第七章 息子の押し入れには

第1話 親

 幸いにも息子の怪我は頬の打撲と、倒れた時にできた手の擦り傷程度で済んだ。


 病院から帰ると、学校に電話した。

 遅い時間ではあったが、坂崎先生はまだ学校にいて話すことができた。

 谷口さんからも電話があり、長いこと話をしたあと、うちにも電話をくれたそうなのだけど、ちょうど病院に行っている時だったようだ。


 先生の話を聞き、息子の話を伝え、両者の言い分に食い違いがないことが確認された。

 谷口くんはもうしないと話しているそうだ。

 息子の言葉に、いろいろと思うところがあったのだろう。


 小学校と今は違う。

 今のクラスは誰かをいじめようとしている人はおらず、楽しいことが好きで、谷口くんが息子を的にするのをやめたとしてもそれは変わらないはずだ。

 そう考えるようになったという。


 とはいえ、自分は自分を守るためにやったのだという思いはまだあり、最初は息子に素直に謝る気はなかったようだ。

 それも親と先生に諭され、明日の朝いちばんに先生の立ち合いのもと当事者同士で話をすることになった。

 それを遺恨などまるでないように「いいよ」と軽く受けた息子は、頼もしく見えた。


 そうして帰ってきた息子は、「ただいま」とスッキリ笑った。


「谷口くん、ちゃんと謝ってくれたよ。みんなの前でも、これまでごめんって言った。みんなもいいよって、ほっとしたみたいに笑ってた。だから今日、みんなすごくテンションが高かったよ。今日の体育が急遽ドッジボールに変わったんだけど、空振っても、当たっても、とにかくみんな笑ってた」


 そう話す息子は、始終楽しそうな顔だった。

 きっとみんな、緊張から解放されて安心したのだろうし、本当はずっとそうして楽しく過ごしたかったのだろう。

 これからはきっと、楽しい話をたくさん聞けるに違いない。

 息子がそうであるように、私も明日からがまた楽しみになった。


     ◇


 それから一週間、二週間と日々は過ぎたが、息子はますますいい笑顔になった。

 学校の話もたまにするようになり、友達の名前も何人か聞くようになった。

 この嬉しさを誰かと共有したい。

 相手のあることだから、ママ友には話せない。口が軽いとは思っていないけれど、悪い話ほどあっという間に駆け巡るのが人間社会だから。

 ノイバスティには真っ先に話した。

 なるほど、なるほど、と傾聴姿勢を示し聞いてくれ、『守が嬉しいのは私も嬉しいです』と思いを共有できたのだけれど、なんとなくまだ物足りない。


「お父さんに話せばいいではありませんか」

「いやよ。今まで私一人で頑張ってきたのに、いいところの上澄みだけ共有しなきゃいけないなんて、そんなの絶対にいや」


 正論に感情で真っ向から拒否を示した私に、ノイバスティは「うーん?」と重そうな頭をぐらりと傾げた。


「そもそも、何故これまでお父さんに何も共有しなかったのですか?」

「だって、あの人いつも『仕事が忙しい』ばかりで帰りも遅いんだもの。無理よ」

「でも、お休みの日は家にいますよね?」

「どうせダラダラ寝てるじゃない。そんな人に言ってもどうせ耳に入りもしないで空気を通過していくだけで聞いてやしないもの。どうせ話しても何の利益もないのに話すなんて労力はかけたくないわ」

「どうせが三回。『どうせ』というのは、諦めを表す言葉だと学びました。『諦める』とは、希望がないと断念することだと学びました。ということは、お母さんはお父さんに期待しているですね。それも、三回言ってしまうほど、とても強く」


