第25話 お仕事は後始末が肝要(前編)

 次に目を覚ました時、私は医薬院長室の奥にある侍従の控室に寝かされていた。柔らかな掛布にくるまれて、小窓から見慣れた王城の景色をぼんやりと眺める。春の陽射しはどこまでも明るく穏やかで、遠く奥宮で演奏される雅な楽の音が風に乗って流れてくる。そうしていると何の変わり映えもしない、至極ありふれたある日の午後に思えた。昼餉の後についうたた寝をしてふと目覚めたような、そんな感じだ。

 あんな恐ろしい出来事など、何も起こらなかったのではないかという気がしてくる。実際のところ、自分は長い夢を見ていただけではないだろうか。夢落ちとはとんだ酷い結末だが、私の数奇過ぎる人生を思えば全くあり得ない話でもないと思う。


 もしそうならばと、私は小さな窓から絵の具で塗ったように鮮やかな水色の空を見上げた。昨夜のことはもちろん、いっそあの朝、白蓮様にとんでもない勘違いをされた瞬間から、夢を見ていたのかもしれないと考えている今この瞬間までの全てが、本当は疲れ切って倒れこんだ下女寮の、固く冷たい寝台の上で見ていた束の間の夢なのではないだろうか。

 夢でなければ、あるいは大剣を振り落とされて首だけになった私が、今際の際のほんの泡沫の時に見ている、支離滅裂な記憶の残滓ざんし──。誰かが助けにきてくれたのかもしれないというのも、自分に都合のいい幻想なのだ。私はあの冷たく湿った誰も知らない暗い森の奥で、今まさに死ぬところなのだろう。

 だとすれば、ここはもうほとんどあの世なのだ。だからこの部屋はこれほどまでに静かで穏やかだし、だからこそ全ての状況はこれほどまでに不条理で、たった少しのことでさえ自分の思い通りにならないに違いない。


 夢落ち、そうであったならと、私はこれまでに一体何度考えただろうか。どうかそうあってくれたなら、どれほどほっとしたことだろうか。ぶうぶうと文句をいいながらも、友達に話すとっておきの冗談にでもしただろう。しかし結局、何かしらの痛みや苦しみが、私にこれが現実なのだと知らしめては、その儚い期待を粉々に打ち砕いてきた。

 今もそうだ。違和感を感じて首元に伸ばした指先が、包帯のざらついた感触に触れた瞬間、私は雷に打たれたようにあの混乱と恐怖を思いだした。反射的に起きあがろうともがき全身を襲う激痛に悶絶する。

 まるで体が錆びたブリキ人形になったみたいだ。ちょっと身動ぎしただけであらゆる関節が悲鳴をあげる。頭は西瓜割りでもされたみたいに痛いし、胃はさっき二郎系ラーメンでも詰め込んだみたいにひっくり返りそうだ。酷い二日酔いを十倍にして、さらにごみ溜の中で目覚めたような、そんな最悪の気分だった。


 私の儚い期待はまた粉々に打ち砕かれた。これはどこをどう考えてみても、昨夜の一件を夢落ちにするのには無理がありそうだ。夢の中でこんなに体が痛くなるような目にあえるはずがないではないか。やっぱりあれは夢などではなく、間違いなく本当に我が身に起こった出来事……それに──。

 私はぎこちない動作で持ちあげた自分の手を、窓から差しこむ日にかざしてしげしげと眺めた。どうやら私はまだちゃんと生きているらしい。ちゃんと生きていて天虹国このせかいにいるらしい。

 何度見つめなおしても日差しにかざした手は透けないし、見慣れた医薬院の部屋の背景も変わらない。思い切って敷布に手をつけば、ゆっくりとだが起きあがれるし、掠れてはいるが声もだせる。剥がされた爪も、折れている指もない。首の傷だって薄皮一枚切られただけの擦り傷だ。あんな目にあったにしてはちょっと意外なほど、私は元気に今日も天虹国このくにで生きてる。


「……生きてる」

「ええ、生きてますよ」


 思わずこぼれた独り言に予想外の返事があって、私は飛びあがった。そして再び全身を襲う痛みに悶絶する。


「まだ安静に、痛むでしょう?」


 にこりと微笑んで扉から姿を現したのは、私が医薬院から逃げだしたあの朝、白蓮様と一緒にこちらを覗き込んでいた、深緑の髪に童顔丸眼鏡のひょろりとした男性である。彼は医薬院副院長の桂夏けいかと名乗った。

 桂夏は丸椅子を引き寄せて傍に腰をおろすと、手慣れた仕草で私の診察をしはじめる。私はされるがままになりながらその様子を呆然と眺めた。

 どうやら自分が助かったらしいというのはよくわかった。しかしこの状況は何だろう? 医薬院から逃げだした私がしでかしたことは、副院長にこんなふうに親切に看病してもらえるようなことだっただろうか? それともこれは私を油断させるための作戦なのか──。


「安心なさい、大体のところは後始末が済んでいますから」


 桂夏は手を休めずに横目で私をちらりと見る。単なる慰めではない事情を含んだ声色に、私の肩から力が抜けた。余程情けない顔をしていたのだろう。目を伏せた桂夏が笑みを噛み殺す。


