ニエ(2)

「なんで私がこんなことしなきゃいけないのよ!」


 ここに連れてこられてから、一月ほどが経った。少女はその間ずっと、与えられた部屋でじっと座っていた。朝と夜には食事が運ばれ、昼に人の手が入り部屋が清められた。夕食のあとには桶に入ったお湯が届けられ、それで体を拭われた。


 貫頭衣のような服は毎日取り替えられ、脱いだものはどこかへ運ばれていった。少女はそれらのすべてを、家具と同じように自分も手入れされるのだと思い黙って受け入れていた。


「気味が悪いのよ!何なのよ、自分のことくらい自分でやりなさいよ!!」


 女はヒステリックに甲高い声を出した。それはオマエによく似た、覚えのある様子だった。ああ、次は殴られるのだ、と少女は思ったが、女は手に持っていた濡れた雑巾を少女に投げつけ、走り去っていった。


 少女はそれを見送り、それもそうだな、と思った。あんなにちゃんとした人が自分を手入れして、自分は何もしないのはおかしいことだとそう考えた。


(この部屋で、みんながすることは、ニエがしよう)


 少女はそう考え、投げつけられた雑巾を拾い、手始めに女がさっきまでやっていたように床を拭き始めた。雑巾をバケツの水につけ、それを絞っては床を拭く。見様見真似で初めて行われたそれは下手くそで、水を絞り足らずに床はびしゃびしゃに濡れていた。それでも少女は達成感を感じていた。生まれてはじめて行った掃除は、なんだか少し自分をまっとうなものにしてくれる気がした。


 このあとはいつも、このバケツと雑巾を持って女はどこかへ行くのだ。少女はそれをまねてみようと思い、初めて与えられた部屋をでた。




 意外にも少女が部屋を出歩くことは咎められなかった。屋敷の中で見かける人はみな、迷惑そうに遠巻きに少女を見て関わろうとしなかった。それは、「関わるな」と厳命されていることが原因だった。


 遠巻きにする人たちは、男と女でそれぞれ揃いの服を着ていた。少女はそれを、ちゃんとした人が着る服なのだと考えた。少女は、もしかしたらもっとちゃんとすればあの服が着られるのかもしれないと想像した。それはなんだか胸が弾む想像だった。その服がお仕着せで、少女が抱いたものが淡い憧れという感情だということを、少女はまだわからなかった。


 しかし、バケツと雑巾をどうすればいいかわからず少女は途方に暮れてしまった。バケツは少女にとって少し重く、うっかりすると水をこぼしてしまいそうだった。周りを見渡しても、声をかけて答えてくれそうな人はいなかった。少女は仕方なく、それを一度部屋に持ち帰ることにした。


(お湯の人に、きいてみよう)


 それはとてもいい考えだと少女は思った。この水もお湯も、きっと同じだと考えたのだ。少女は部屋に戻り、じっと座って夜を待った。




 §




「ニエがする」


 それは少女が一月ぶりに発した言葉で、お湯の入った桶を持ってきたのは最初の日に少女の髪を剃った女だった。


 女は怪訝そうな顔をして、黙って持っていたものを床に置き、布を少女に差し出した。


「お湯も、バケツの水も、ニエがもっていく」


 女は、どうして掃除のバケツがここにあるのよ……と呟き、少女に向かい合った。


「水をこぼされては迷惑だから、使い終わったら廊下に出しておきなさい」


 それだけ言い残し、女は部屋を出ていった。


 少女は、迷惑は悪いことだとそう覚えている。なるほど、確かにこぼしそうになったから、自分にはまだできないのだ、と少女は納得した。


 少女は服を脱ぎ、これまでされてきたように自分の体をお湯で拭った。そして置かれていた服に着替え、こぼさないように慎重に桶とバケツを廊下に出した。


 またひとつ出来ることが増えたと、少女は嬉しくなった。




 朝起きて、少女は食べるものがどこから来るのかを探してみようと思った。それを自分で取ってこれるようになれば、少女の存在が忘れられても飢えずにすむかもしれないと思ったからだ。


 空腹は辛かった。あのひもじさを思い出すと、とても心配になったのだ。ここにはあの素晴らしい果樹がないのだから。


 少女が部屋を出ると、少し先に食べるものを運ぶ女がいた。遅かったのだ、と少女は少しがっかりした。


「ニエが、もっていく」


 少女は女にそう話しかけた。相手は、昨晩の女だった。


「こぼされたり、食器を壊されたら迷惑だから、部屋で待っていなさい」


 女はそれだけ言うと、それ以上少女にかまうことなく食べるものを少女の部屋に運び込んだ。そして、後ろをついてきた少女に向き合い、こう言った。


「これは私が取りに来るから、ここに置いておきなさい」


 少女は女を見送り、これは自分には許されないことなのだ、と残念に思いながら食事をとった。バケツを運ぶこともできないから、床を拭くために何かできることもなかった。


 食事を終え、次にできることも思いつかずただじっと座っていると、朝の女が食器を下げに現れた。


 女は、掃除用の水が入ったバケツと雑巾を持ってきていた。


「これで部屋の中を拭いていなさい。終わったら、バケツは廊下に出しておきなさい」


 それは、予想外な言葉だった。


「わかった」


 そう答える少女の声は上ずっていた。少女は、誰かからなにかを任されるのが初めてだった。少女の胸に生じたのは、誇らしい、という感情だった。


 少女は、一生懸命に床を磨いた。ちゃんとできることが増えれば、もっとちゃんとした人になれば、次は水も食べるものも運べるようになるかもしれないと、そう希望を抱いた。




 少女はその日、明日はこの脱いだ服がどこに行ってどうやって返ってくるのか探してみようと、脱いだ服を抱きしめながら寝台に丸まった。

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