 言われて、すぐに反論しようと思ったのに口がぱくぱくするばかりで言葉が出ない。

 いつも胸の内に巣くっていたことだ。ずっと一人抱いてきた思いだ。

 揺るがない結論にまで醸成されたと思っていたのに。


 確かにノイバスティの言う通りだ。

 私たちはどちらも親で、子どもの成長を真っ先に一緒に喜びあいたいし、いいことも悪いことも共有したい。

 だからこそ、話している時にスマホやテレビを見始めてしまうことが何度もあると、寂しさ、むなしさが膨れ上がってもやもやしてしまう。

 それが嫌で、そういう話をしなくなってしまった。

 会話はあるが、聞いていても聞いていなくても支障のない話ばかりだ。


「それと、お父さんはいつも聞いていないのですか? 『ご飯できてるわよ』と言うと『はいはーい』と返事をしていますが」

「生きていく上で必要なことは聞こえるのよ」

「ふむ。すごいですね。人間は相手の主観がそこまでわかるものなのですか」

「そうじゃないけど、聞いてないのは見てればわかるもの。聞いてるような態度じゃないの。あの人はいつも家のことなんて、何も考えてないんだから」


 話しかけても、ふうんと気のない相槌が返るだけ。そんな無駄なコミュニケーションに時間を割くのは百害しかない。

 相談したところで、共感が得られるわけでもなければ反対意見が聞けるわけでもない、目から鱗の悟りを開けるわけでもないのだ。

 私が向かい合っているのは藁ではなく、口があって、同じ言語の使用者で、意思があって、何かは考えているはずなのに、何も返ってこない。

 かけた労力に対しての”無”というのは、思うよりもダメージを食らう。

 それよりは独り言をうっかり誰かに聞かれてしまったほうがはるかにマシだ。

 だから、最初からこの人には相談しないと割り切っていたほうが楽だった。

 仕事をして稼いできてくれるのだからそれでいい。それがこの人の役割で、後はすべて自分でやらなければと言い聞かせれば、どんなに悩んでも、どんなに苦しくても、一人で踏ん張れた。

 それなのに、いいことだけ伝えるなんて。嬉しさだけを味あわせなければならないなんて、絶対にいやだ。

 ズルい。


 そんなのは健全な家族じゃないということはわかっている。

 歩み寄りが必要なこともわかっている。

 だがこれまでさんざん伝える、共有する努力をしてきたのに、何故ここでもまた私が歩み寄らなければならないのか。

 夫だって腐っても親なのに、「最近守の様子はどうだ?」と聞いてくることもない。

 息子とは滅多に顔も合わせず、私からも何も言わないのに、よく気にならないなと思う。


「そうですか。お父さんは悪なのですね」


 しかし納得したようにノイバスティに言われて、さすがに慌てた。


「悪ってわけじゃないわ。ただの空気よ」

「『空気』。人間が生きるのに大事なものは供給するものの、何かしら能動的にアクションを起こすことはない。秀逸なたとえですね」

「いや、あの、私が考えたわけじゃないので。よく使われる言い回しです」

「ふーむ。では、守のことを考えた場合はどうですか」

「だから守のことしか考えてないわよ」

「そうではなくて。守にとってそれがどうなのかということを考えたら、ということです。具体的に私が想像してみたところでは、まずお母さんが守の嬉しいことをお父さんに共有した場合、確かにお父さんが嬉しくなります。ですがそうすると、お父さんが守を褒めます。守が嬉しくなります。お母さんだけに褒められた時よりも二倍嬉しくなるのです。あっていますか?」

「――それは、確かに、守は嬉しくなると思う」


 何度も言うが腐っても親だ。

 いや、息子にとっては今も昔もいい父親のまま。嫌ってなんていない。

 私は息子が得るべき喜びを奪っていることになるのだろうか。

 意固地になっていた胸に、ヒビが入ったのはわかった。

 けれど、そんなすぐに切り替えられるわけじゃない。


「まあ、私にも守にもノイバスティがいるもの。別にいいわ」


 そう言った私に、ノイバスティは間を置かずに言った。


「私、もうすぐ、旅立ちます。次の星を探さなければなりません」


 何故忘れていたんだろう。

 彼は押し入れの住人だ。

 客人として部屋を与えられていないのは、彼が他の人間からは存在を隠すべきであり、それは他の星から来た地球外生命体であるからだ。

 そしてずっとここに滞在するわけではないとわかっていたから。


 なのに。

 私の中の当たり前は、いつの間にか変わってしまっていた。

 そうだった。

 彼はこの家にいるのが当たり前なのではなく、いつか帰るのが当たり前なのだ。

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