第36話 異母弟
二人で
岸から亭へかかる太鼓橋は夏の日差しを受けてカラリと乾き、ささくれ立っていた。池には白い蓮が咲き誇り、数羽の水鳥が庭石と梢の間を行き来しているが、畔に
曄琳は
(小さい)
これで
亭に着くと、長榻に座ることはせずに淳良は立ち止まった。彼の長い衣が揺れる。生ぬるい風が肌を撫で、水面にさざ波が立った。
「
唐突に暁明の名を出され、曄琳は肩を揺らす。水面へと視線を向ける彼には見えていないことだろう。
「
「それは、その……成り行きと言いますでしょうか、色々ありましてですね」
「そうだろうな。暁相手なら」
緩く笑う淳良の横顔は己の側近の性格をよく把握しているようであった。
まさか耳に入っていたとは。曄琳は話の先が予測できず、口を噤んで続きを待つ。
「だから、曄琳にききたい」
淳良が振り返る。
「
「…………え」
「暁が信頼してうごかしている人なら、まっすぐにこたえてくれるとおもった。どうおもう?」
吸い込まれそうな丸い黒の瞳がこちらの出方をじっと伺っている。まだ幼い、五歳の
暁明は以前彼のことを聡明だと言っていたが、曄琳は少し違うと思った。
聡明というよりは、
えらんだほうがいいのか。その聞き方はまさに曄琳の受けた印象そのものものだ。
「私は、その」
答えに詰まる。
まるで己に突きつけられているような問いだ。暁明は正しいのか、曄琳の今の行いは正しいのか、と。
曄琳は暁明の手駒だ。それを淳良も理解しているはずだ。命令通りに動く手駒なら考える必要のない問題を、あえてこの子どもは聞いてきた。純粋が故の、残酷な質問ともいえた。
曄琳の心中を推し量ってか、しばしの後、淳良は肩をすくめた。
「こたえられないなら、無理にこたえなくていい。いつも周りを固めている臣下いがいの話がきいてみたかったんだ。曄琳も余計なことをいったら、暁に怒られるんだろう?」
けらけらと笑う淳良に、曄琳は言葉を失う。
「余がおさないのがいけない。まわりや
「そんなことは」
「じぶんがいちばんわかってる……はやく大人になりたいな」
子どもらしからぬ凪いだ瞳が水面を映す。
曄琳はたまらず膝をついた。不敬にあたるだろうが、目線が近くなるよう腰をかがめる。
この小さな少年に、立場や正論を押し付けることは曄琳にはできなかった。暁明の意に反したとしても、今の曄琳にしか出せない答えを伝えなければ――半ば焦燥にも駆られるように、口を開く。
「私が答えられる範囲なら、答えます」
「凌碧鈴について?」
「はい。私は、今の政治情勢について
「よいぞ、それで」
淳良が真っ直ぐな目でこちらを見ている。初めて間近で彼を見た。柔らかな薄い皮膚だ。この豪奢な衣は重くないだろうか。
「私は、主上の心に寄り添ってくださる姫様をお選びするべきだと思います。主上が真に心を許し、共に支え合える方です。そこに碧鈴様が当てはまらないのであれば……それは、主上にとってあの方が必要ではないということなのだろうと思います」
「暁明や臣下のいう、派閥は無視しろと?」
「政権や派閥の安寧は、心の安寧にも繋がるでしょう。避けられないことだと思います。でも……家族というものも何にも変えられないものです」
「家族?」
「はい。主上に寄り添う後宮の妃嬪は、主上の家族となる方ですよ」
淳良がきょとんとした顔をした。
「私は、心のまま、主上が大事に思われる方をお側に置かれるのが一番幸せなことだと思います。心から主上を想ってくださる姫様は、きっと真の意味で主上のお力になってくださいます」
淳良は呆気にとられた様子であったが、しばらくしてふっと破顔した。
「ふふっ、はははっ! 家族か。そんなことを言われたのは初めてだ!」
「き、綺麗事なのは重々承知しております」
「わかってる」
淳良は眉を下げて曄琳の手を取った。
「わかっていても……はっきりとそう言ってくれたことがうれしかった。余や暁明が言えない答えだった。ありがとう」
曄琳が知りうる、たったひとりの異母弟。たったひとりの、家族。
――どうか幸せになってほしい。
曄琳の願いは、それだけだ。
「曄琳、なんで泣いてる?」
だから、指摘されて初めて気づいた。慌てて手の甲で拭うと、雫が地面に落ちた。気遣うように淳良に顔を覗き込まれた。
「だいじょうぶか?」
「はい、お気遣いありがとうございます」
「……その目は、もう痛くないか?」
気遣わしげな淳良の目は、曄琳の左目に向いている。暁明がどう説明しているのかわからないが、怪我だと思っているのだろう。
「平気です」
「そうか。よかった」
穏やかに笑う淳良は、硬い表情で護衛に囲まれているときより、ずっと幼く、のびのびとしていた。
未だに曄琳の手を握る淳良は、紅葉のような手で曄琳の指を握る。
「曄琳、ふしぎだな。こうしていると、かあさまを思い出す」
「そんな、畏れ多いことです」
「……ぼくの家族は、かあさまだけだったんだ。でも……これからはたくさん増えるんだな」
先帝には公主がたくさんいただろうに、淳良にとっての家族は亡き
彼の横顔がここへ来たときよりも、ほんの少し晴れやかになっていることに気づいて、曄琳は安堵した。
亭から戻ると、護衛や明星からの視線が痛かった。
あの距離だ、何を話していたかまではわからないだろうが、淳良とやけに近づいて話していたのだから不審な目もされるというもの。
曄琳は泣いたことが知られないよう、俯きがちに彼らの横を通り過ぎる。
「曄琳」
淳良が小さく己の名を呼んだ。振り返ると、にかりと笑う彼と目が合った。
「凌碧鈴とはなしてくる」
そう言って足取り軽く碧鈴の
目があった気がして。
曄琳はその視線から逃れようと、急いでその場を離れたのだった。
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