第9話 病室

「あら、今日もお見舞い?」


 通い慣れた病棟のナースステーションで声をかけられ、「はい」と遠慮深げな笑みを浮かべて会釈をし、通り過ぎる。


「ICUを出て一般病棟に移ってから、何度も……。偉いわね」


 背後からひそひそとしたそんな声が聞こえたが、被害者を見舞う加害者に見せているだけで、俺は俺の大切なものを見舞っているだけ。

 理は今頃ターゲットの情報収集に飛び回っているはずだ。

 寝ている姿など見せたくはない。


 通り過ぎてすぐの白い扉にコンコンとノックをするが、返事はない。


「入ります」


 外にいる人を意識した他人行儀な声をかけて、扉を静かにスライドさせる。

 ベッドを囲むカーテンはわずかに開いている。

 看護師や医師が出入りするだけで、本人が閉めようとも思わないからそのままになっているのだろう。

 俺はカーテンを少し開いてくぐってから、しっかりと閉めた。


「よお。元気にしてるか」


 ベッドに横たわったまま、包帯でぐるぐる巻きにされたその人が答えることはない。

 クローゼットとベッドの間に立て掛けられていたパイプ椅子を広げると、ギチッと耳障りな音が鳴る。

 そこに座ればまたギシィと響くが、それでも目を開けることはない。

 瞼は青白く、様々な管に繋がれ、傍にはたくさんの電子機械が耐えず動き続けている。

 心臓の鼓動を示す信号を眺めているうち、理の母の話が頭によみがえる。


 あそこは理の家で、あの人は理の母親だ。

 外で発言には気を付けたとしても、理の無事を喜ぶのは自然なことだし、とにかく理のことを考えるのも当然だし、それを理に告げるのも普通のこと。

 だがそこにいるのは他人の俺。

 そして俺にとっては理の生死よりも、理のこの先の将来よりも、この体のほうが大事なのだ。

 理の母が理を一番に考えるのと同じように。


 もしもこの体が二度と目覚めないようなことがあれば、俺は決して理を許しはしない。その思いは今も変わってはいない。

 理が何も下敷きにせずそのまま道路に落下していたら、もっと酷い怪我を負っていたかもしれないし、命もなかったかもしれないが、理が落ちて来なければ下敷きになる人間などいなかったのだ。

 俺と理の母親は一番が違う。

 だからこそ、本当はあまり関わりたくはなかった。

 理にも。その家族にも。


 回復するならまだいい。

 だがそうではなかったとき、俺は自分がどうなるかわからない。

 理はこの体から出なかったら祓うだなどと軽口で言っていたが、それこそ俺は悪霊にでもなるかもしれない。

 失ってしまった後に恨んだって仕方がないとなら言うかもしれないが、俺はそんな簡単に割り切るなんてできない。諦めることはできない。

 だが今は、理の境遇に同情もしているし、理解もした。その芯の強さには舌を巻いているし、俺には考えつかないようなことを考え、実行に移す頭のよさと大胆さを素直にすごいと思う。

 理を知れば知るほど、まだ生きるべき人間だと思う。

 だからこそ、俺のこの不条理への怒りや焦燥はどこへやればいいのかわからない。

 それでも、いつでも変わらず胸から溢れるのは、この体に生きてほしいという願いだ。


「死ぬなよ。俺はまだここにいるんだぞ」


 声をかけても、瞼さえぴくりとも動かない。呼吸も静かで、顔を近づけてもわからない。

 ちゃんと生きているのだろうか。熱はまだ保っているのだろうか。

 規則的な生体反応を示す機械に騙されているのではないかと疑いたくなるくらい、生きている気配というものがなかった。

 包帯でぐるぐる巻きにされたその体は、どこに触れるのもダメージになってしまう気がして、触れる気にはなれない。


「俺はロクな人生じゃなかった。間違ったこともいっぱいした。だけど、これはあんまりだろ? なあ――」


 祈るように組んだ手を額に当てる。

 もしもこの命が失われたなら、俺は神にだって盾突く。

 そんな不条理は許さない。


「体は回復しつつあるって看護師からは聞いてる。今目覚めたら痛いから起きないんだよな? 体がもっと治れば、目も覚ますよな?」


 やりたいことだってまだあったはずだろう?

 まだまだ先は長いんだ。

 こんなところで寝ている場合じゃない。


「頼むから。お前が死んだら、俺が今もここにいる意味がなくなるだろ? 頑張ってくれ。生きてくれ」


 立ち上がり、固く閉じられた血の気のない瞼を見下ろした。

 頭上のネームプレートに書かれた『一ノ瀬』の字に指を這わす。


「まったく……。なんでこんなことを、おまえは――」


 ぐっと指を握りこみ、俺は再びカーテンをしっかりと閉めて、病室を後にした。

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