第21話 お兄さんの部屋

 私の心臓は今、痛いと感じるほど激しく動いていた。

 ななちゃんのおうちの二階。

 いつもは階段を上っても奥のななちゃんの部屋にしか入らない。


 だけど今、私はななちゃんの部屋の手前、『とおる』とかかれたプレートがぶら下げられた扉の前にいた。


 とおる。……お兄さんの名前。

 そう。私は今からお兄さんの部屋に入る。


「どうぞ、入って」


 前に立っていたお兄さんがゆっくりと扉を開く。

 見てはいけない場所を見るみたいで、私は思わず手で目を覆い隠してしまう。


「なにやってんのあーちゃん。ほら入るよ」


 呆れ声のななちゃんに手を引っ張られて、無理やり室内に引き込まれる。


「ちょっと、まっ、心の準備がぁ……っ」


「いらないいらない、そんなのいらないから」


 そうして私は、お兄さんの部屋に足を踏み入れてしまった。


 ななちゃんの部屋と同じ広さだと思う。

 だけどそうと感じさせないぐらいに、お兄さんの部屋は広く見えた。


 青と白と黒の三色を基調とした落ち着いた室内には物が少なくて、手前の壁に本棚、奥にベッド、そしてベッドの傍に勉強机があるだけ。


 お兄さんらしい、シンプルな内装だ。

 部屋の匂いも違っていて、…………お兄さんの匂いがする。


「お~い、あーちゃーん? かえってこ~い」


 遠くから声がする。

 がたがたと肩を揺すられている感覚にハッとした私は、声のした方を向く。

 あーちゃんがなんだか呆れた顔でこちらを見ていた。


「大丈夫? なんか女の子がしちゃだめな顔してたけど」


「っ、し、してないもんっ」


 慌ててお兄さんから顔が見えないように俯く。

 すると、私たちがそんなやり取りをしているのを露とも知らず、お兄さんはクローゼットを開けた。


「ちょっと小さいかも知れないけど、机はこれでいいか?」


 そう言ってお兄さんが取り出したのは折りたたみ机だった。

 言いながら部屋の中心に敷かれている青の下地に白の水玉が入った可愛らしいカーペットの上に広げている。


「うんうん、おにぃ、さんくす」


「じゃあちょっと飲み物とか持ってくるから、先に始めといてくれ」


「あ、手伝いますっ」


「いいからいいから。妹の相手をしてあげてよ」


「……なんかその言い方ちょっとだけ癪に障るなぁ」


 むぅと不満げにするななちゃんをよそに、お兄さんが部屋を出て行く。

 トントントンと、階段を降りる音が聞こえてきた。


「……さて、あーちゃん。おにぃのベッドに飛び込むなら今がチャンスだよ!」


「し、しないよ!」


 なんてことを言い出すんだ、ななちゃんは!


