スヴェンとティアーナ
がっくりと肩を落としながら帰っていくアルバンを見送ってから、スヴェンは改めて、ずっと黙っている彼女に声を掛ける。
「……と、言うわけで僕は君を買ったわけなんだけど」
「……ええ」
初めて聞いた彼女の声は、女性にしてはやや低い。しゃがれたような声だが不快感は全くなかった。
「主人として、早速だけど君に命令することがある」
すっと、彼女が身構える。
その理由の半分ぐらいは先程のアルバンの発言の所為だろう。今度会ったら軽く仕返しをしてやろうと、密かに決意した。
「君を解放するよ。何処へなりとも好きに行くといい」
「……どういうこと?」
「どうもこうも言葉通りの意味さ。僕達の会話を聞いていたのなら、理由は判るだろう。奴隷なんて興味ないし、第一支払う給料がない」
「……ふぅん、そう。なら、遠慮なく」
「ああ、そうしてくれ。まずは枷を外さないと……」
そこまで言ってから、アルバンが枷の鍵を置いていないことに気が付いた。
「あの馬鹿……。参ったな、今から走っても追いつけないだろうし……」
「それなら心配ないわ。一応確認するけど、枷は外してしまっていいのよね?」
「あ、ああ。そうだけど……」
「でもどうやって?」と、スヴェンが質問する前に、彼女は階段を降りていく。
別にこのまま何処かに行ってしまっても問題はないのだが、一応見送りぐらいはしようと入り口まで付いていった。
スヴェンの家は、小高い丘の上にあり、周囲に建物は何もない。申し訳程度の道が引いてあるが、スヴェンの家より人里から離れれば、そこは未開の地。自ら進んで行くものは自殺志願者ぐらいのものだ。
彼女は人が座れるほどの手ごろな大きさの岩を見つけると、「これがいいわ」と言いながら近付いていく。
そして両手を振り上げ、勢いよくその岩に叩きつけた。
「気持ちはわかるけど、危な……」
固い者同士がぶつかる音と共に小さな火花が散り、一撃で手枷と岩が同時に砕けた。
その光景にスヴェンが言葉を途中で止めていると、彼女は砕けた岩の欠片を持ち、今度はそれで叩いて足枷を破壊する。
忌々しげに金属でできたそれらを地面に投げ捨ててから、労わるように拘束されていた部分を摩る。
「……いや、驚いた。まさかホムンクルスがこれほどの出力を出すとはね」
現状、スヴェンが知りうる限りのホムンクルスとは、どれだけ肉体を強くしても人間程度の強度しか持たないはずだった。彼女の力はホムンクルスというよりは、獣や魔物の肉体を合成して作られるキメラに近いものなのかも知れない。
「最初から枷なんか意味なかったんだね」
「そうね。もしあの男が不埒なことをして来たら、殺すつもりだったわ」
成程、彼女を人間扱いしなかったことでアルバンは命拾いしたということだ。
「でも、それだけの力を持っていてどうして捕まったんだい? どうとでも逃げられたと思うけど?」
「逃げる理由もなかったから。痛みや苦しみを与えられることもなかったし、何処へ行こうとこの世界にわたしが一人であることに変わりはないでしょう?」
そう言った彼女の表情は、子供が拗ねているような、寂しそうなものだった。少なくとも、スヴェンにはそう見えてしまった。
彼女はくるりと踵を返すと、スヴェンの横を通り過ぎて、家の中に戻ろうとする。
「待った。どうして家に戻ろうとするの?」
「……もう夕方よ。時期に夜が来るから、そうしたら冷えるでしょう」
「今からでも急げば日が暮れる前に人里に付けるよ。なんなら送ってってもいいし、帝都までの路銀ぐらいなら出すよ」
ぽかんとした顔で、彼女はスヴェンを見る。
スヴェンがまるで急に異国の言葉を話し始めたかのように、意味が理解できていないようだった。
しかし、呆けたその表情は思いのほか可愛らしく、次の言葉をしばし忘れていた。
「必要ないわ」
「そうは言ってもあった方がいいよ。これからお金は必要になるだろうし」
「そうね。だから貴方が持っていて。わたしはお金の価値をよくわかっていないから」
