第3話「宣言」

 婚約破棄された過去を持つということは、私には家同士で決めた政略結婚のため幼い頃から婚約者が居た。けれど、その婚約者と私は相性も仲も悪く、婚約破棄前には、顔を合わせればいつも喧嘩ばかりになっていた。


 ついには、元婚約者は私が社交界デビューして間もない一年前の華やかな夜会の場で、名も知らぬ可愛らしい令嬢の腰を抱き、嘘ばかりの理由で私に婚約破棄を告げた。


 もうこの時点で、自分にはこの先貴族令嬢が通常歩むような、まともな結婚をすることは無理だろうと冷静に判断した私は、長年連れ添った元婚約者に、別れの挨拶がわりに無言で微笑みつつ近くに置かれていたホールケーキを顔にぶつけた。


 私が泣き叫んで嫌がるとでも思っていたのか、彼は意味がわからないとでも言いたげな、ぽかんとした表情になっていた。


 とても無様な様子に、隣に居たご令嬢にも悲鳴を上げて逃げられ、呆然とした表情を見て、それまでに味わったことのない爽快な気持ちになったものである。


 ちなみに私は、婚約破棄されていても、後悔は全くない。


 婚約中の何年間にも及ぶ気が重い日々を思えば、普通の幸せな結婚が遠ざかったとしても、あの元婚約者との関係から解放されて、本当に良かったと思っている。


 そして、私はこれからの自分にとって一番良い道、職業婦人として事業を起こし、実業家としての道を選ぼうと心に決めて、これまで着々と準備を進めて来た。


 けれど、そんな曰く付きな伯爵令嬢だとしても切羽詰まったモーベット侯爵家からみれば、身分と年齢だって釣り合うし、私を可愛がる叔母アストリッドを通じれば、大きな権力を持つヘイズ公爵にだって尻尾を振ることも出来る。


 私側の婚約破棄されたという、過去ひとつさえ除けば、全方面にっこりする解決方法だった。


 とりあえず薔薇園の中にある東屋で、隣同士に腰掛けたものの、モーベット侯爵は私に何も言わない。


 ……どうしてかしら。こんなことを私が言うのもなんだけど、私たち二人は結婚するしかない状況だけど。


 モーベット侯爵のご両親は「是非、息子との結婚をお願いしたい」と、私との結婚を賛成しているとアストリッド叔母様から聞いたけど、こんな事態にならなければ、彼ならばどんな女性でも妻にと望めたのに。


 もしかしたら……愛のない結婚の妻とは言え、彼だって思うところがあり、色々と言いづらいのかもしれない。


 ここは私が先んじて、そんなモーベット侯爵へ安心してくださいと言うべきだわ。


「あの……モーベット侯爵。私たち二人は、現在結婚せざるを得ない状況にあるようです。まず、言っておきたいのですが、私はあなたに愛されたいなどと、身の程知らずで、大それたことは望んでおりません」


「……え?」


 当たり前だけど、何か考えていた様子のモーベット侯爵は、とても驚いた表情をしていた。


 ああ。愛する女性に逃げられた傷心直後の自分が、これから「結婚したとしても、僕は君を愛するつもりはない」と言わなければと、気が重かったところに、私側から言い出したのだから、驚くのも無理もないわ。


 ……けど、大丈夫。私は彼の想像するような、面倒なことを言い出す女ではないわ。


 にっこりと余裕ある笑顔を見せ、胸に右手を置いて、私は全て心得ておりますと言うことを隣に座った彼へ示した。


「モーベット侯爵は、動かせない結婚式の日付に迫られて、仕方なく私と結婚をするのです。何もかも、すべて理解しておりますわ!」


 神様からすべての美点を与えられ、なんなら王族の姫の降嫁先にも選ばれそうな男性なのに、不幸にも良くない地雷を踏んでしまっただけだ。


 とはいえ、他の男性から婚約破棄されて社交界で悪い噂がある令嬢と、間に合わせだとしても結婚しなければならないなんて……これは他でもない自分のことだけど、なんだか可哀想。


