第冪集合話
ミストルティン公爵家の屋敷は宮殿の北東の城壁の近くにある。フロイデン王国の宿敵オスワルド帝国の一番近い国境があるのも、王都から見ると北東側だ。
つまり、ミストルティン家はオスワルドから王都を守る盾として存在しているのだと、四公家の中でももっとも厚い信頼を寄せられているのだと。父、エーリヒ公爵はよく僕に聞かせてくれた。
†
平和で豊かだった頃の屋敷は夜でも正門の篝火を絶やさず、母屋へと続く道にはたくさんのオイルランプが掛けられていた。だけど今、広大な庭には明かり一つ灯っていない。
屋敷の守衛たちは、非常時につき来訪の予定のない客は全て追い返すようにと言われていたそうだ。
「今はお客様は通せません、どうかお控え下さいクローゼ様」
「僕は客じゃない、この家の六男だ。責任は僕がとる」
戸惑う守衛たちを押しのけ玄関ホールに踏み込むと、執事長が飛んで来る。
「ああクローゼ様、何故お戻りになられてしまったのですか」
「もっと早くに戻りたかった、疫病の事を知っていれば。これでも大急ぎで帰って来たんだ、皆は無事ですか」
「それは、その……」
「……クローゼじゃないか! 戻ったのかよ!」
そこに吹き抜けの二階から顔を出して急いでやって来たのは、僕の一つ上の兄、カールだった。
「お前は疫病になってないんだな、父さんは許してくれたの?」
「カール、僕は勝手に帰って来たんだ、疫病の事で父さんと話したい。父さん、どうしてる?」
カールは僕と三か月しか離れてない、母親が違う事も気にせずゲームや遊びに誘ってくれる、気さくで友達みたいな兄ちゃんだ。
「何も聞いてないのか。もう長く寝込んでるよ」
「えっ……父さんも疫病に?」
「いいや。お前を遠くに追い出した頃から寝込みがちになってた」
そんな事、僕は少しも知らなかった。僕はすぐに後ろに居たシルレインに視線を向ける。だけどシルレインは目を丸くして小さく首を振る……シルレインも知らなかったのか。
執事長は明日にする事を提案したが、カールは今すぐ会えばいいと言った。僕はポポロンとレーニャも連れたまま父の居室の方に向かう。カールもそれに付き合ってくれた。
「俺が様子を見て来るよ」
居室に着くとカールはそう言って先に一人で部屋に入って行った。カールは父のお気に入りだし、その方がいいと僕も思った。父は、勝手に領地から帰って来た僕の事をどう思うだろうか。
カールはすぐに、父が療養している部屋から出て来た。
「今すぐ、話がしたいって」
戻って来たカールは見習い執事とメイドを連れていた。これは病床の父の面倒を見ていた人達だろう。つまり父は今一人で中に居るのか。
部屋に入る僕に、シルレインはついて来ようとしたが、カールは立ち塞がってそれを止める。
「俺だって外に出てろって言われたんだから。クローゼ、一人で入って」
†
父の私室に入るのは初めてだった。
父は公爵家の当主という特別な存在でありそれは市井の普通の父親とは一緒ではない。それを抜きにしても、僕は父とはあまり仲が良くない親子だと思う。
母親が居なかったせいもあるよな……僕の母は父の側室で、僕の物心つく頃には追放されてしまっていた。
複数の部屋を抜けた先に父の寝室はあった。父は大きなベッドで寝ていた。僕を屋敷から追い出した時より、だいぶ痩せたように見える。
「お久し振りです父上。ルーダン城の城代のクローゼです」
「そんな言い方をしなくても、忘れるものか」
父は明確に弱っていた。その表情にはかつてのような覇気はない。
「ですが私は城代の任務の途中で、無断で戻って参りました。どうかその事をお詫びさせて下さい」
「カールから聞いた。シルレインは今でも一緒なのだろう? あれはいい子だ」
僕は自分の落ち度の話をしたいのに、父はシルレインの話をして来た。
「お前達は昔からいつも一緒だった。お前をルーダン城に派遣する事になった時も、すぐに随行を名乗り出て……私は一応、程よい所で戻るように言っておいたが、どうせお前と一緒にルーダン城まで行くだろうとも思っていた」
「あの……シルレインはとても助けになってくれました、旅の上でもルーダン城でも、不甲斐ない僕を本当によく補佐してくれました、どうか彼女には罰を与えないで下さい」
「馬鹿を言うな、あの子には感謝しかないよ、私やミシディアに代わり、う……ごほっ……」
父は咳込み、少しの間沈黙してから、続ける。
「……一つ、白状しておきたい事がある。お前の母、ミシディアの事だ」
「私が幼い頃に、追放されたと聞きました」
「あれはうそだ。彼女は私に愛想を尽かし、自分から出て行ったのだ。世間体を考えて私が追放した事にしていたが、私は本当は彼女を手放したくなどなかった……今まで黙っていて悪かった。許してくれ、クローゼ」
突然の父の告白に、僕の心は揺れる。そんな……だけど母はなぜ幼い僕を置いて出て行ったのか、そもそもなぜ僕は生まれる事になったのか、だけどそんな事を聞いていいのか、そもそも父の話はどこからどこまでが本当なのか……いや待て!