「あまり他言してもらっては困りますが……まあ、君は当事者ですしね。それにその顔は、君は知るまで絶対に気が済まないと、そういうたちでしょう? 白蓮せんせいからも許可はもらっています。うーん、だけどどこから話したらわかりやすいのかなぁ。僕も又聞きでそれほど詳しくは……ああ、そうそう!」


 桂夏は急に悪戯を思いついた子供のような顔をして頬を寄せる。副院長というくらいだから、実際には白蓮様とそれほど変わらぬ年齢なのだろう。しかしそうしていると桂夏はずっと若く見えた。ほんわかした少年のような彼に、警戒心を保ち続けるのは難しい。


「そういえば、最初に澪君の異変を知らせてくれたの、誰だと思いますか?」

「……最初に?」


 意外な質問に私は瞬きした。そしてまだ靄がかかったような頭を必死に働かせて記憶をたぐる。確かあの時、私たちが行こうとしていたのは、早は確か……。


「人事院長の……弦邑げんゆう様でしょうか?」

「ふふふ、そう思うでしょう? それがなんと! 宮内院長の斎峰さいほう様なんですよ」

「えっ、斎峰様が?」

「こういうことだそうでして──」


 そうして桂夏は昨夕からの出来事を教えてくれた。桂夏が語った内容は概ねこういうことだ。最初に私の異変に気がついたのは斎峰だった。夕闇に包まれた薄暗い前宮の廊下で、通りがかりに叱責されたあの時だ。

 前宮は宮内院の管轄ではないが、彼らは最近恒例と化した風紀の見回りをしているところだった。そこで私達を見つけたのである。斎峰が違和感を感じたのは、私達が仕事中にも関わらず私語で騒いでいたからではなかった。そうではなく、どう見ても女官と侍従のなりをしているのに、まるで殿上人に遭遇した下女のように怯えていたからということらしい。

 そう言われてみれば……、と私は再び記憶をたぐった。海に会った後、下女寮に戻って早と話したりしていたから、すっかり元の下女に戻ったつもりになっていた。しかし確かにあの時の私が着ていたのは、白蓮様に借りた侍従衣装だった。

 その時の様子を思い浮かべてみる。その光景は知っている人が見れば多少奇異に映ったかもしれない。しかし王城に勤める官吏で、それが下女か女官か気にする者など普通はいない。院長ならばなおさらだ。しかし斎峰はその違和感を見逃さなかった。貴殿の侍従が何か面倒事に巻き込まれているらしいと、すぐ白蓮様に一報してくれたのである。

 斎峰の一報は警告に近い内容ではある。しかしそれでも院長が役もついていない侍従について、わざわざ知らせてくれるのは相当な親切に違いない。そのままにしておいて、後々交渉材料にすることだってできるのだ。しかし潔白な斎峰はそれをしなかった。お陰で白蓮様は思いの外早く私の異変に気づき、そして海に連絡がいった。


 なぜここで海が? と不思議で堪らないのだが、ここに関しての桂夏の説明は一向に要領を得ない。先生は頭脳労働担当で荒事向きではないとかかんとか、よくわからない理由を並べたてて有耶無耶にされてしまう。しかしとにかく、二人のつながり如何いかんは別にして、白蓮様が海に連絡し、海が私を見つけてくれたと、そういうことである。

 手がかりとなったのは、昨朝にもたもたする私に痺れを切らせた白蓮様が、代わりに私の髪を結った際にに使用した髪結い紐だった。倉庫で暴れた時に解けたのだろう。それを周辺を捜索していた海が見つけた。倉庫区画の奥、雨漏りで使われなくなった倉庫の一室だった。鍵が外れたままの搬出扉を見て、私が場外に連れ去られたのだと直感した海は、すぐ各門に伝令を飛ばしてくれた。


 すぐに返事が返ってきたのは西門だ。なんでも四半時ほど前に不審な馬車を通したという。不審といってもその馬車にはちゃんと入城記録もあるし、退城に必要な書類にも不備はなかった。しかし西門警備長の沈雨じんうによると、それは整いすぎていたらしい。

 本物よりも本物らしい、とはどういうことなのか。色々とよくわからないが、つまりは馬車も記録も書類も一見ちゃんとしているように見えて、馬車は車輪だけは不釣り合いに古く思えるし、記録の署名は他と比べて綺麗過ぎるようだし、書類は必要以上に揃い過ぎているしとでどこか胡散臭いと、どうやらそういうことらしい。

 桂夏の話を聞きながら私はあの馬車の酷い揺れを思いだしていた。しかしあくまでもの勘のこと。手続きに不備はないし、それ以上の具体的な証拠があるわけでもなく、彼等は不審に思いつつも馬車を通すしかなかった。


 しかし西門からでたのは僥倖ぎょうこうだったと桂夏はいう。もし搬入出用の北門からでていたら、そのまま市井の雑多な界隈に紛れてしまい発見は難しかっただろうと。一方で、西門からは他国へ続く街道にでられるので距離は稼ぎやすいが、その分続く道は単純な直線だ。単騎で駆ければ先を行く馬車に追いつくのも難しくない。お陰で間一髪、私の首が飛ぶ前に、海と西門の警備兵達が駆けつけてくれた。

 私は最後までじっと聞いていた。しかし一番気になることは頭文字にも触れないままだった。

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