ツーボンド

夕目 ぐれ

1章 奴隷の少女と大樹の女王

第1話 奴隷の子

〜*〜*〜*〜*〜*


 ———また、これだ。


 辺り一面燃え盛る炎の幕で覆われて、私は耳を両手で塞いでしゃがみ込んでいる。


 ———それなのに、聞こえてくる。


 誰かの悲鳴や叫喚きょうかんの声が。この世の地獄を体現したかのような不協和音は、耳の鼓膜に張り付いているみたいに決して取れない。鳴り止まってはくれない。


「……なさい、ごめん……い」


 目も閉じているのに、赤い色をした惨事さんじの光景が目に浮かぶ。まるでまぶたの裏に焼き付いているかのようで消えてはくれない。

 もう元が何だったか分からない焼き切れた“それ”は、確かに私にこう告げてくる。


 なんで?———と。


「———っ!! やめて!」


 胸の内から湧き上がる激情と共に私は叫んでいた。この場から逃げるように走り出して、赤い炎と黒煙の中に突っ込んで行く。


 私は知っている、これは“夢”だって。だからこの火には熱さも痛みもない。全部夢という幻なんだから。

 なのに、この肌が焼けるような痛みはなんだろう。心臓が引き裂かれるようなこの痛みはなに?


 やがて朦朧もうろうとする意識と共に世界の輪郭が歪んでいく。途切れかけた意識の中、何かにすがり付くように、許しをうみたいに、私は言った。



 もうなにも望まないから、夢なんてみないから、だから———



 あの日、あの炎の中、私の何もかもはほとんど燃え尽きてしまった。

 残った燃えかすには、この命と身体以外に何が残っているのか、もう……私には何も分からない。



〜*〜*〜*〜*〜*


「……はぁ、はぁ」


 肌寒い、それに心臓が痛いと訴えているみたいに鼓動を速めていた。これは私にとってはいつも通りのこと。でも身体中の節々に感じる小さな痛みは違う要因だ。

 まだ呆然としている頭に力強く地面を蹴る馬のひずめの音が響く。それに合わせて私が乗せられている荷車が大きく揺れて、私の身体はその度に硬い木材の床に打ち付けられる。


「ルル。また、いつもの悪夢か?」


 り固まった身体を小さく伸ばしていると、私の元へ横から声が届いた。それは私以外の同乗者の一人マゼルのもので、気怠けだるそうに伸びをしていた。

 マゼルは私より一つ歳上。背は高く長身だけど身体全体の線は細くせている。他人のちょっとした変化にも気付いて気を利かせられる優しい人。私も兄のように慕っている。


「ごめん、起こした?」


「いや、こんな環境では誰も気持ち良くは寝れないだろう。……この馬鹿は除いてな」


 マゼルはそう言いながら、真横で寝ているもう一人の同乗者、コールを肘で雑に小突いた。

 コールは私と歳は同じ。背は私より少し高いくらいで、男の子としては低い方。活発で元気な人で、奴隷という立場には不満しかないみたい。よく揉め事を起こす問題児だったりする。


 そんなコールはマゼルに小突かれようとも、穏やかな寝顔は崩れそうになかった。いつもはそんなコールの様子に安心するけれど、今はどうしても不安が募ってしまう。


「……コール、今回の主様あるじさまに仕えることが決まってから、ずっと楽しそうだよね」


「そうだな。最近は益々口を開けば夢だ、夢だったんだ、とうるさい限りだ」


 不安をまぎらわすように投げ掛けた言葉に、マゼルはいつも通りに素っ気なく答えた。


「……夢」


 その言葉を耳にして、落ち着き始めていた心臓の鼓動が再び騒ぎ出す。ついさっき見た夢の内容がまた脳裏にぎる気配がして、私は逃げるように口を開いた。


「……意味ないよ、そんなの」


「……あぁ。俺たちのような奴隷が夢見たって無駄なだけなのにな」


 私のかすむような呟き声に、マゼルは小さく同意を返してくれた。お互いに誰に言った訳でもない独り言のようなものだった。


「ルルも、いつまでも付き合わなくていいんだぞ、この馬鹿に」


 その声に反応してマゼルに顔を向けると、コールのだらしない寝顔をあごで指すのでそっちに目が向く。


(いつまでも……、か)


 マゼルとコールに出会ってもう八年近くなる。こんなに長く一緒にいることになるなんて想像もしていなかった。でももう、二人のことは家族のように想っている。それはきっと、二人も同じだって。


「それは、マゼルだってそうでしょ?」


「……こいつは放っておくと死んでしまいそうで目が離せないだろ」


 そう言うマゼルの顔は、きっとバツが悪そうにしているんだろうな、と私はマゼルに顔を向けずにほくそ笑む。あんな意地悪なことを言ってきたお返しだ。


「じゃあ、見張っとかないとね、二人で」


「……まったく、もう少し大人しくしてもらえたら助かるのだけどな」


「それは……、それで心配にならない?」


 あのコールが主様に大人しく従っている様を想像してみたら、揉め事になっている姿しか浮かばなかった。

 隣から返答の代わりに重たい溜め息が聞こえてきて、私は小さく笑ってしまう。


「ルル、起きたばかりだが少しでも寝ておいた方がいい。きっと、明日には目的地だ」


 私はマゼルの言葉に首を傾げた。

 もう何日もこの周りを布で塞がれた荷車で過ごしている。偶に外の様子を盗み見てはいるけれど、断片的な情報だけでは今どこにいるのか定かではない。


「目をつむれば分かる。寝るのは辛いだろうけど、目的地に着いたら嫌でも労働の日々だ。少しでも身体ぐらいは休ませておけ」


 私の疑問は顔に出ていたのだろうか。私が何かを口にする前にマゼルが言う。

 相変わらずにマゼルは目敏めざといというか。こういうところは頼りになるけれど、時によっては少し恥ずかしさみたいなものを感じてしまう。


「……お父さん」


「うるさい、寝ろ」


 素っ気ない返しを残して、マゼルは私に背を向けて身体を横たえた。こういうところも昔から変わらないな、と頬が少し緩む。


 私はマゼルの言うことにならってそっと硬い床に身体を預けた。

 そして目を瞑るといつも不安になる。車輪がガタガタと地面を滑る音、そこら中から聞こえてくる虫の鳴き声。身体を打ち付ける硬い感触は変わらない。また、あの夢を見るのだろうか、と不安が私を襲う。


 私は少し身をよじって頼りない荷車の小さな壁に自重を預ける。開けた視界には何も変わらない二人の姿が映る。その姿を瞳に焼き付けるようにじっと見つめて、私は再び目を瞑った。いつもと変わらぬことを想いながら。



 私はあの日、もう“夢”は見ないと誓った。だから、夢なんて見たくない。見せないでほしい。

 でもきっと、私はまたあの炎の中に戻されるのだから、もう……どうでもいい。目を瞑って、耳を塞いで、ただ目覚めを待つだけ。


 遠のく意識の中、無意識に睡魔に抵抗する。まるで水中にいるような浮遊感を感じながらどこか遠く潮騒が聞こえた。マゼルの言う通りだ、目的地は近い。

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