第34話 告白トライアングル

 二階の窓からだと、陸上部に混ざって練習している千歌の姿がよく見えた。


 一人だけ学校指定の運動着じゃなくスポーティーなノースリーブにレーシングショーツという妙に気合の入った格好だったせいで目立っていたのもあるけど、なにより目を引くのはその走りだ。


 その才能を本人は決して誰かの役に立てたいだとか、世界のために活かしたいだとか、そんなことは一ミリたりとも考えていないんだけど、恐らく同期の陸上部女子たちからすれば、千歌の存在は目を灼かれるほどに輝かしく映っているのだろう。


 にっ、と不敵に笑って自慢の俊足で陸上部のエース……女子でありながら百八十センチはある先輩を悠々と抜き去っていくその姿は、あまりにも。あまりにも、眩しすぎるから。


 誰かに焦がれられるというのは、誰かに背中を追いかけられるというのは、そういうことだ。

 勝者には常に、誰かの悔し涙を、どれだけ焦がれても届かずに沈んでいく誰かの痛みを背負って立っていなければいけない、その悔しさを受け止めなければいけない義務がある。


 俺の才能は大したものじゃない。

 だけど、俺に勝てずにあのゲーセンを去っていったプレイヤーの顔ぐらいは今も思い出せる。

 憧れに届かず、心を折ってしまった人の。


 だから、千歌が本気で才能を使いたくないという気持ちも──その一種の傲慢ともとれる気持ちも、少しだけ理解できた。


 どれくらいのリードを取って千歌がゴールしたのかのを測るのさえ馬鹿馬鹿しくなるほどの大差をつけてフィニッシュを切った千歌が、二階に向けてピースサインを作ってみせる。

 もしも尻尾があったらぶんぶんと左右に振り回しているのがうかがえるぐらいの上機嫌さだ。

 そんな千歌に手をひらひらと振り返して、教室をあとにする。


 雪菜はいつも通り、正門で待っていることだろう。

 体育祭実行委員の仕事がある日はいつもそうして、日が暮れるまで俺と千歌を待ち続けてくれていた。

 それが俺は嬉しかったし、千歌も同じだと思っている。


 そんな日々が、少なくともあと二ヶ月後までは、千歌から与えられた猶予期間が終わるまでは続いていくものだと、少なくとも俺はそう考えていた。

 だけど、現実は違う。

 千歌からの告白。想定もしていなかったあの言葉は俺たちの関係に、言い方こそ悪いけど確実にヒビを入れた。


 今までは千歌との契約があっても、俺たちは概ねただの友達としてやってきたのに、それが上手くできなくなるほど──俺と千歌との間には、不可逆の変化が生まれてしまったのだ。


 だからってわけじゃない。

 千歌との関係の、距離の測り方がわからなくなったから、雪菜といつも通りに過ごすあのゲーセンに逃げ込みたいというわけじゃないんだと、自分に強く言い聞かせる。

 誰が聞いているわけでもないのに、言い訳のように。


 そんなことを頭の中でなんども繰り返しながら下駄箱まで辿り着くのに、どれだけ時間がかかったことか。

 あまり雪菜を待たせすぎるのもよくないと、上履きからいつものローファーに靴を履き替えて、踵を鳴らし、校舎を出る。

 すぐそばに見える校庭では、さっき見た陸上部に加えて、吹奏楽部やらサッカー部やら野球部やらがひしめいてランニングやトレーニングに精を出していた。


「おっ、空ー! さっきの走り、見ててくれた?」


 ぼんやりとそんな様子を見ていると、スポーツドリンクの入っているボトルに口をつけていた千歌が、俺の存在に気づいてか、ダッシュで駆け寄ってくる。


「見ててくれたというか、気づいてただろ」

「うひひ、バレてた」

「バレてたもなにも、教室に向かってピースしてただろ」

「うん。空が見ててくれたからね!」


 別に好き好んで見ていたわけじゃないんだけどな。いや、好き好んでか?

