第16話 人攫い再び
これは、まずい。
すぐに駆け出したが、相手の方が早かった。すぐさま襟首を掴まれて後ろに転倒してしまう。
「逃げるなよ、お嬢さん」
荒い手つきで手首を掴まれて締め上げられる。見上げると、肩に麻袋を下げた薄汚れた大男がひとり、剣をちらつかせながら下卑た笑みを浮かべていた。肩の袋は人ひとりがすっぽり入りそうな大きさで。
(こいつ人攫いか!)
慌てて立ち上がろうとするが、当然押さえつけられる。助けを求めようと門の衛士を振り仰ぐも、気まずそうに目をそらされた。極めつけに衛士は声量を抑えて大男をせっつきだした。
「おい、早くしろよ……誰か来たらまずい」
ああ、手詰まりだ。金でも掴まされているのだろう――この二人は仲間なのだ。
「わかってるさ。こういう目出度い日は、門で待ち伏せするだけで宮廷から女が勝手に出てきてくれるから有難てぇよなぁ」
大男が上機嫌に曄琳に袋を被せてくる。
曄琳のように、外廷に出られる機会に脱走を目論む宮女や
なかなかよく出来た商売だと曄琳は唇を噛む。
捕まったら都から遠く離れた妓院にでも売られてしまうんだろう。
(そんなこと絶対に…………って、ん……? 妓楼だろうとなんだろうと、宮廷から離れられるならなんだっていいのでは?)
売られてしまえば、絶対に宮廷に戻れなくなる。が、戻れなくなるのは曄琳的には大歓迎だ。売られた先でまたすぐに脱走すればいい話なのだから。
曄琳は抵抗を止めてじっとすることにした。何なら袋に入れやすいよう、頭すら差し出してみる。
「き、気持ち悪りぃな。アンタ売られたいのか?」
大男が引いている。
そういうのはいいので早くさっと袋に入れて欲しい曄琳である。人目につく前にさあ早くと曄琳が自ら頭を突っ込もうとしたとき、大男が曄琳の顔に手を伸ばしてきた。
「ずっと気になってたけどよぉ、髪で顔を隠してるがアンタ相当な上玉だろ」
「ちょっと触らないで! 止めなさい!」
「売っぱらう前に一発――」
左目を隠す前髪が男に雑に掻き分けられた。顔を逸らそうにも、顎を掴まれて前を向かされてしまう。
光が眩しい。曄琳は顔を歪ませる。
久々に左目が白日の下に晒された。遠くで時告げの鐘が鳴っているのが聞こえる。
曄琳の両目と目を合わせた大男は、片方の紅い目に一瞬怯んだような顔をした――が、すぐに口端を歪ませた。
「……はっ、欠陥品かよ。顔はいいのに勿体ねぇ、これじゃ売れねぇじゃねぇか」
顎から手を離され、突き飛ばされるようにして地面に転がされた。顔を砂が擦る。頬が焼けるように痛い、切ったのかもしれない。
――欠陥品。
曄琳は口の中で繰り返す。
「そうやって隠してれば他の女みたく売れるとでも思ったのか? 売れねぇよ、そんな気味悪りぃ目。こりゃハズレだな!」
確かに曄琳は人と違う目をしている。片目だけ紅いなど、嫌でも人目を引いてしまうことは身に沁みて知っている。
でも隠していたのはこの目が恥ずかしかったからではない。隠さねば生きていけなかったからだ。
曄琳は砂利が食い込むことも構わずに手を握り込む。
――曄琳、あなたの目は紅玉みたいね。とっても綺麗。母さん、大好きよ。
頭の中で、春の日のような穏やかで優しい声が曄琳の頬を撫でる。
――いつか都を出たら、眼帯をつけずに母さんとふたりでのんびり暮らしましょうね。
そんな日は結局来なかったけど。曄琳が十を過ぎたあたりから、
(誰が……誰が欠陥品なもんか)
曄琳だって隠さずに生きていけるものなら隠さずに生きたいのだ。それを、生まれが許してくれない。
楚蘭だけが曄琳の目を知って尚、愛してくれたのだ。
呪いだなんだと言って命を奪おうとした他人や、見ず知らずの男に欠陥品呼ばわりされる覚えなど、ない。
こんな奴に攫われてやるものか。宮中からは自分で走って逃げてやると曄琳は歯を食いしばる。
曄琳は怒りで煮え立つような血潮に勢いを任せて、目の前の大男に頭突きをかました。男がよろけた隙を見てすかさず立ち上がる。頬からぼたりと血が落ちて、地面を汚す。男の象徴でも一発蹴り上げてやろうと足を大きく振りかぶった。目の奥がじくじくと熱かった。
「誰が……っ」
「――誰が欠陥品ですか」
曄琳の台詞が横取りされた。
と同時に、大男の身体が宙を舞った。
曄琳が蹴ったわけじゃない。そもそも曄琳は男を吹っ飛ばせるような脚力を持ち合わせていない。
ならば誰がと固まる曄琳の目の前に、緋色の官服が翻る。
(いや、嘘……)
そこには、軽々男をふっ飛ばした麗しの文官殿がいた。
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