第4章 世界で一番可愛い君へ

第31話 「好き」との距離は何マイル?

 結論からいえば、助けはきた。

 いつまで経っても来ないことを訝しんだ雪菜が残っていた先生に話をつけて探してくれたのだ。

 おかげで、体育倉庫で一晩を過ごすという最悪の事態は避けられたから、言葉通り助かったといえる。雪菜がいなければどうなっていたことやら、想像するのも恐ろしい。


 そして俺たちを体育倉庫に閉じ込めた犯人は案の定新堂の野郎で、動機も俺が考えていた通りのしょうもないものだった。

 一方的な恋愛感情が拗れた逆恨み。そのせいで千歌が泣かされる羽目になったんだから、こいつを一発ぶん殴っても許されるはずだと激昂したのを覚えている。

 だけど、結局俺は振り上げた拳を下ろしてしまった。


『最低! あなたのことなんて嫌い! 二度と私に近寄らないで!』


 そんな千歌の罵声を聞いて、この世の終わりみたいな顔をしていた新堂の野郎に追撃の一発をくれてやるのももったいない。

 そして、停学一ヶ月という処分が先生の手から直々に下された以上、俺がわざわざ殴ってやる理由もなくなった。


 それが事件にまつわる一連の流れではあった。俺たちは助かって、閉じ込めた犯人はめでたく捕まって処分が下されて。

 実に平和的な結末じゃないか。なにも心配することも後腐れもない。

 そう素直に思えるのなら、どれだけよかったか。


「なに難しい顔してんの、空?」

「……色々あるんだよ、色々な」

「……そっか、そうだよね」


 いつも通りにモーニングコールと朝ごはんを届けてくれた千歌は、いつも通りを装ってこそいたけど、少しだけ距離がよそよそしかった。

 無理もあるまい。

 雪菜にフラれた日に言ったことがなにからなにまで嘘だったとは思わないし、本気だからこそこの一ヶ月間、千歌はあれこれとアプローチを仕掛けてきたんだと思う。


 だけど、一昨日の──俺たちが体育倉庫に閉じ込められたときの告白は、重みが違った。

 いつから。どうして。

 ずっとわからなかった疑問に対する答えを、今まで曖昧なままぼやかしていた思いの輪郭を浮かび上がらせたあの告白をどう受け止めればいいのか、俺は今もわからずにいる。


 答えは聞かない、と千歌は言った。

 それは少なくとも、俺にとっては救いだった。

 情けない話ではあるけど、千歌の思いをどう受け止めていいのか、そもそも受け止められるのか、まるでわからないからだ。


 恋愛感情というものは実に複雑怪奇な代物である、と嘯くことは簡単であっても、いざ本当に──仮初ではなく、「本物」を望まれたときにどうしたらいいのかを、少なくとも俺は知らない。


 今までの関係の中でも、千歌が本気じゃなかったとはいわない。

 そうでなければあれこれ手を尽くして俺に「可愛い」の一言を、それも「世界一」の枕詞がつくものを引き出させようとしないだろうし、際どいアプローチなんか仕掛けてこないだろう。

 ただ、それでも一昨日のあれは意味合いが、重みが違った。


 そんなに──ずっと前から千歌が俺のことを好きでいてくれた、それどころか、ヒーローだと思っていてくれたなんて、知らなかった。


 俺は、ヒーローなんかじゃない。

 そう呼ばれるに値しない、どうしようもないただの人間でしかないことは、自分が一番理解している。

 それでも、千歌にとって俺はヒーローだという。どれだけ強く俺が否定しても、首を横に振ったとしても、決して揺らぐことなく。


 いつもなら他愛もない会話に花を咲かせて歩いていた通学路を辿る足取りもまた重い。

 普段はなにを話していたのか、どんな風に笑っていたのか、その全てがぎくしゃくして、どうしようもなく軋みを上げていた。

 どんな距離で歩いていたかさえも思い出せなくなったかのように、俺たちはただ並んで、無言でアスファルトを靴底で叩く。


「おはようございます、空、千歌」

「ああ、おはよう。雪菜」

「おっはよー雪菜! 朝ちゃんと食べた?」


 いつもの合流地点で待っていた雪菜には普段通りのテンションで話しかけられるのに、隣にいる千歌とは上手く話せない。

 どういうことなんだろうな、とは自分でも思う。

 俺が恋したのは、どんなに不純で短絡的で浅いものだったとしても、「好きだ」といったのは雪菜の方なはずなのに、今はただただ、千歌の笑顔と涙が交互に明滅して、ぼやけて見えた。


 好き、という言葉と感情の重さを、俺はきっと、心のどこかで侮っていたのだと思う。

 そうでなければ、あんなに軽薄な告白はできないだろう。

 千歌の言葉を聞いて、千歌がずっと心に押し込めていた叫びを聞いて、俺は同じセリフを雪菜にまた言えるのだろうか?


 わからないことばかりだ。

 そして、その言葉に逃げようとしている自分が、逃げることしかできない自分が、ひどく恥ずかしく思えてならない。

 ひらひらと目の前で掌が左右に揺れたのは、もどかしさに歯を食いしばり、俯いたそのときだった。


「空」

「……ああ、ごめん。雪菜。少し考え事してた」

「らしくないですね」

「俺そんなに頭使ってないように見えるかなあ!?」

「冗談です」

「いやいや本当のことだよ、雪菜」

「お前もかよ」


 いつも通りに過ごしていたい。

 ギスギスした空気をこの奇妙な付き合いに持ち込みたくない。

 それは過ぎたる高望みなのだろうか。


 いや、きっとそうなのかもしれない。

 今まで目をつむっていただけで、その自覚がなかっただけで、俺たち三人の関係は、きっと冬の水たまりに張った薄ら氷のようなものなのだから。

 春が来て溶けてしまうか、誰かに踏まれてヒビが入るか。きっとそのどっちかで。


 訪れた青い春は優しく、そして冷たく俺たちを包んでいた曖昧さを溶かしていった。まだ冬にいたいと駄々をこねる俺たちを、置き去りにして。


 ただ一言、「好き」との距離を測りかねたまま、今日も新しい朝が来る。希望も絶望も関係なく、当たり前に。

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