 自分でもよくわからん。ただ一つわかるのは、千歌がいつも通りに上機嫌そうなことだけだ。

 ぎくしゃくしているのは俺だけなんだろうか。だとすれば道化にもほどがある。


「……な、なんだよぅ。この格好、そんなに変?」

「……ああ、ごめん。ぼーっとしててさ」

「……」


 今度はむすーっと頬を膨らませた千歌の逆鱗がどこにあったのかまるでわからん。

 脛を蹴られなかっただけまだよかったのかもしれないけどさ。

 それに、特段おかしな格好をしているわけじゃない。体操着で埋め尽くされている校庭の中じゃ、一段と目立っていると思うけど。


「うひひ、そっかそっか。空には美少女たる私が眩しすぎたのか」

「そのどこまでも前向きな姿勢が羨ましく思えるのは確かだな」

「むー、つれないなぁ」

「……雪菜を待たせてるんだ、悪いけど先を急がせてくれないか」


 思ったよりもぶっきらぼうな言い方になってしまった。

 反省はしているけど、なにをどう謝ればいいのか見当もつかない。

 ただ、千歌は少しだけ気まずそうに曖昧な笑みを浮かべて、「そっかそっか」と、納得したようにぽつりと呟いていた。


「じゃー仕方ないか。それじゃ行ってきなよ、空」

「……なんか、その。悪かった」

「んー、謝ってくれただけ及第点、かな? 今度、埋め合わせはしてもらうからなー?」


 うひひ、と小さく笑って、千歌は陸上部のところに引き返していく。

 埋め合わせ、がなんなのかはわからないけど、丸一日千歌に付き合うことぐらいは想定しておいた方がいいんだろうな。

 そう覚悟を決めつつ、早足で正門まで歩く。


 そこには、思った通り校名が記してあるプレートの前で背筋を伸ばしてぴしりと直立している雪菜の姿があった。


「遅いですよ、空」

「ごめん雪菜、ちょっと千歌に捕まってて」

「……そうですか」


 少しだけ不機嫌そうに、雪菜はぷい、と俺から視線を逸らす。

 確かに、自分を待たせておいて他の女の子と喋っていたらいい気持ちはしないだろう。

 かといって、千歌を露骨に無視するのもそれはそれでどうなんだという気持ちもある。ならば、ここは素直に謝るべきだ。


「ごめん、雪菜」

「……いえ、怒ってはいません。ただ、少しばかり私も冷静ではいられないので」

「雪菜が? 珍しいな」


 パブリックイメージの通りに、雪菜がいつも真顔で冷静な女の子ってわけじゃないことは知っているけど、雪菜が自分から「冷静ではいられない」と言うほど、なにか深刻な事情があったのだろうか。

 訝るように向けた視線に、雪菜は少し気恥ずかしそうに頬を染めてぷいっ、と俺から目を逸らしてしまう。

 いよいよもってなにかあったのは確定だと、言葉はなくてもその姿勢が物語っていた。


「……雪菜?」

「……空、今から私が言うことはとても身勝手です。とても……自分本位なことです。ですが、怒らないで聞いてくれますか」


 いつもならなにも語らずゲーセンに足を運んでいるところを、雪菜は瞳を潤ませてそう問いかけてくる。


「あ、ああ……でも珍しいな。雪菜がそんなこと言うなんて」

「……はい。私も……私自身も、この気持ちをどうしていいのかわからないですから」

「雪菜?」


 いよいよもって尋常じゃない雰囲気だ。

 一体、なにが。

 一体、どんな言葉が、雪菜の唇から紡ぎ出されるというのか。俺はただ、その仄暗い未来に震えて、生唾を呑み込む。


「……落ち着いて聞いてください。空……私は。水上雪菜は、土方空のことを、あなたのことを……一人の男の人として、好きだと思っています」


 ぴしり、と、俺たちの日常を支えていた薄ら氷がひび割れて、沈んでいく音が聞こえた。

 頬を赤く染めた雪菜の言葉は、愛の告白は、往来する生徒たちの耳にも届いていて。

 逃げ場をなくした俺は、ただ硬直することしかできず、直立したまま固まっていた。

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