第1章 出会いは突然に

第1話 耳の良い少女



 

 

 東方の覇者とは即ち、我が寧楽ニンラ国のことである。


 首都昌州チャンヂョウが中央、王城戴く乾山かんざんは今日も居高くそびえ立ち、岩肌の目立つ山裾を昌州一帯に広げていた。見た目はさながら天を貫く岩の剣。下民を寄せ付けぬ天子の山である。

 その無骨な裾野からは蛇行した大街道が伸びている。王城から伸びるこの大街道は山を延々と下り続け、やがて昌州を囲う広大なかこいへと繋がるのだ。

 郭には大街道と結ぶ東西南北、四つの門が配されており、常時大勢の往来で賑わっている。ちょうどここから見えるのは南門と東門――どちらの喧騒もこちらまで聞こえてきそうである。

 

 本日も晴天。

 疎らに雲が散る夏空と、立ち並ぶ官舎にいらかあかがよく映える。


「はあ……地上が遠いよう……」


 しょぼくれた少女がひとり、艶のある欄干らんかんから身を乗り出して下界を見下ろしていた。いや、決してここが天上界だなどと言うつもりは毛頭ないが、この高山から見下ろす風景は毎度下界としか表現しようがない。

 全てが小さく見える。もといた貧民街など、紙にぽたりと落ちた墨の染みにしか見えない。

 

 地上から切り離された場所。一度昇ると降りることが叶わぬ場所。それが宮廷という魔窟だ。


 そんな魔窟に取り込まれた少女――名を沈曄琳シェンイェリンという。


 曄琳の目の下には、平素にはない青褪めたくまがあった。今朝は夢見が悪かったのだ。うなされて飛び起きたせいで、寝癖も酷い。

 ちなみに夢とは、今の隈と同じような色をした衣に身を包んだ官人に鞭打たれる夢だった。

 夢はこれからの予知、あるいは心の不安ともいうらしいが、曄琳にとってはどちらも当たっている気がして――目覚めとともにため息が出た。

 

 隣で寝こける同僚の足を踏まぬよう雑居舎から抜け出るのは骨が折れたが、外に出たのは正解だった。随分気が晴れた。風に当たりながら、曄琳は朝日に浮かび上がる殿舎の中に意識を向ける。


 衣擦れ、床の軋み、水音、欠伸、人数は三……四人。

 屁をこく音に、髪をかき回すような音が混じり――昨晩の宴席で面倒な絡み方をしてきた下官への悪口が飛び交う。


 耳が良すぎるというのは便利だが、聞きたくないものが聞こえるというのも嫌になる。朝日とともに浮き上りかけた気分が、また少し落ち込んだ。

 

 曄琳の耳は生まれつき他人には聞こえない音を聞くことができた。遠くの音から、小さな音、そして常人が聞き取れないような細かい音まで。

 これを耳がいいと一括りにしていいのか判然としないが、集中すれば隣の建物で茶缶の蓋が開く音や、針が落ちる音まで判別できた。


姐様ねえさま方が起きてきたなぁ。戻った方がよさそう)


 曄琳は眠い目を擦り、欄干からひらりと飛び降りた。

 


 



 春真っ盛りの、艶やかな桃色の花が散る季節だった。極東より贈られたという、この儚く散る花木はさくらというらしい。

 

 曄琳は三月みつき前、櫻の散る季節に養母に売られた。

 

 有り体にいうと、捨てられたのだ。

 

 どんなに絶望したか。人買いに連れてこられた女の末路など家人けにんに劣る扱いを受けるに決まっている。家畜の如き扱いで宮門きゅうもんに放り込まれた時点で、もうお察しである。

 

 どうにか下界に降ろせとわめき続けること、三日三晩。曄琳の意地も虚しく、身辺改めの官人どもにはまるっと無視された。

 

 ああそうか、泣こうが喚こうが事態は変わらぬのだと、曄琳は泣き腫らした目を擦り受け入れた。

 

 そして諦めがついた。

 正攻法が無理なら――潔く脱走するしかない。

 決意を新たにした。


 曄琳は育ちは都の貧民街だが、生まれはここ、王城である。生まれが複雑なのだ。

  

 曄琳の生母・沈 楚蘭シェン チュランはかつて後宮の妃嬪だったそうな。しかし、あることをきっかけに楚蘭は後宮から脱走することになる。

 

 そのきっかけが、曄琳の誕生だった。


 楚蘭は皇帝と共寝をし、腹に宿った曄琳を産み落としたとき、娘の左目があか色をしていることに気づいた。右目は黒なのに、左目だけ色が違っていたのだ。

 

 お産に立ち会った女官らが騒いだ。

 片目が紅いだなんて、何か呪いを受けて生まれてきたに違いない。憐れな皇家の呪い子。きっと殺されてしまう――と。

 

 何の罪もない赤子を前にして酷い話である。

 しかし楚蘭は震え上がる。

 既に今代公主こうしゅは十人をゆうに越している。ひとり娘が欠けたところで何ら不都合はなく、残酷な決断を下される可能性は大いにあった。


 可愛い我が子を守りたい一心の楚蘭は、心を許していた女官数名の手を借り、産褥婦さんじょくふの思うように動かぬ身体を引きずりながら、首も座らぬ曄琳を抱えて後宮からの逃亡を図ることとなったという。

 全て楚蘭から聞いた話だ。


 時代は巡り、父皇帝がたおれ、新たな皇帝が立つ今現在。


 要約するに曄琳は長公主ちょうこうしゅという立場になっていた。

 生まれてこの方十七年、一度もおおやけになったとこのない、幻の呪い子・隠れ長公主である。


 何の因果は不明だが、宮廷に舞い戻ることになんぞ思っても見なかった。素性が知れたら、おそらく曄琳は首と胴体がぽーんて切り離される。

 曄琳は常々そう思っていた。夢は心の現れ、大いに結構。夢見の悪さも納得である。

 

 後宮から逃亡した妃の娘、しかも呪い子と騒がれた女ならば、長公主という立場を伏せられたまま処刑されるということもありうる。

 そんな悲しい結末、受け入れたくない。

 母が繋いでくれたこの命、むざむざと捨てることはしたくなかった。


 ――母様、草葉の陰で見守ってて。私、絶対に外に出て見せるから。


 楚蘭は三年前、病で他界した。故に市井に降りたところで曄琳が身を寄せられる身内もいないのだが、命の危険に怯えながら宮廷で過ごすより、ずっといい。

 曄琳の願いはただひとつ、母が望んだささやかな幸せを――ささやかな人生を生きることだった。



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