「父上、何故今そんな話をされるのですか、それより僕に謝罪をさせて下さい、僕が無断で戻って来たのは疫病のためなのです、父上、僕はこの疫病を止める手段に心当たりがあります、どうかその話を聞いて下さい!」
僕は身を乗り出し、病床の父に迫る。父は僕の目をじっと見つめ、力なく笑う。
「そうしていると、ミシディアが帰って来たかのようだ……お前は彼女にとてもよく似ている。勝気な彼女に、私はよく叱られたよ」
「何の話です父上、真面目に聞いて下さい」
「無理だよクローゼ、私は間もなく死ぬだろう、そして病による苦痛と衰弱でね、頭がぼやけて……今の私は、昔の事くらいしか考えられない」
僕はただ、父の手を取っていた。あんなに恐ろしかった父の手が、今は小さく見える。
「そんな事を言わないで下さい、病があるなら治せばいいじゃないですか、父上はまだ若いです、死ぬような歳ではありません」
僕は前世の記憶を持つ子供で、そのせいか自分の人生の問題を他人事のように俯瞰して見ている部分もある。
だけどこんな風に力を失った自分の父親の姿を見るのは、辛い。
「お前は疫病を止められると言ったね……そんな事が出来るなら本当に素晴らしい。クラウスもアリウスも、お前には一目置いている……私は何も出来なくてすまない。どうか兄弟姉妹で助け合い、この国を、フロイデンを守って欲しい」
「あ……ありがとうございます、父上」
ここは一つの関門だった。父は、エーリヒ公爵は勝手に任地を離れた僕が、王都で疫病対策にあたる事を許してくれた。良かった……これで今しなくてはならない話は済んだ。
僕はもうこの部屋を離れても良かったのだが、父の表情は、まだ何か話を聞きたがっているようにも見えた。
「父上。ルーダン城は良い所でした」
病で衰弱した父を前にして、僕は今だけ、疫病の事を忘れる事にした。
「空はよく晴れ海は穏やかでその水は透明、海底まで見渡せる海にはたくさんの魚が居ます、海辺には明るい色の砂浜が広がりそよ風が吹いています、気候は温暖で寒い日はありません、景色は非常に美しい、そこに済む人々、獣人は純朴で陽気で人懐っこくて、とても可愛らしいのです」
「……そうか。そんなにいい所だったのか」
「父上にも是非お見せしたいです、あの城で療養すればどんな長患いも治ります、父上、どうか諦めないで下さい、元気になって、必ず一緒にルーダン城に参りましょう」
†
父はまるで三歳の子供にそうするように、笑ってそれを請け負った。わかった、約束すると、必ず元気になってお前とルーダン城に行くと。お前も長旅で疲れたろうから、今夜はもう部屋に戻ってゆっくり休めと。
厳しかった父の変わりように僕は内心ひどく動揺していた。だけど同時に、何とも温かい気持ちになるのも抑えられなかった。
近くて遠い他人だった父。親というより厳しい上司でしかないと思っていた父。だけどこれからはもう少し、親しい気持ちで接する事が出来るだろうか。
その翌朝。執事長は旅の疲れでなかなか起きられなかった僕を起こし、肩を落として告げた。
「クローゼぼっちゃま。旦那様が、公爵閣下が亡くなりました。夜の間に旅立たれたようです、とても……安らかなお顔で」
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