第23話 お仕事は命がけです

「それとも、持ち場を交代して迷惑をかけたこと気にしてるの? 安心してよ、怒ってなんてないから。この半年で澪ちゃんの迷惑には慣れっこだもん」


 雪は相変わらずこの場にそぐわない可憐な仕草で肩を竦める。


「それよりも、こうして連れだす方がずっと大変だったんだからね」


 雪はわざとらしく拗ねたように甘い声をだして頬を膨らませる。闇に潜んだ別の誰かが咳払いをする。しかし彼女には聞こえなかったようだ。一層夢中になって話す声は奇妙な熱を帯びてくる。


「だって何度仕かけても、澪ちゃん全然罠にかかってくれないんだもん。最初は澪ちゃんを城下に連れだすだけでよかったんだよ。なのに次のお休みは城下に遊びに行こうって約束する度に、澪ちゃん風邪をひいたり急な仕事が入ったりして全然外にでられないんだもん。本当に困っちゃった」

「ん、んぅ……」

「お陰で痺れを切らせたあの方に、王城内で手を回していただくことになっちゃった。私ももう絶対に失敗できないんだよ。そっちのほうがずっと困ってるんだから。仕事を交代したあの日、どうして打ちあわせした通りの経路で医薬院に行ってくれなかったの? 待ち伏せが台無しじゃない。しかも突然姿を消して何日も戻って来ないし。まさか白蓮様のところでそのまま働いていただなんて考えもしないじゃない。他の人に先を越されたんじゃないかと思って、本当に心配したんだからね」

「んんっ!」


 私は目を限界まで見開いた。目の前のこの少女は一体誰なのだろうか。雪そっくりの外見をした全くの別の誰かが、まるで雪のような口調で恐ろしいことをいっている。雪がこんなことするはずがない。あの優しかった雪が──。

 私の中で何か大切なものががらがらと音を立てて崩れ落ちてゆく。その向こう側にあるのは闇だ。底の見えない真っ暗な闇がぽっかりと口を開け、私みたいな間抜けな獲物が自分から飛び込んでくるのを待っている。がんがんと耳鳴りがした。心臓が沸騰するように痛い。この世界で信じていたはずの全てのものが最も容易く崩れ落ち、足場を失った私は酷い目眩に襲われた。


「そうだよ、交代の件だってもちろん嘘。医薬院は下女寮からは一番遠いし、早朝なら人目もほとんどないから攫うには絶好の機会でしょ? 城内で雪ちゃんを攫うならこれしかないと思ったんだけど……澪ちゃん全然思い通りに動いてくれないんだもん」


 これまでの雪とのやりとりが逆再生の映画のようにフラッシュバックする。一つ一つはどれも本当に他愛のないことだった。偶然や勘違いだと考えた方がしっくりくるほどに。しかし改めてそう考えてからそれらの出来事を思い起こすと、雪の話を否定しきれない私がいた。

 幾度も交わした一緒に城下街を探索しようとしう約束は、いつも何だかんだと私の都合が悪くなってしまい、結局今日まで果たされないままだ。医薬院の持ち場を交代した時も、雪は外郭庭を突っ切るルートが最適なのだと、執拗に勧めてきたのではなかったか。

 それら全てが私を罠に嵌めるための嘘だったと? しかし私はこの期に及んでもまだ雪の変貌振りを本当には信じられずにいた。いや、信じたくなかった。自らも必死に働く傍で、赤子よりも無知な私を助けるのは義務感だけでできるような容易いことではない。これまでに彼女が助け支えてくれたことの全てが嘘だったとは、私にはどうしても思えなかったのだ。彼女の少し困ったような優しい笑顔が瞼に染みついて消えないのだ。


 それにだ、そもそもなぜ一介の下女の私なんかをわざわざそんな手間暇かけてまでつけ狙う必要があるのか? それが一番わからない。だから全てのことに納得できないままだ。殺すために攫う? 一体全体何のために? 私のような下女を殺して、誰にどんな益があるというのか? 突然異世界に放りだされて、家族も血縁も一人もいない天涯孤独の私を殺して誰が得を──と、そこまで考えて私は猿轡の下で息をのんだ。

 異世界転生? その言葉を思いだした瞬間、雷に打たれるように様々なことが渦を巻きながら脳裏で明滅する。

 そうだ、そうだった。あまりにも何の音沙汰もなく普通に暮らしていたから、自分でもすっかりと忘れてしまっていた。忘れてしまっていたが、しかし私は異世界転生した人間だった。それだ、それしかない。私のような一介の下女が狙われる理由など他にあるわけがない。


 そう気づいた途端に喉がからからになり、背中に漬物石を山積みされたように胸が苦しくなった。この世界に来てからこの方、私はそのこれを誰にも話したことがなかった。たとえ話したところで気が触れたとしか思えない内容だし、なんとなく私の防衛本能らしきものが、このことは決して無闇に人に話すべき内容ではないと終始警鐘を鳴らしていたからだった。だから雪にでさえ、この話はしたことがなかった。

 しかし知っているのだ。雪の後ろにいるは知っている。なぜ、どうやったのかはわかならい。しかしあの方は私が異世界転生者だと知っている。そして知っていて雪に私を誘きだすように命じている。