「いえ。それは」


「そうだわ。まず先に、これを伝えなくては。モーベット侯爵。私は貴方に愛されなくても、全然平気です」


「全然……愛されなくても? あの、待ってください。僕は」


「あ! ごめんなさい。けど、愛せない妻などと、一生を過ごすなんて嫌ですよね。うーん……それでは、私たち……一年後に、離婚しませんか? それより前に、お互いに好きな人が出来たとしても、離婚しましょう」


 そうしましょう? と言わんばかりに微笑みかけた私に、モーベット侯爵はぽかんとした表情になり、沈黙して間を置くと、彼の返事を待っていた私に疑問を返した。


「……それで、貴女は構わないと?」


「ええ! それで構いませんわ。私は以前婚約破棄されてから、夫に頼らずとも独身で生きるために、これまで着々と準備を進めてきました。モーベット侯爵も、抜けられないしがらみがあって、新婦を急遽変更しての結婚式だなんて……とてもお気の毒なことでしたが、ほとぼりが冷めてからは、お好きな人生を歩まれたら良いわ」


「しかし……これは、何と説明すれば良いのか……どうか、僕の話を聞いてください。レニエラ嬢」


「私と離婚することに対し、罪悪感などは要りません。それに、離婚後についてはお気になさらず。それなりに、勝算はありますので。モーベット侯爵は愛していた婚約者の方に、結婚式直前で去られて、本当に大変だったことと思います。私は一人でも、生きていけますから」


 私がこれから展開しようと思っている事業の計画は、ほぼ出来ていて、あとは商品化してからのスタートを切るだけだ。もし、成功した事業家になれば、元貴族令嬢の肩書なんて、特に気にもされないだろう。


 婚約破棄された過去も、すべてなかったことになる。


「どうか、僕のことはジョサイアと……そうですね。分かりました。では、レニエラ嬢。とにかく、今のところは僕と結婚してくださると?」


 間に合わせの結婚相手に言い難いことを言わせてしまったと紳士らしく反省しているのか、浮かない表情のモーベット侯爵……ジョサイアだけど、私が言いたいことは、ちゃんと理解してくれたようだ。


 私はパッと表情を輝かせ、そうですおっしゃる通りですとの思いを込めて微笑んだ。


「ええ! 大丈夫です。なんだか、驚かせてしまってすみません。私は貴方が心配しているような……自分と結婚するからにはなどと、変に金銭や愛情を要求したり、面倒なことなんて言い出しませんわ。今回のことは本当にお気の毒でしたが、結婚式さえ済ませれば、その後は幸せに過ごせる相手をお探しください。私はそれには、一切干渉しませんから」


 一年後の離婚に向け、浮気も不倫だって気にしなくて良い。私はそれに対しては、口出ししない。これって、彼にとっては得しかない破格の契約結婚の条件のはずよ。


「……いえ。それには、少し誤解があるようです。僕はレニエラ嬢が良いと思って、こうして貴女にヘイズ公爵夫人を通じて縁談を申し込んだので」


 自分が曰く付きであることを十二分に理解している私は、追い詰められ切羽詰まった男性の耳障りの良い言葉になんて、絶対騙されたりしない。


「あの……叔母も貴方のことを、とても気に入っているようです。私からは断れません。貴方だって私のように、割り切った結婚相手の方が楽なはずです! お互いにここは逃げられないと思いますので、とりあえずここは、私たち結婚しましょう?」


 ジョサイアは何故か空を見上げて、大きくため息をついた。


 言い方が良くなかったかしら。けれど、彼は私の申し出に、不満なんてありえないはずだけど。


「僕の求婚をお受け下さり、本当にありがとうございます。君の希望は理解しましたから、とりあえずは、そういう事で。僕と結婚しましょう。レニエラ。よろしくお願いします」


 私に向き直り真剣な表情のジョサイアは、この契約結婚に頷いてくれた。彼は右手を差し出したので、私が出した結婚に関する契約条件を飲んでくれたのだとちゃんと理解した。


 満足して私も彼の大きな手を握り、にっこりと微笑んだ。


 なんだか、それは結婚相手というか、これから大きな困難を抜けるための、戦友同士がするような握手だった。

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