第8話 「チェイスの懺悔」
チェイスはクラリスの体調を考慮し、1番良い日を見計らって会いに来た。
ダグラスはチェイスに注意事項を伝えた。「大きな物音は絶対に禁止です。後ろから声をかけてもいけません、怖がられますのでお控え下さい。必ず視界に入ってから声をかけてさしあげて下さい。あと、あまり目がよくありません。急に動かれず、声をかけてから動かれますようお願いいたします」
「目が良くない?」
「はい、手元の字を読んだりはできるようですが、人や物はあまり見えていないようで、音を頼りにされています。だからなのか殊更に音を気になさいます。時折、睨むように目を細めることがありますが、見えていないのだと思って下さい」
「愚図でのろまだと思っていたが目が見えていなかったのか……」愚図でのろまという発言に、ダグラスの目がキラリと光った。「すまない、知らなかったんだ。クラリスに謝罪に来たんだから許してくれ」
「知らないことを知ろうとするのは悪いことではありません。人にはそれぞれ抱えた事情というものがございます。好き好んでのろまになる者はおりません」
「よく知りもしない人を、あしざまに言った私は最低最悪のクソ野郎だった。反省している。これでいいか?それにしても見上げた忠誠心だな。確か、前の職場を解雇されたと言ってなかったか?」
「子爵家で働いておりましたが、御令息が使用人を手当たり次第、お手付きにしてしまうので、苦言を呈しましたら解雇されました」貴族としては最下層の準男爵家の次男であり、縁故採用も期待できないダグラスは、解雇されてしまったら次の仕事を探すのが困難になってしまう。だからといって、36歳にして職業を変えるというのも避けたい。
難ありと言われているクラリス・ノースウッドの執事ならば、経歴に傷がついていても採用されるのではないだろうかと思って応募したところ、応募者はダグラス1人だったので即採用となった。
「なるほどそういうことか」チェイスはその令息の悪癖を知っていたので納得した。
「私には姉と妹が5人もいますので、女性を蔑ろにする者が許せないのです」
レイチェルも然り、どうやらダグラスからも怒りを向けられているようだ。思慮に欠けていた自分の行いが招いた報いだとはいえ、問題をもう一つ抱えてしまったことにチェイスは頭を悩ませた。「反省している——目は虐待が原因だろうか?」
「分かりません。一度お医者様に診察をしてもらおうと思ったのですが、奥様が怖がってしまい出来ませんでした」
「そうか、他にも悪いところがあるかもしれない、診察はしてもらった方がいいだろう。先ずは医者に慣れさせる必要があるな」
レイチェルと一緒に、ガゼボでお茶をしているクラリスにダグラスは近づいた。「クラリス様、ダグラスです。伯爵様をお連れいたしました」
「こんにちは、クラリス。チェイスだ。座ってもいいかな」
「どうぞ、お掛けください」
チェイスはクラリスの向かいに座った。「ありがとう、今日は君に謝りに来た。結婚した経緯は聞いているかな?私はバイオレットとの間にできた子供に、良い血筋を与えてやりたくて君を利用してしまった。本当にすまなかった」チェイスは誠実な態度で頭を下げた。「君が不自由なくここで暮らせるよう手を尽くすつもりだ」
「結婚の経緯については気にしておりません。あの家を出られればそれで良かったのです。どんな相手でも構わないと思っておりましたし、私は今の生活に満足しております。利用したと仰いましたが、私も伯爵様を利用しました。ここで静かに暮らせるのなら他は何もいりません」
「——そうか、ここが君にとって安らげる場所になって良かったと思っている」とりあえずレイチェルやダグラスみたいに怒ってはいない様子のクラリスにチェイスは息をついた。「物語が好きだとレイチェルから聞いた。図書室に小説を増やそう。今までのことに対する謝罪だと思って受け取って欲しい」
「お気遣いに感謝いたします」
「クラリスはオペラに興味はないか?出掛けたいのなら手配しよう。私からのプレゼントだ」
クラリスはちらりとレイチェルを見た。
「クラリス様、興味がおありでしたら気分転換に外出するのも悪くありませんよ。会場へは馬車で行って、人目につかない裏口から入場させてもらいましょう。真っ直ぐ席まで行けば、誰とも会わずにすみます」
クラリスがチェイスと結婚して1年以上になる。この間にレイチェルやダグラスはクラリスの信頼を勝ち取ったようだと、クラリスがレイチェルに視線だけで問うたのを見てチェイスは思った。
「なるほど、人と会うのが嫌なのだな、ならば、君が会場に入る時と出る時は、人払いをするよう頼もう。それでどうかな?」
クラリスは嬉しそうに微笑んだ。「はい、オペラを観てみたいです」
結婚式ではベールを被り俯いていたので殆ど顔は見えなかったし、クラリスがどんな顔をしているのか、チェイスは興味もなかった。
2度目に会った時は酷く取り乱していたから、彼女の顔をまともに見たことが無かった。嬉しそうに微笑むクラリスの顔はチェイスの庇護欲を掻き立てた。
それは誰もがそうだった。別邸の使用人たち全員に、クラリスを守らなければと思わせたそれは、悲しそうに伏せられた琥珀色の瞳だろうか、それとも痩せ細った体だろうか。
「では、手配しよう。何を観るのかレイチェルと相談して決めるといい——これからはいつでも君の好きな時に、好きなだけ外出してもらって構わない。だが、護衛をつける必要がある。カヴァナー家の騎士をダグラスとレイチェルに面接してもらい、君の護衛騎士を決めてもらう予定だ」
「——ありがとうございます」
仕える人が増えると聞いて不安そうにしているクラリスにダグラスが言った。「クラリス様が困らないよう、レイチェルと一緒に吟味しますからご安心ください」
「もしも、クラリス様を困らせるような人がいたら、いつでもこのレイチェルに言いつけてくださいね。2度とクラリス様に近づけないようにして差し上げますからね」
レイチェルに握られた手を見つめてクラリスはコクリと頷いた。
「それでは私はこれで失礼する。ゆっくりお茶を楽しんでくれ」チェイスはゆっくりと立ち上がり、大きな音を立てないよう気をつけながら立ち去った。
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