第4章 遠ざかって、近づいて

第29話 物騒なうわさ

「ねぇーえ、コンフィちゃん。いつまでそうやっているのぉ?」


 スケッチブックにデザインを描き起こしながら、ベティーズは部屋の隅に向かって話しかけた。


 つい数時間前までドレスの森になっていた部屋はもう片付けられ、今はすっきりとした広い空間が広がっている。

 窓の向こうはもうすっかり暗闇になっていて、遥かかなたにはチカチカと星が瞬いていた。


「反省し終わるまでだ」


 顔を上げてボソリとそう言うと、男は再び膝を抱えて体を丸め、顔を埋める。

 ベティーズは、一体何があったのかしらと困惑しきりである。


 だだっ広い部屋の奥。

 明かりが届かない片隅でうずくまっているのは一人の男──コンフィズリー・トゥイル・フォレノワール。この店の、最上客だ。


 つい数時間前も多額の買い物をしてくれたばかりだったのに、なぜかつい先程、陰鬱な顔で再来店した。

 今にも出頭しそうな面持ちで再来店した彼に、ベティーズはこの陰鬱な顔をした友人をどうにかしなければいけないと、親切心から招き入れたのである。


「一体、何があったの? アタシで良ければ、話を聞くわよ。どうせ、魔女様のことなんでしょう?」


 ベティーズの声に、トゥイルの肩がピクリと震える。


「アタリね? まぁ、つい数時間前まで一緒にいたのだもの。原因といったら、それしかないわね」


 ベティーズは変わった店主だが、接客業従事者として素晴らしい技能を持っている。

 それは、聞く力。聴く力、だろうか。彼には人が話したくなるような気安さがあるようだ。


 自分とフレイズのことを知る数少ない友人に、トゥイルはボソリと答える。


「……に……をしたんだ」


「コンフィちゃん? 今、なんて言ったの?」


「フレイズに、キスをしたんだ」


 暗がりから聞こえてきたトゥイルの言葉に、ベティーズはスケッチブックをぽとりと落とした。


「うそ……え、とうとう告白したの?」


 スケッチブックを拾うことも忘れて、ベティーズは薄く開いた唇に指で触れた。

 彼の質問に、トゥイルは小さく首を振って答える。


「いや、していない」


「していない? だってコンフィちゃん、キスは最後のお楽しみに取っておくって言っていたじゃない」


「魔が差したとしか言いようが……」


 悪い男の言い訳のような言葉に、ベティーズはドスの利いた声で「あぁ?」とうなった。


「なぁに、それぇ。あんなにかわいい魔女様の唇を奪っておいて、魔が差したですって? 失礼すぎやしなぁい?」


「おまけに、フレイズには女遊びしている男だと勘違いされた」


「あらぁ。あなたに限って、それだけはないわね」


「ベティーズだってわかるのに、どうしてそれが伝わらないんだ……」


 トゥイルは床へ突っ伏した。

 ガクリと肩を落として力なく伏している姿は、彼の美貌があるからこそ際立つのだろう。ベティーズはそっと、彼に明かりを向けて演出してあげた。


「そんなの、アタシには分からないわよぅ。女遊びしているように思われるのなんて、おおかたの予想でしかないけれど、女の子の扱いに慣れているとか、そういうことじゃないのぉ? キスした後に言われたなら、コンフィちゃんとのキスがよっぽど良かったとか? あら、嫌だ。コンフィちゃんってキス上手なの?」


 ベティーズの視線が、トゥイルの唇に注がれる。


 薄すぎない柔らかそうな唇は、ヒビ一つ見当たらない。

 しっとりとしていて、手入れは万全のようだ。


 ふと、ベティーズはフレイズの唇を思い出した。

 潤いが足りていないのか、少しカサついた唇は、形が良いだけに少々残念な気がしていたのだ。新しいドレスと一緒にリップケア用品も渡そうかしら、とベティーズは思った。


「うまいかどうかは知らないが、シュゼットから講義は受けた」


 大魔女シュゼットの名前を聞いて、ベティーズは目を輝かせた。

 汚い高音で「んまぁ!」と感激の声を上げ、もっと詳しく話せとトゥイルににじり寄る。

 ヒラヒラレースのブラウスを着こなす筋肉質な男に迫られて、トゥイルは仰け反った。


「シュゼット様と言えば、恋愛成就の神さまと崇められ、古参の魔女からは愛欲の魔女様と恐れられているお方じゃない。そんな方からキスのレクチャー……さぞや素晴らしい技を伝授されているのでしょうね」


 ジリジリと寄ってくるベティーズの顔を、トゥイルは遠慮なく押し退けた。

 チュパチュパと湿り具合を確かめるリップ音など、恐怖でしかない。


「待て。おまえとはしないからな? 僕のキスは、彼女だけのものだ。今までもこれからも、永遠に」


「んもう。知ってるわよぉ。ファーストキスも、彼女なんでしょう? 羨ましくなるくらいいちずなところがす、て、き!」


 まるでモンスターのような男に言われても、ちっとも嬉しくない。

 トゥイルは再び体を丸めてしょんぼりと項垂れた。


「おまえじゃなくて、フレイズに言われたい」


「魔女様じゃなくてごめんあそばせ! これでもアタシ、結構モテるのよぉ?」


「おまえがモテることなんて、どうでも良い。僕はフレイズを嫁にして、子供をもうけて幸せな家族をつくりたい」


「子供……といえば。最近、物騒なうわさがあるのよねぇ」


 思い出すように、ベティーズは唇に人差し指を当てて「うーん」と呟いた。


「うわさ?」


「そうよ。田舎の村の方なのだけれどね、子供がいなくなる事件が多発しているんですって。食うに困るような貧しい村だから、どうせ働けない子供を森に置き去りにしたんだろうって話なんだけれど……」


「だが、子供が減ればその分だけ国の損害になる。これは、早々に何か手を打たなければならないな」


「そうね……」


 こうしてはいられないと、トゥイルは立ち上がった。

 フレイズのことは気になるが、この国のことだってどうにかしなくてはならない。


 この国が良くなれば、フレイズだってきっと嬉しいはずだ。

 カフェや市場で楽しそうに微笑んでいた彼女を思い出して、トゥイルはやる気をみなぎらせた。


「反省はとりあえず後だ。すぐに政策を考えなければ」


 つい先ほどまでの情けない彼がうそのようだ。

 責任を全うしようとする姿は高潔で、誰の目にもすばらしく映ることだろう──と、ベティーズが自分のことのように胸を張ったその時だった。

 にわかに、部屋の外が騒がしくなる。


「お待ちください! 今は、立ち入り禁止なのです!」


「申し訳ないっ。しかし、これは一大事なのです!」


 既視感に、二人は顔を見合わせて扉の方へ目を向ける。

 直したばかりの扉が勢いよく開けられて、現れた男は言った。


「コンフィズリー・トゥイル・フォレノワール様にご報告を申し上げます。オペラ辺境伯のご子息、ノエル様が行方不明になりました!」

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