第五章 それぞれにもたらすもの

第1話 叶う夢

 今日は土曜日。

 外はカラッと晴れていて気持ちがよさそうだが、我が家の住人はこぞってインドアを決め込んでいる。

 夫は相変わらずリビングでのびのびと伸びているし、息子も相変わらずノイバスティと共に何やらきゃっきゃと楽しそうだ。

 私は今、階段を一段一段、せっせとぞうきんがけしている。


 きっかけは今朝のこと。

 台所で米びつに米を入れていたらどざざーっと思い切りこぼしてしまい、泣く泣く掃除していたのだけれど、床にしゃがんだらあちこちの汚れが気になったのだ。

 それで米を片付けた後もその勢いのまま台所の床をぞうきんできゅっきゅと拭いて回り、その流れで廊下へと進出した。

 子どもの頃は廊下の端から端までぞうきんがけをするなんて当たり前のことすぎてなんとも思っていなかったのに、この年でやろうとすると全然あの頃のようにはいかない。

 まず、ぞうきんに手をついた姿勢で走れない。

 背が伸びて腰の位置が昔とは変わったから支点がズレてうまく力が入れられないのかもしれない。

 まさか成長したのが胴体ばかりで足とのバランスが変わっているせいだなんて一番ありえなそうなことは頭から除外しておく。

 あの頃は床なんて近い存在だったけれど、大人になってからは見下ろすばかりで遠い存在だ。

 立ったまま掃除ができるグッズがありふれているこの時代に、こんな姿勢をすること自体が日常生活でほとんどない。

 それでもぞうきんがけが一番きれいになることを知っているのはやはり小学生の頃の経験があってのこと。

 だからこの際きれいにしようと久々にぞうきんがけにのぞんだのだが。

 どうしても転びかけている小鹿のようになってしまうのは、手で体を支える力と足で蹴る力のバランスを体が忘れてしまっているせい、という結論が心身ともに納得がよさそうだ。


「大丈夫か? 車輪が片方外れたミニ四駆みたいになってるぞ」


 夫はいつまでも少年の心を忘れていないらしい。


「ミニ四駆なんてそんな俊敏なもんでもないな……。ゲームセンターの客引きに使われてる猫が鳴いて歩き回る壊れかけのおもちゃか」

「正月を過ぎて固くなった餅をなんとかしようとお湯につけてむりやりふやかされてだらしなく伸びてるみたいな人には何も言われたくない」


 人をまじまじと観察しながらこんな時だけ頭と口をよく回らせる夫に腹を立てる前に、自分をごまかすのはもうやめよう。

 どんな理由もつまるところは単なる老いだ。

 夫に言われたからでは断じてないが、事実は変わらず事実としてここにある。

 私はぞうきんに手をかけて走る体勢をやめ、しっかりと床に膝をついた。

 そして台所の床と同じように、自分の目の前の届く範囲にきゅっきゅとぞうきんをかけては前に進むのを繰り返し、廊下と老いとうまく付き合っていくことを決めた。

 何も縦に長くて走るスペースが十分にあるからといって走りながらぞうきんがけをしなければならないということはない。

 こうして汚れを確認しながら拭き進めたほうが確実にきれいになる。

 そうだ。年老いて効率は下がろうとも品質を上げることはできる。


 そう心に折り合いをつけてからは無心になり、気づけば階段と老いの峠を攻めようかというところ。

 ずっと聞こえていた音楽に、息子の堪えきれないというような小さな笑い声が混じった。


「ねえ、ねえノイバスティ、ここさ、もっと効果音入れようよ。ズギャーンって感じの」

「いいですね。もはやこの曲は効果音がメインかというほどになっていますが、これはこれで楽しいですね」

「音楽って自由なんだね。僕さ、幼稚園の頃から『みんなで歌を歌いましょう』『楽器で演奏してみましょう』って、みんなで決まった歌を決まってる通りに歌ったり演奏したりすることしかしてこなかったから、いかに正しくできるかって、音楽ってそればっかりなんだって思ってたんだ。だけど作る側は、こんなにも楽しくて、なんでもありで。すっごくわくわくする」

「自由は、作る側だけですか? 歌うの、自由はだめですか?」

「だって、楽譜があるからさ。音が外れてると直されるし、下手ってことになる。演奏もそうだよ。学校では楽譜の通りにやることがいい成績なんだ。作った人だって、それが一番いいって思ってるんだろうから、その通りじゃなかったらがっかりするんじゃないかな」


 作った人のことなんて私は考えたこともなかった。

 だが言われてみればそうなのかもしれない。

 作る側を経験した息子の言葉には重みがあった。


「まあ僕は間違ってもそこからまた新しい何かが生まれそうでそれも面白いと思うけどね」


 息子の思考は私が思うよりも深い。


「どの曲も、誰かが作ったもの。誰かが作らなければ、ない。だから作れる守すごいです。何故学校では作らないですか?」

「それは……作ってもそれがいいかどうか判断するのが難しいからじゃない? 先生はあくまで『音楽の授業のプロ』だから」


 それは確かにそうなのかもしれない。

 私が中学生の時の授業では作曲して自分でリコーダーで吹くという課題があった気がするが、数時間だけのことで、そこが評価されるのは全体のうちの何割にも満たなかったのではないだろうか。

