第21話 お仕事は約束から

 それからどれくらいの時間が経っただろうか。廊下を迷いなくこちらへ向かう規則正しい足音が聞こえてきて私は顔をあげた。半信半疑で扉を見つめていると、当然のように海が姿を現す。

 私はとても驚いた。待っているようにといわれて、そのまま西門の商談室に控えていたが、内心では海はもう戻ってこないだろうと思っていたからだ。仮にもし戻ってきたとしても、それは海本人ではない誰か別の人物だろうとも考えていた。しかし戻ってきたのは海本人で、その様子もここをでていった時と全く変わりない静かなものだった。

 

「海様、戻られたのですか?」

「なにをいっている、戻ると伝えたはずだ。……ああ、不安になったか、遅くなってすまなかった」


 海は屈むと俯けた私の顔を覗きこんだ。凪いだ海のように澄んだ青い瞳が真っ直ぐに私を見つめてくる。一方で私の方はというと、色々と考えがまとまらないまま気がついたら夕刻になっていたから、今も頭の中はまとまらないままだった。ずっと椅子に座っていてほとんど身動きもしなかったから、体も顔も冷たく強張っている。海に微笑み返そうとしたが上手くいかなかった。そんな私をどう思ったのか、海は眉尻をさげると少し困ったような顔をする。


「いいか、澪。これから俺がいうことをよく聞いて、その通りにするんだ」

「海様、どうして──」

「質問は後だ。今はとにかく時間がない。彼らの時間を調整するのが一番難儀したんだから……」


 何を思いだしたのか、海が大きな溜息をつく。


「この機会を逃したら次はない。とにかくすぐにここをでよう」


 返事をする間もなく、海に腕を掴まれて私は西門の商談室を後にした。入ってきた時と同じ通用口を通り、来た道を逆に辿る。到着したのは、今朝最初に海と出会った場所、下女寮の前にある茂みの中だ。


「君は一度寮に戻って、下女頭の早に会いに行け。その後は彼の指示に従えばいい」

「早様に? それは私が、その……」

「いや、早には余計なことは一切話すな。ただ戻ってきたことを伝えて不在を詫びればいい。いいか、白蓮殿の元にいたことも俺と会ったことも、決して何もいうなよ?」

「分かりました。あの、では……海様とはここで」


 私は余程みっともない顔をしていたのだろう。海はふと表情を和らげると、ぐいと私を引き寄せて長い腕で立ち竦む私の体をすっぽりと包みこんだ。そのまま今朝会った時のように、白蓮様が整えてくれた私の頭を大きな手でわしゃわしゃと掻き混ぜる。はははっと、彼は夕闇に溶けるような吐息だけの笑いをこぼした。


「案ずるな、あの方の策が仕損じたことは一度もない」

「あの方?」

「ただ、いつも少々過激なのが難点だが……」

「過激?」

「しかしこれが最善とあの方がいうのならばそうなのだろう。君は何も気にするな、早に会いいわれた通りにしろ。流れに身を任せればいい……のだそうだ」

「流れ? それはどういう……」


 海の話はどこか歯切れが悪くはっきりとしない。私は急に不安になった。それを察したのだろう、海は屈んで視線をさげると私の目を真っ直ぐに見つめて言葉を重ねた。


「君が早に会いに行けば、物事は必然的に動きだす。一つでも歯車が回りだしたら最後、あの方の策は全ての仕掛けが済み切るまでは決して止まらない。君はとにかく自分のことだけを考えろ。流れに逆らわず、己を信じ、願いを想え。それだけでいい」

「……わかり、ました」

「大丈夫だ、最後は何があっても俺が助ける。必ず」

「海様」


 私はできる限りの笑顔を作った。上手にできているようにと心の底から祈る。


「言いつけは必ず守ります。ここまで、本当にありがとうございました」


 海はわずかに目を見開くと再び表情を和らげた。手を伸ばして私の髪についた木の葉を器用に摘んで整えてくれる。


「君ならきっと大丈夫だ。自分で運命を切り開ける。さあお行き」


 海が大きな暖かい手がそっと私の背中を押す。

 私は小さく頷くと振り返らずに下女寮に戻った。




 その足で下女頭の早を訪ねる。海に言われた通り戻ったことを報告し不在を詫びた。


「お前、何しやがった」


 早は私を鬼のような形相で睨みつけると、唾を吐くように言った。しかし怒りに任せて、というようないつもの威勢はない。さらに二、三言嫌味を言われたものの、彼はそれっきり私の存在は忘れることしたとでも言わんばかりに、視線も合わせようとしなくなった。

 部屋の中に気まずい沈黙が充満し、居心地が悪くて堪らなくなる。まだ怒られている方がマシだった。何度もその場を逃げだしたい衝動に駆られ、その度に海との約束を思いだしは私は足を踏ん張ってなんとかその場に留まる。

 しかし落ち着かないのは早も同じだった。部屋の中を忙しなく歩き回っては、時間を気にするようにしきりに鐘塔の方をを振り返る。そしてまんじりともしがたい時間が過ぎ、赤い夕日が山の向こうに半分ほど沈みかけたころ、早はよくやく私を伴って部屋をでた。

 私は黙って彼の後に続く。下女寮をでて、外郭庭を渡り、前宮に入る。たとえ下女頭といえども、一歩下女寮の外にでれば私達と同じだ。もちろん普段はこんな時間に前宮の中をうろつくなどありえない。そのせいだろうか、部屋をでてからも早はずっとそわそわとしたままだった。


 日が暮れかけた城内は想像以上に暗かった。まだ洋燈に火が灯されるには時間が早く、一方で目は直前までの強烈な光源に慣れてしまっているから余計にそう感じるのだろう。

 早はわざと人気の少ない廊下を選んでいるのか、やたらと左右に曲がっては脇道のようなところに入る。変わり映えのしない薄暗い廊下をそうやって行ったり来たりしていると、次第に私の方向感覚はおかしくなってきた。外商院の近くを通り、財歳院の喧騒を遠くに感じ、土木院の近くを通り、偶然雪に会った廊下に来たところ辺りまでは何となく把握していた。しかしそこからさらに脇道に入り、ぐるりと旋回したあたりで私は完全に己の居所を見失った。

 一度でも頭の中の地図を手放すともう駄目だ。それでもさらに引き回されて、いい加減行き先のわからぬ右往左往に嫌気がさした。私は早に行き先を尋ねようと思い切って身を乗りだす。その時、すぐ真横から声がかかった。吐息も感じるほどの距離に、私は心臓が破裂するのではないかというほど驚いて飛び荒ぶ。


「探したわ、早さん」


 振り向くと、にっこりと笑った雪がいた。

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