帰省(2)

 リビングの床にぺたりと片頬をつけ、横になったまま動かない。

「いつも麦茶1センチ残しやめてって言ってるでしょう。ここまで飲んだなら新しいの作っておいてよ」

 という母の小言も無視。

 目を閉じる。扇風機の風が心地良い。げっぷをすると、生姜と酢の匂いがした。昼に食べた冷やし中華が、まだ胃の中に残っている。

 このまま眠ってしまおうか。腹はふくれ、室温は快適。まさに昼寝に最適な環境。実家って最高だ。


 

「いつまでそうしているのですか! もう夕方ですよ!」

 頭の上で、まどろみを吹き飛ばす声がした。


 重たい瞼を押し上げると、航汰の貧相な顔が目の前にあった。

「うるせえよ。さっき昼飯食ったばっかだろう」


「何を寝ぼけたこと言っているのです? 見てください」

 航汰は左手を腰に当て、右手で壁の時計を指差した。

「現在、午後の四時です。つまり小野塚くんは昼食を終えて三時間余りを、無為に消費したことになります」


「え、いつの間にそんな時間経ったの?」

 俺はがばりと半身を起こした。首を回すと、わずかに痛みが走る。こりかたまった筋肉が、時間の経過を教えてくれた。


「まったく小野塚くんときたら来る日も来る日も家の中でごろごろごろごろ、いい加減飽きないのですか? せっかくの夏休みですよ? もっと夏らしいことしたらどうです?」

「夏らしいことって、具体的になんだよ」

「だから肝試しとか、心霊スポット巡りとか」

「あ、そういうのは抜きで」

「ええ? でしたら……私もよくわかりませんよ。夏らしいことってなんですか?」


「っんだよ、てめえもわかんねえのかよ」

 俺は片手でうなじの辺りをごりごりと揉んだ。筋肉がほぐれ、痛気持ちいい。

「あー、じゃあ例えばでいいから言ってみて」


「例えば? えーっと、そうですね、夏といえばやはり、夏祭りですかね」

「安易な発想だな。ってか、この辺の祭りはとっくに終わってるだろ」

「はあ、そうなんですか。ここでは毎年いつぐらいがお祭りなんですか? 会場はどこです?」

「知らない」

「え、もしかして小野塚くん、近所のお祭りに参加したことがない?」

「悪いかよ」

「いえいえ、私も似たようなものですので。お祭りってどうしても、ひとりで行くにはハードル高いですもんね」

「ちょっと待って、今お前、当然のように自分と俺を同じくくりに入れなかった?」

「はい。間違ってましたか?」

「いやいや、お前はどうせさ、祭りに行きたくても、誘ってくれる友達がいなかったクチだろう?」

「そうですけど。では、小野塚くんにはそのような間柄のお友達がいらっしゃるのですか?」

「……」


 航汰の口調に嫌味は感じられず、純粋な疑問をぶつけられているとわかった。

 俺は無言で立ち上がると、航汰のふくらはぎを軽く蹴った。

 よく見ると、奴は俺が小学生の頃に愛用していたジャージを履いている。

「どこからそんなもの出してきたんだよ」


「先程うっかりかき氷のシロップを足にこぼしてしまいまして、お母様から着替えをお借りしました。小野塚くんが昔着用されていたものなのですね。私にはだいぶ丈が短いですが、ウエストのほうは余裕があります。なかなか動きやすいです」

 そう言って、航汰はその場で屈伸をしてみせた。


 水を飲もうとキッチンに行くと、水切りカゴの中に水滴のついたガラスの器とスプーンがあった。伏せて置かれていない器の中には、水が溜まっている。航汰が洗ったものだろう。俺はそっと器を置き直し、中に溜まった水を流した。


 気を使わなくていいという母の言葉に逆らって、航汰はうちに来た初日からすすんで手伝いを申し出ている。最初は困惑していた母も、今では慣れた様子で航汰にあれこれ頼むようになった。

 航汰は何をやらせてもポンコツで、洗いものをすれば皿を割り、ベランダにシーツを干そうとして落下させ、泥だらけにし、掃除機を使うたびにコードを詰まらせた。

 誰が見ても、航汰が今まで家のことを何一つやってこなかったのは明白だった。一応お坊ちゃん育ちらしいから、一切を家政婦さんのような人に任せきりにしてきたのかもしれない。

 航汰は無能なくせになんでも手を出したがるという、非常に厄介な奴となっていた。航汰がやらかすたび、母は一つ一つ丁寧に教え、できたときには大袈裟に誉めた。


 そうして航汰が母の手伝いに奮闘する中、俺はのびのびと実家ライフを満喫した。寝転び、スマホをいじるかテレビを観るかして、いつの間にか眠るを繰り返す日々は、刺激はないけど解放感に満ちていた。


「そういえば、おやじとばばあは? どっか行ったの?」

 コップを水で満たしながら、俺は尋ねた。


「おやじとばばあではなく、お父様とお母様ですね」

 航汰はわざわざ言い直してから、

「お二人でしたら、揃って買い物に出かけましたよ。お庭の草木に水やりをしておくように言付かっております」

 と、ホースで水をまくジェスチャーをした。


「へえ、それじゃあ航汰頑張って」

「いいえ、小野塚くんにやらせるようにとのことです」

「なんで俺が」

「帰ってきてから一度も家の外に出ていないので、少しは日光を浴びたほうがいいと。お母様心配なさっていました」

 さあさあ、行きましょう。航汰に腕を引っ張れ、俺は慌ててコップの水を飲み干した。縁側に出る。サンダルを突っかけると、前もって水道につないでおいたらしく、航汰がホースの先を手渡してきた。

 仕方なく、母が世話をする名も知らぬ花や緑たちに水をやる。


 水滴を浮かせた草木は、思いのほか生き生きとして見えた。青臭い匂いに、土の深く香ばしい香りがまじる。

 まだ夕暮れには遠く、空は青々としていた。

 悪くない、と思った。

 気はすすまなくとも、体のほうは確かに、太陽の熱を受け、喜んでいた。


「あ、ここに小さい虹ができていますよ」

 航汰が指さす辺りを見たが、俺のところからは何も見えない。


「え、どこ?」

 体を捻ると、うっかりホースの水が航汰の腕にかかった。「ひゃあ」という航汰の悲鳴が面白くて、じゃんじゃん水をかける。


「わあ、冷たいじゃないですか。やめてください」

 ついに庭を逃げ回りはじめた奴を、笑いながら追いかける。

 航汰はどこからか持ち出してきたバケツに水を汲んで、俺に反撃してきた。

 二人してずぶ濡れになると、どちらからともなくゲラゲラと笑った。


「あ、こんにちはー」

 様子を窺うような声が聞こえ、門扉のほうを振り返る。

 部活か何かの帰りらしい、スポーツウェア姿のよく日焼けした女子が立っていた。

 目が合うと、相手は小さく会釈し、青い板のようなものを掲げた。

「回覧板持ってきたんですけど……」


「ん? 小野塚くん、カイランバンってなんですか?」

 航汰が濡れた顔をこちらに向ける。


 その問いかけを無視して、俺は足元へと視線を落とした。

「回覧板なら、そこの郵便受けにでも突っこんでおいてください」

 女子に向かって答える声が、激しく揺れた。抑揚が定まらない。


 相手の返事を待たずに、俺はサンダルを脱ぎ捨てた。廊下が濡れるのも厭わず、家の中にかけこむ。

 そのまま洗面所まで走り、後ろ手に扉を閉めると、壁にもたれてずるずると腰を落とした。

 胸に手をやってみる。

 心臓がどくどくと脈打っていた。

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