に留めないわよ」
背中を叩かれて、曄琳は前につんのめる。
実は、気まずかったのはそこじゃない。曄琳は茗の袖を引く。
「…………怒らないんですか?」
「え、なんで?」
「私は姐様に何も話さなかったじゃないですか。なのに、その」
「あはは! なにそれ、気にしないわよぉ」
茗の日に焼けた髪が風になびく。
「小曄が元気になれる方が大事よ。あたしはあんたと楽しく楽器を弾けてれば十分!」
笑顔が眩しい。曄琳もつられて笑ってしまった。
(私の周りには優しい人がいっぱいいる)
いつか、話せるときがきたら。茗姐様の優しさや笑顔に救われた瞬間がたくさんあったのだと伝えたい。曄琳は自身の心が少し前向きになったのを感じた。
石蹴りを止めた茗は一転、にやりと口を歪めた。
「――で?
「ばっ……何言ってるんですか!?」
「え? だって二人きりで会うような仲なんでしょ? 何にもないわけないわよねぇ?」
先だってのことが頭に思い出されて、曄琳はぐうと言葉に詰まった。
「お、赤くなって。いいわよ、野暮なことは聞かないでおいてあげる」
「想像してるようなことは何もないですからね?」
「あらあら、想像してないようなことはあったのねぇ」
……もう何も言うまい。墓穴を掘るばかりだ。
曄琳がだんまりを決め込むと、茗が楽しそうに曄琳の頭をなで回す。
「身請けもあんたが幸せになれるならあたしはいいと思うわよ」
「その話も、私は――」
反論しかけて、曄琳はふと自分の未来を想像した。
この騒動が一段落して、全ての真実を知った後、自分はどうなってしまうのか、と。すぐに皇太后に真実を問いただすまで至ることが出来たとしたら、何か変わるのかもしれない。しかしそれは難しい。折を見て、の折がいつ来るかわからない中で悠長に宮中に居続けることは危険すぎる。
立場も状況も何も変わらないのであれば、長くここに居続けることはできない。つまりは。
(王城の外に逃げるしかない、のか)
想像して――前ほど嬉しくないことに気づく。
ここで出会ったたくさんの人の顔が思い出される。茗とも、燦雲とも、淳良とも、未来が楽しみだと思った碧鈴とも――暁明とも、別れる日が来る。
(全部捨てないといけないんだ)
茗が暁明のあれこれを話す姿を見ながら、曄琳は服の端を握りしめた。
皆とずっと一緒にいられる未来があったら――なんて、一瞬思うことくらいは許されるだろう。
無理矢理に笑顔を作ると、茗の横に並んだ。
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