「いやだから、僕が持っていても……って、話聞いてないね」
背中を向けて家の中に入っていく。
スヴェンは慌ててその後を追い、立て付けの悪い木の扉を後ろ手に閉めた。
そうしているうちにスヴェンの頭の中に沸いてきたのは、一つの嫌な予感だった。
「君、ひょっとしてここに住むつもり?」
「そうよ」
遠慮も、悪びれもない、淡々と答えて彼女はどうやって見つけたのか、床下にある食料保存庫の蓋を持ち上げていた。
「僕は好きなところに行けって言ったはずだよ」
「だからここに来たわ」
「来たっていうか、動いてないじゃないか」
「……細かい人ね」
「そう言う君は大雑把なのかな? 人の家の食糧庫を勝手に漁ることといい」
「いいじゃない。これから一緒に生活するのだから」
「今日一日じゃないんだ。驚いたな」
「ええそうよ。驚いたでしょう?」
言いながら彼女はパンと豚肉、野菜を持ちだして台所へと運んでいく。
「……君、料理できるの?」
「知識はあるわ。やったことはないけれど」
「だろうね」
溜息をつきながら、その横に並ぶ。
色々と言いたいことはあるが、急に追い出す理由もない。
火を起こし、肉を焼いて野菜を刻む。
それから僅かな時間で、肉と野菜の炒め物とパンが食卓に並ぶ。
一人用の小さなテーブルに、二人分の食事を並べ、額を付け合わせるようにして食べ始める。
「なかなか美味しいわ」
「そうかな? この辺りは土もよくないし、いい野菜も取れないんだけどね」
「ならまずは土壌をよくすることから始めるべきね」
「僕は別に、食べられれば何でもいいからね」
それはスヴェンの仕事ではない。この辺りを治める者が計画し、人や予算を使って大々的にやるべきことだ。
フォークを口に運び租借し、飲み込む。
何となしにその仕草を眺めながら、スヴェンは大事なことを聞きそびれていることを思い出した。
「名前」
「……名前?」
「君の名前だよ。まだ聞いていなかった」
「……名前なんかないわよ」
「……そっか」
別に不思議なことではない。
人の我が儘で造られ、自我を与えられ、必要がなくなったから処分されようとしていたホムンクルスに、名前などないのが普通だ。
何故か彼女はそれを悲しむわけでもなく、ただじっとスヴェンを見つめている。
長い睫毛の、切れ長の目の中にある瞳は、ルビーのように赤い。
やがて無言で視線を向けられることに耐えられなくなったスヴェンは、口に運ぼうとしてたフォークを皿の上に置いた。
「何かな?」
「名前、欲しいわ。貴方が付けてちょうだい」
囁くような声で、ねだるように彼女はそう言った。
その声はゆっくりとスヴェンの耳から侵入し、内側で熱を持つ。
「好きに名乗れはいいじゃないか」
ゆっくりとした仕草で、首を横振る。
「貴方に付けてもらいたいのよ」
何とも蠱惑的な響きだった。
スヴェンは内心で緊張しながらも、それを悟られないように溜息をついて、平常時の自分に戻すべく尽力する。
「ティアーナ」
「……ティアーナ?」
「そう。君の名前だよ。嫌なら違う名前を考えるけど」
「気に入ったわ。由来はなに?」
「……別に。大したものじゃない、本当に」
それは嘘だが、語るべきことでもない。
「ふぅん。ならわたしはティアーナ・フランケンシュタインということになるわね」
「……いや、それは」
「何か問題でも?」
首を傾げるティアーナ。
「まるで夫婦みたいじゃないか」と言いかけたスヴェンだが、いい年をしてそんなくだらないことを意識しているということが途方もなく恥ずかしいことのような気がして、何も言わないことにした。
「何でもない」
「良い名前。気に入ったわ」
スヴェンに笑顔を向けると、ティアーナは食事を再開する。
スヴェンも同じようにパンを千切って口に運び、フォークを再度手に取る。
いつもと同じ味気ない食事のはずなのだが、不思議とそれは美味しく感じられた。
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