「え~、じゃああたしが飛び込んじゃお~。それっ」


 そう言ってあーちゃんはこれ見よがしにお兄さんのベッドに飛び込んだ。

 大の字でうつ伏せになると、「はぁ~~~~」と挑発するような声を出している。


「ず、ずるい……じゃなくて、お兄さんに怒られるよ」


「怒んない怒んない。おにぃ、あたしにはなんだかんだで甘いから」


「……それはそうだけど」


 ごろりとベッドの上を寝転がり、右側を空けた状態でななちゃんがこちらを見てくる。


 私の頭の中で、二人の私が言い合っていた。


『ななちゃんもああ言ってるんだし、ちょっとぐらいいいでしょ!』


『ダ、ダメダメっ。勝手にお兄さんのベッドに入るなんて、変態だよ!』


『お兄さんが戻ってくるまでちょこっとだけだから!』


『それでもダメだよ! バレるかバレないかじゃなくて、これはモラルの問題っ』


「――――」


 私はふらふらとベッドに歩み寄ると、ちょこんと、ななちゃんの隣に腰を下ろした。


「え~、そんなんでいいの? ほらほら、こうしてみなって」


 ……悪魔は私の頭の外にもいた。

 だけどこうしているだけで精一杯だし、何よりこれ以上は本当に変態さんみたいだ。


「っ、も、もういいっ。勉強しよっ」


 おしりに伝わってくるベッドの感触に恥ずかしくなって立ち上がろうとした私の視界を、突然何かが覆う。


「逃がさないよ! うりゃぁ!」


「きゃっ」


 どさりと、私の体はお兄さんのベッドに倒れていた。

 体の上にはななちゃんが乗っている。

 どうやら押し倒されたみたいだ。


「~~~~っ、な、ななちゃん……っ」


 お兄さんが普段寝ているベッドに押し倒されている。

 背中全体に適度に堅いけど柔らかいマットレスの感触。

 まるでお兄さんに抱きしめられているような感覚に、私はまともに声も出せずにいた。


 そんな私を押し倒したまま、ななちゃんが得意げに言う。


「ふふん、どう?」


「ど、どうって…………、きもち、いい、けど」


「でしょ? あたしに感謝しなさい」


「あ、ありがとう……って、ちがっ、やめてはなしてぇ……」


 よじよじと拘束から逃れようと身を捩る度に、ベッドのシーツと掛け布団が乱れ、一層胸がどきどきする。


 なんだかこのベッドで寝たい。

 そう思い始めた時だった。


 ガチャッと、部屋の扉が開いた。


「……その、わ、悪い」


 お兄さんはベッドの上にいる私たちを見て、どうしてか気まずそうに謝ってくる。


 ……改めて。

 私は今の状況を客観的に見て、


「っくぅ、~~~~~~っ!!!!」


 声にならない声を上げる私の頭上で、ななちゃんがコロコロと笑っていた。




 ◆ ◆ ◆




「……その、ごめんなさい」


「いやいや、俺こそ邪魔しちゃって……」


 なんとも微妙な空気の中で、私たちはようやく勉強を始めた。

 カーペットが敷かれた床の上。お兄さんが別の部屋から持ってきてくれた座布団に座って、机に教科書とノートを広げる。


 それを見てお兄さんも勉強机に向かった。

 私たちが月末に中間試験を控えているのと同じように、お兄さんにだって試験はある。


 勉強机は壁に向いていて、お兄さんは私たちに背中を向ける形で机に向かっていた。


 ついシャーペンを握る手を止めて、お兄さんの後ろ姿を見つめてしまう。

 ……勉強するお兄さんも、凜々しくてかっこいい。


 ぼんやりと眺めていると、つんつんと、脇をつつかれた。


「何ボーッとしてるの。折角場は整えたんだから、ここは積極的に行かないと」


 お兄さんには聞こえないような声量でななちゃんが言ってくる。


「積極的……?」


「まあほら、そこは見てて」


 何やらななちゃんは自信満々にそう言うと、お兄さんの方を向いた。


「ねー、おにぃ。ちょっとここ教えてくんない?」


「んー、どれどれ」


 ギィと椅子を鳴らして立ち上がったお兄さんは、私の対面に座るななちゃんの隣に腰を下ろす。

 そうしてななちゃんの手元を覗き込んだ。


(――!)


 近いっ。当たり前だけど、お兄さんとななちゃんの距離はこれでもかと言うほどに近かった。


 顔は息がかかるような距離で、お兄さんはななちゃんのノートを指差している。

 肩はもうすっかり触れ合っていて、兄妹だから当たり前のその距離感に私がすっかり赤くなっていると、お兄さんの説明を聞いていたななちゃんが顔を上げてこちらを見た。


「――――っ」


 そしてパチパチと、ウィンクを数回。

 それだけで私はななちゃんの意図を察した。


「おーさっすが二年生。頼りになる~」


「いやお前、こんなところで躓いてて大丈夫か?」


 そんなやり取りの末、お兄さんは勉強机に戻っていった。


 ……ななちゃんの催促するような視線が痛い。


 でも、わからないところがないのにお兄さんに相談するのは迷惑、だよね。


 そんな言い訳をしながら私が勉強を進めていると、ななちゃんはため息を零していた。




 そうして勉強を進めること一時間。

 ふと、私の手が止まる。


 それまでは順調に解けていたのに、応用演習のところで躓いた。


「ななちゃん、ここわかる?」


 私はななちゃんに助けを求める。

 だけど、ななちゃんは私の手元を見ることなく首を横に振った。


「あたしには難しいかなぁ~」


 どこか白々しい態度。


 その目はちらちらとお兄さんに向いていた。


(ななちゃんの意地悪……っ)


 助け船を出してくれているのはわかっているけど、私はついななちゃんのことを睨んでしまう。

 だけどそんな私の威嚇も虚しく、ななちゃんはどこ吹く風といった様子。


 頭の中に今度は天秤が現れる。

 だけどその天秤はおもりを乗せる前から完全に傾いていた。


(っ、わかってる、けど……)


 問題の解き方もわからない以上、お兄さんに質問するのはなんの問題もない。

 そうすることでお兄さんと近付けるなら一石二鳥。


 ……問題は、私が恥ずかしいというだけで、そんなことは考える必要ない。


 折角私のためにこの場を整えてくれたななちゃんのためにも、何よりも私自身のために、動かないといけない場面だった。


「あの、お兄さん……」


 私は躊躇いながらも声をかける。


「ん? 安城さんもわからないところがあったか?」


「は、はい。……ええと、ここ、なんですけど」


 教科書を手にとって、火照る顔を隠すように顔の前にかざす。

 椅子から降りたお兄さんが私の正面にかがみ込み、教科書を覗き込んできた。


「~~~~っ」


 お兄さんの顔が、教科書を隔てたすぐ傍にある。

 少し長めの前髪の下。優しくも鋭い瞳が私を……じゃなくて私が手にする教科書を見つめている。


 そんなお兄さんの目を、私はちらちらと窺っていた。


「ああここね、難しいよね。ちょっと貸して」


 言いながら、お兄さんは教科書を受け取ると私の隣に腰を下ろす。

 そうして机の上のノートを覗き込みながら話し始めた。


「ここはこの公式を使うんじゃなくて、まずはグラフを作って……安城さん?」


「ひゃ、ひゃいっ」


 お兄さんの吐息がかかる。

 私はぶるりと全身を震わせながら、情けない声を上げていた。


「大丈夫?」


「だ、だいじょぶですっ。つ、続けてください」


「……? ええとね、グラフを作って出した数字を――」


 お兄さんには悪いけど、私の頭の中にお兄さんの説明は中々入ってこなくて。

 結局私は何回も同じことを聞き返していた。

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