第五話 オリーブ・フルーツ姫の過去

 夕方、休憩室でぼんやりしていると、スマホが震えた。篠井さんからのメッセージだった。

 わたしがバックヤードで泣いてた時間に、篠井さんが来店していたそうだった。長らく戻ってこなかったわたしを心配し、連絡をくれたらしい。


 昇格試験に落ちたと返信すると、彼女からすぐに「飲んで気分を上げましょう」と食事のお誘いがあった。

 主任も落ち込んでいるわたしを気遣って、はやく上がらせてくれた。


「今回は、残念だったわね」


 マティーニのグラスを傾けながら、篠井さんが気遣わしげに言った。

 篠井さんは今日も、フェミニンな装いをしていた。ラベンダー色のニットに白いカーディガンを肩にかけ、オフホワイトのタックパンツを履いている。一分のすきもない色っぽさだ。


 おしゃれな篠井さんの前で、泣きはらした顔をしているのが、ちょっと恥ずかしい。


「わたし、篠井さんにお会いするとき、いつもかっこ悪いところばっかり見せてますよね」


 商品マスタが消えてしまった日。「主任の失恋は自分のせいだ」と自己嫌悪に陥っていた日。そして、試験に落ちた今日。

 つらいことがあるたびに、篠井さんに泣きついては、優しく慰めてもらっている。


「ほんとは、試験に合格して、篠井さんに『受かりました』って報告したかったなあ……」


 ルビーのように赤いビショップが、店のライトを照り返している。赤ワインとオレンジジュース、レモンジュースを使った、甘いお酒。最近はプライベートでも、つい野菜や果物を使った飲み物を選んでしまう。


「でも、資格なんかなくても、瓜生ちゃんの接客は一流だと思うわよ」


 いつもと変わらず、篠井さんは優しい言葉をかけてくれる。


「わたしもいまでは、部下を持つ身になったけど、若いころはやっぱり何度もくやしい思いをしたわ」


 わたしを慰めるためにか、篠井さんは自分の若いころの話をはじめた。


「ちょっと仕事で評価されれば、『色目をつかったんだろう』とか『顔で得してる』とか。さんざんな言われようだったわ」


 篠井さんはきれいなひとだ。彼女のような美しさを保つためには、ストイックな努力が必要なのだと、わたしにもわかる。

 仕事を正当に評価されず、そのうえ、努力で勝ち取った美しさまであざけりの種に使われるなんて。篠井さんは過去に、くやしい思いをしてきたのだろう。


「女が出世するって大変よ。男性に負けないようにがんばっても、『かわいげがない』とか『女を利用してる』なんて、仕事以外のことで、あれこれ言われるから」


 少し苛立った様子で、篠井さんがこぼす。彼女のそのぼやきに、茄子なすとげのような小さなひっかかりを覚えた。

 わたしは、首をかしげてたずねた。


「お料理教室にも、男性の講師ってたくさんいるんですか?」


 たしかに、世の中には男性のシェフや料理研究家は多い。現に、このダイニングバーのマスターだって男性だ。

 けれど、料理教室には、女性講師が多いイメージがあった。女性講師と熾烈しれつな出世争いをするほど、男性講師がたくさんいるのだろうか。

 篠井さんが「男性に負けないようにがんばっても」と言ったのに、なんとなく違和感を覚えた。


 篠井さんは、一瞬はっとした顔をしてから、オリーブと生ハムのピンチョスを手に取った。口に運び、ゆっくりと咀嚼そしゃくする。

 まるで、考えるための時間を稼ぐように。


 やがて、篠井さんは、ふだん通りの余裕のある笑顔を浮かべた。


「ええ。もちろん男性講師もたくさんいるわよ。近ごろは男性もふつうにお料理するでしょう?」


 言われてみれば、稲城さんだって自炊をしているし、夕方に野菜を買いにくる会社帰りらしき男性客もいっぱいいる。男性講師から料理を習いたいひとも、わたしが知らないだけで、たくさんいるのかもしれない。


「さ、いっぱい飲んで食べて、日ごろのさを晴らしましょ。瓜生ちゃんはなにが食べたい?」


 篠井さんはメニューをわたしの前に広げてみせた。まるで、話の方向をむりやり変えようとしているみたいだった。

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