第11話 浄化のハグ


「何あれ……」


  ぶわりと腕に広がった鳥肌をさする。二週間前は、こんなことになっていなかった。

 森の向こうには海が見えていたのに……。


  また、一匹の虫が私の視界を横切っていく。


「どうなってんの?」


 誰も答えることなどない質問。だが、背後から落ち着いた低い声がした。


「何かあったのか?」

「……白樹さん。帰られたのですね」

「あぁ。また明朝みょうちょうには出る」


  そう答える白樹さんの腰の刀からは、あの虫のような黒いものがくっついているのをさやの上からでも感じる。


「また討伐に向かうんですか?」

「あぁ。凶暴化した獣をそのままにしておくわけにはいかない」


 そうかもしれない。だけど、白樹さんをまとう空気が今日もまた重たいのだ。 少しずつ、ほんの少しずつ白樹さんを疲弊させ、取り込もうとしているのではないか……。

 根拠のない不安だが、あながち間違いとは言えない気がする。



「んっ……」


 両手を広げ、白樹さんの真ん前に立つ。

 そんな私を白樹さんが優しく包み込むように抱きしめた。私もまた白樹さんの背に手を回す。

  金木犀の香りが強い。それだけけがれがついたのだろう。


「刀の浄化をさせてもらえませんか?」

「これで十分だ」


 抱きしめ合い、白樹さんを浄化をすることは許してくれるのに、刀に触れることはいつも断られる。


「私は元気ですよ」

「いつまでも元気でいてくれ」

「私だって、白樹さんに元気でいて欲しいんです」


 白樹さんの胸にピトリと頬を寄せる。


  出会った日のことを白樹さんは後悔しているのだ。刀を浄化させたことが、私が長く眠ってしまった原因だと思っているのだろう。他の要因もあっただろうけど、それはきっと間違いではない。


 けれど、今の私はあの日よりもだいぶ現実を受け入れられている。 ここが夢の世界でもなく、死後の世界でもないと認められるようになってきている。


  今ならもう大丈夫だとわかる。



「私なら大丈夫です。やらせてください。そのために私は呼ばれたんでしょう?」


  白樹さんは言っていた。この世界の人間を花嫁にできないのは国を守る能力がないから・・・・・・・・・・・だと。私にはその能力がある・・のだと。


  白樹さんを見上げれば、ひどく苦しそうな表情かおをしていた。


「白樹さん?」


 そっと頬に手を伸ばす。どうしたのだろう。何がそんなにつらいのだろう。


「真理花は、本当に何もしないでいい。ただ、元気で笑っていてくれたら──」

「でも!」


  それでは白樹さんが苦しむだけだ。今日だって見せないようにしてくれているけど、疲れが溜まってきている。

 穢れを落とせても、私には癒しの力はない。 たまたま飛んで来た虫みたいなものを浄化して、白樹さんを疲弊させる穢れをきれいにするだけ。

  私は何の役にも立てていない。


「頼む。浄化のために呼ばれたなんて言わないでくれ……」


 頬に触れていた手を取られ、指先に唇を落とされる。


「神が俺の花嫁に真理花を選んだが、例え能力がなくても……」


 白樹さんは言葉を紡ぐのを止めた。 変わりに紡がれたのは「ごめん」という謝罪と「俺にそんな資格はない」という諦めの言葉。


「私は、この力があって良かったと思ってます」

「真理花?」

「まだここに来て短いですが、大切な人ができました。その人たちを守れる力が私にはある。それって、すごいことだと思いませんか?」


 白樹さんの瞳のなかで私が笑っている。


「守られてばかりは御免ごめんです。私にもあなたを守らせてくれませんか?」


  驚きで見開かれた瞳は真ん丸で、すぐにくしゃりと笑った顔は、今にも泣き出しそうでどこか幼い。


「どうして……。どうして、そんなに強くいられる」


 きっと独り言だったのだろう。だけど、聞こえてしまった。それだけ近い距離にいるから。


「私は強くなんてありません。白樹さんが守ろうとしてくれるから、強くなれるんです」

「……そうか。ありがとう」


  白樹さんが私の肩に頭を埋める。何だか可愛くて、その頭を撫でる。

 さらり、さらりと新雪のような真っ白な髪を撫でていると、また私の回りを虫のようなものが飛んだ。


 思わず視線を森の方へと向ける。


「……白樹さん。森の先には何があるんですか?」


 森の向こう側が、海があった場所が黒く染まっている。あれは、何なのだろう。

 みんなは見えてるのだろうか。 もし見えてなかったら、さすがに報告しないとまずい気がする。飛んで来る虫とは比較にならない。

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