 一瞬、あの方が私をこの世界に呼び寄せた張本人かもしれないと私は思う。しかし私はその考えをすぐに否定した。だとしたら殺そうとしていることの説明がつかないからだ。それこそ莫大な労力を浪費して異世界から呼び寄せたはずなのに、わざわざ別の国に連れて行って殺さなければならないのか……。


「もう、澪ちゃんて動物みたい勘が鋭いんだから。罠を作って待ち伏せしててもするりと横を通り抜けちゃう。それでいざ捕まえたって思っても、今度は運良く通りがかりの誰かが助けてくれるんだから。本当にお気楽で運がいいよね……」


 雪は急に黙りこんだ。可愛らしい顔にみるみると暗い影がさし、無邪気さを装う仮面が剥がれ落ちてゆく。後に残ったのは、それなりに美しいがまるで人形のように生気のない、暗く底しれない瞳をした私の知らない少女だった。


「なんでこんなことをしたのかって? だってね、この仕事が終わったら、あの方が私を買いあげてくださるの。それでね、お姫様みたいに大事にしてくださるんですって」

「うっ! うぅっ!」


 雪はここではないどこか遠くをうっとりと見つめ、子供のように舌足らずに呟く。今度こそはっきりと、部屋の中の誰かが苛立った咳払いをした。私は猿轡の下で泣いていた。獣のような唸り声をあげて泣いていた。雪も騙されているのだと、声にならない声を上げて泣いた。


「私を──」


 痺れを切らせた複数の気配が、雪の言葉を遮るように一斉に動きだす。


「……様が──で」


 次の瞬間、私の体が宙に浮いた。暗闇から伸びてきた腕に抱えられ、入ってきたのとは反対側の扉からまるで荷物のように担ぎだされる。解けた髪が涙で濡れた顔にざんばらに張りついた。必死に体を捩ると流れの早い真っ黒な雲間から、糸のよう細い上弦の月が垣間見える。この角度は前宮の北西だ。日用品を保管する倉庫区画がある。

 王城は内外を問わず侵入や不審者には警備が厳しい。しかし一度中へ入ってしまうと、広大な建物には目の行き届かない場所もでてくる。その最たる例が倉庫区画で、保管品を痛めぬようにと常に明かりが絞られた薄暗い一角は、とにかく広く迷路のように入り組んでいる。雨漏りなどで使用されなくなった出荷庫の一つに紛れこむのは、全く難しいことではなかった。


 私は死に物狂いで暴れたつもりだが、無様に縛りあげられた不自由な体勢では大した抵抗にもならなかった。最も容易く扉の前に待ち構えいていた馬車に放りこまれる。突き飛ばされて、御者台との仕切りの壁に強か背中を打ちつけて息が詰まった。扉が閉まると同時に馬車が走りだし、バランスを崩した私は床の上を転げ回る。

 座席などの備品が全て取り払われた車内は、敷布のような分厚い素材で隙間なく目貼りされている。興奮と混乱と酸欠とで頭が朦朧としてきた私は、鼻だけではとっても間にあわず、きつく食いこんだ猿轡の隙間からも必死に息をしようと足掻く。しかし流れ込むわずかかばかりの空気は、木の葉から落ちた芋虫のように床に這いつくばる私の惨めさをいや増すだけだった。


 きっと後先のことなど一切考えずに、ありったけの力を払って無茶苦茶に暴れ、どんな小さな活路でもいいから得ようと奮闘すべきなのだろう。しかし否定の果てに辿りついた結論に自ら打ちひしがれた私は、このやるせない状況と相まって、これ以上はないというほど厭世的な気分に陥っていた。

 今さら何をしたところで無駄だ。虚しい徒労に終わるだけだ。結局何も変えられはしない。と負の悪循環にずぶずぶと引き摺り込まれてゆく。全ては彼女の変貌振りに、裏で糸を引く誰かの謀略に、そして私の転生した意味に──。

 雪のいう、早の口振りではこの国の中枢に近い権力を持った誰かは、知っているのだ。私が別の世界から来た人間だと知っている。そして知た上でさらに私を殺そうとしているのだ。

 あの方は、なぜ私はこんな風に殺されなければならないのか。何度も何度も罠を仕掛け、わざわざ天虹国このくにから遠く引き離してまで執拗に、私を殺そうとするのか。その疑問は、この国に転生してから今日までずっと、胸の奥に燻り続けてきた疑問への答えにつながっている。


 そうなのだ、私は彼らにとってどうしても殺したいほど忌むべき存在なのだ。誰かに望まれて転生してきただなどと能天気に考えていたのは、私の勝手な思い込みだ。対立する誰かにとって、あるいはこの国そのものにとって、私は望まざる者、忌むべき事、厄災の前触れ、凶兆なのだ。

 そう考えれば今まで抱いていた違和感にも説明がつく。だから私にははじめから何のチート能力も使命も与えられていなかったのだ。私そのものが災いだから、そんなもの必要ないのである。でもだとしたら、どうして……。

 床に蹲った私の頬を涙が流れる。

 なぜ私はこんな大変な思いをしてまで、殺されるためにこんな世界に飛ばされたのか。

 どうして私なのか。

 それでも必死に生きようともがいてきた私の半年間は一体何だったのか。

 いずれ殺されるために、死ぬほど苦しい思いをして転生する。

 そんなに悲しくて、寂しくて、虚しいことがあるだろうか──。

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