 だがやってみたからこそわかるが、曲なんてそんなに簡単にできるものではない。

 適当なら何かは出来上がるだろうが、『きちんとそれなりに曲らしく聞こえるもの』に仕上げるのはなかなかに大変だ。

 どうしてもどこかで聞いたことがあるような曲になってしまったり、誰の真似でもないとなると不協和音でピーピー適当に吹いているようにしか聞こえなかったりする。


「だからさ、こんな風に何曲も次から次へと新しく生み出して、しかもそれが次から次へとバズってるなんて、本当にノイバスティはすごいと思うんだよ」

「私一人ではありません。守も一緒です」

「僕はあくまでノイバスティが作り上げたものに横からコメントしてるだけだから。ノイバスティのその発想力がすごいんだよ」

「それは守が貸してくれた小説と同じです。異世界から来たらチートですから」


 その言葉にはっとする。

 そういえば、異世界から転移したり転生したりする物語では、現代日本の文化や知識を使ってその世界にはない発明や料理を次々と出して人々の称賛を浴びる、というのが流行っている。

 ノイバスティは異世界ではなく異星だが、文化的背景も文明も違うからこそ、新しい曲や妄想クッキングのような新しい組み合わせを思いつけるのだろう。

 なるほど、と納得しかけた私の耳に、守の「そうじゃないよ」と否定の声が割り入る。


「そういう小説とかのはさ、既にあるものを異世界で披露してるだけじゃん。自分で考えたものじゃないし、その人なりのアイデアっていってもその世界にあるもので再現したくらいのものでさ。主人公自身もそう言ってるものが多いでしょ? だけどノイバスティは違う」

「そうでしょうか」

「この地球で知ったものを自分なりに組み合わせたり、変えたりして、新しいものを作り出してるじゃない。こういう曲がニュイパック星にあったわけじゃないでしょ? ああいう料理の組み合わせがナームハジール国にあったわけじゃないでしょ?」

「そうですね。ニュイパック星には音楽というものがありませんし、料理もせず素材そのままを取り込みますので。だからこそ、地球の文化はとても不思議で、魅力的で、私もいろいろと作ってみたくなったのです」


 そうだったのか。

 音楽も料理もなかったのに、あそこまで人を惹きつけるものを作り出せるなんてすごいとしか言いようがない。

 考えてみたら、酸素がなくても生きていけると言っていたくらいだし、月みたいに大気があまりないのかもしれない。

 空気とか液体とか振動を伝えるものがないと音は聞こえないわけで、音楽が生まれなかったのもそういう背景によるのだろう。

 うん……? だとしたら、ノイバスティは音を聞く器官って持っているのだろうか。

 必要とされない器官は育たないのでは?

 でもちゃんと会話は成立しているし、曲だって作っているわけで。

 そもそも、モナカや妄想クッキングをおいしいと言っていたけれど、味覚ってあるのだろうか。

 あったとして、それは我々と同じなのだろうか。

 ノイバスティの謎がまた二つ増えた。

 だめだ、考えるのはやめよう。


「だからすごいんだよ。あれこれ思いつくっていう才能もすごいけど、その行動力にも憧れてる。僕は、こうしたらどうだろうって思っても、なかなか実行に移せない。おっくうだったり、勇気がなかったり……。だけどノイバスティは、好奇心のままに、なんでもやってみるじゃない? そういうノイバスティを見てると、心から尊敬するし、その結果としてみんながすごいって言ってるのを見ると、『チート』って言いながら無双してる物語を読むよりも、もっとずっとスカッとする。そんなノイバスティの友達であることが誇らしいよ」


 息子の言葉に、表層だけでノイバスティを『チート』扱いしてしまった自分を恥じた。

 息子はきちんとノイバスティを見ている。

 そしてそこからたくさん学び、触発され、真っ直ぐに伸びていっている。

 親がなくとも子は育つというが、こうして親以外のいろんな人と接して様々なことを吸収していくのだと身に染みた。

 そして、あれこれバズを生み出し日本の流行を作り出しているノイバスティはもしや文化的侵略を狙っているのでは、なんて考えていたことも反省した。


「私は、いろいろなことをさせてくれる守に感謝しています。私、毎日が楽しいです。毎日、試してみたいことが溢れてきます」

「本当にノイバスティは才能の塊だと思う。好奇心が新しいものを生むんだね」


 私は好奇心は猫を殺すとかしたり顔で諭そうとしていたのに、なんと真逆な息子か。

 だからこそ息子の言葉はその通りだと思い知る。

 先日の『サンドイッチ×おにぎり×カロリー爆上げビスコッティ』だって、ああして試し、実体験を伴ったからこそ、改良が生まれ、また次々に新たな組み合わせが生まれていったのだから。

 何でもやってみなければ先には進めない。

 新しいものも生まれないし、何も変わらないままだ。

 むしろ、そのままに捨て置いては腐り落ちてしまう。

 けれど息子が言うように、挑戦に勇気や気力が必要なこともまたその通りだ。

 私もつい面倒がって『サンドイッチ×おにぎり×カロリー爆上げビスコッティ』を試すことから逃れたわけで。

 それができるノイバスティはすごい。息子に言われて初めてそのことに気が付いたということが恥ずかしい。


「ありがとうございます。褒められると照れる。これがそういうことなのですね」


 どこか機械的でもあったノイバスティが新しく感情まで学んでいる。

 こうして互いに高め合い、成長し合える関係性は稀有だ。

 改めてノイバスティと息子との出会いに感謝した。


「それでね……。僕、もう一度夢を見てみたいなって思ったんだ」

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