第13話 お仕事は立ち話から

「雪ちゃん、どうして……ここに?」


 私が薄暗い廊下の先と目前の雪とで視線を彷徨わせると、雪は可憐な唇をにこりと曲げて笑顔をつくった。そして笑顔とは裏腹のちょっと怒ったような声で囁く。


「どうしてって、澪ちゃんを探しにきたにきまってるでしょ。時間になっても全然戻ってこないから、何かあったんじゃないかってすごく心配したんだからね」


 雪は何を当たり前のことを聞くのだというように腰に手を当てると、可愛らしく頬を膨らませ拗ねてみせる。それがひっそりとした前宮の、それも奥まった薄暗い廊下で真昼に繰り広げるにはあまりにも場違いな気がして、私はへばりつくように背中を壁に押しつけた。なぜか今すぐこの場を立ち去りたいという衝動に駆られる。それを私は手を握りしめてその場に踏みとどまった。


「本当にごめん、迷惑をかけちゃって……。でも雪ちゃんどうしてここが?」

「色々と心当たりを探し回ってたの。そしたら偶然、ね?」


 そこで雪は私の衣装に視線を移し、すっと目を細めた。


「……澪ちゃんこそその衣装はどうしたの? いつもの制服は?」

「うーんと、話すと長くなるんだけど……なんていったらいいか、ええっと、その……この衣装は白蓮様の侍従の衣装でね」

「白蓮様?」


 雪の顔から笑顔が消えた。細い眉の間に皺が寄る。真顔の雪に迫られて私は二、三歩横に移動する。背中が冷たい壁に触れ、私は思わずぶるりと身震いした。


「う、うん……」

「なんで白蓮様の侍従の衣装着を着てるの? どういうこと?」

「それが、事情が混み入っているというか、私にも説明は難しいというか……」


 私な全く要領を得ない説明に首を傾げていた雪が、何かに気づいたようにはっと息をのんだ。


「まさか澪ちゃん……白蓮様と関係を──」

「え? ええ!? い、いやいや! そんなことあるわけないじゃん。絶対ないから。そうじゃなくてこれには色々と深い事情があって──」


 雪はいよいよ険しい顔になった。私はそんな顔の雪を見るのははじめてだった。いつでもほんわか優しい笑顔の雪がそういう顔をすると、別人になったようにがらりと雰囲気が変わる。怖いと私は思った。さすがの雪も怒っているのだろう。

 それもしかたないことだった。私の行動はあまりにも支離滅裂で無責任だ。たとえ巻き込まれて仕方なくだったとしても、そんなこと雪には関係ない。取り返しのつかない迷惑をかけた友達を、それでも彼女は見捨てずに探しにきてくれたのだ。自分だったらとてもそこまではできないと、私はひどく落ちこんだ気持ちになった。白蓮様に説明して下女寮に戻れたら、とにかく誠心誠意謝るのだ。謝って謝って、許してくれなくても謝りまくる。私にできることはそれだけだ──。

 突然、雪が私の二の腕を掴んで引っ張った。可憐な細腕からは想像できない強い力に驚いた私がよろめく。こんな状況で、もし普段だったら逆に雪が迷惑がっても彼女の後についていっただろう。

 しかしなぜか今は、雪と一緒にいるのが辛いような、居た堪れないような気分になり、どうしても一緒に行こうという気持ちになれなかった。一歩を踏みだそうとするのだが、まるで足の裏が床に貼りついたように動かない。私がもたもたしていると雪の囁き声が次第に大きく鋭くなった。


「とにかく、行こう」

「う、うん。でも……」

「いいから、一緒に来て」


 雪の細い指が私の二の腕に食い込んで骨を軋ませる。


「ま、待って雪ちゃん。私……やっぱり戻らなきゃ」


 私は胸の前に抱えた書籍を握り締める。そうだ私はこの資料を白蓮様に届けるところだったのだ。土木院との会食が終わる前に戻らなくては。白蓮様のところに──。


「戻るってどこに? 澪ちゃんが戻るのは下女寮でしょ。こっちが近道だから、行こう」

「でも、白蓮様が……」

「何かお困りですか?」


 二人同時に振り向くと、廊下の先の扉からひょっこりと少年が顔を覗かせていた。私が確かめようとしていた扉だ。私も雪も一気に全身から血の気が引いた。本来であればこのような場所でそんな風に声をかけられるような相手に、私も雪も姿を見られていい存在ではない。

 しかし相手は同年代の少年だ。私は目を瞬いた。いや、よく見るともう少し年上かもしれない。十七、八だろうか。もう一度よく見ようと目を凝らす。いや、わからなくなってきた。落ちついてよく見れば理知的な顔立ちはさらに年上にも思える。しかし位置のずれた大きめの眼鏡をかけ顔は、十五よりもっと幼く見える気もする。私が混乱していると声の主はおっとりと視線を動かして、私の抱えた資料の上でとめた。


「おや」


 鼻の頭にずりさがった眼鏡を押しあげる。眼鏡の奥の瞳が予想外に鋭い光を帯びていて私は息をのむ。見覚えのある眼光だ。この鋭さは、もしかして──。


「その資料、君は土木院に行く途中でしたか」

「え? どうしてそれを……」

「ちょうどいい、私も用事が済んで戻るところです。一緒に行きましょう」

「え? は? はぁ……」

「澪ちゃん」


 青い顔をした雪が縋るような声をだす。しかし驚いた拍子に雪の指は外れ、二人の間には距離ができていた。年齢不詳の小柄な人物は扉からが完全に姿を現すと私の隣に立ち、ふわふわの巻き毛の髪を揺らして微笑んだ。


「君も仕事に戻りなさい」


 口調はあくまでも柔らかだ。しかし小柄な見た目とは裏腹に彼の声には有無を言わさぬ貫禄のようなものがある。


「は、はい……」


 たじろいだ雪はぎくしゃくとした礼をすると、逃げるように姿を消した。ただ衣装が違うだけだ。本当は私もあちら側に立つべき人間なのだ。しかしたったそれだけのことで、私と雪の間には越えがたい亀裂がぱっくりと口を開けていた。残された私は呆然と雪が立ち去った方を見つめる。

 私には小柄な人の一緒に土木院へ戻ろうという誘いを断る理由も勇気もなかった。どのみち一人では帰り道も覚束ない。正体不明の小柄な自分物にうながされるまま、私は彼の後に続いて白蓮様の待つ土木院に戻った。


「院長!」


 土木院に足を踏み入れた途端に、小山のような男たちに囲まれた。


「設計が終わられたのですか」


 男たちはつぶらな瞳をきらきらと輝かせて、私の隣に立つ小柄な人物にわらわらと群がる。どうりで既視感のある鋭さのはずだ。只者ではないと感じてはいたが、まさか土木院長だとは思わなかった。だって……。私は群がった男たちと少年のような院長を交互に見る。

 まがりなりにも院長というからには、若く見えるというだけで実際にはそれなりの年齢なのだろう。しかしそう思っても混乱する。私の知る土木院の面々と彼らが院長と呼ぶ相手とは、あまりにもギャップがありすぎるからだ。

 しかしそれは私の先入観、偏見というものだろう。何度もいうが外見で人を判断するのは絶対によくないことだ。実力主義の天虹国で運や偶然、縁故だけで院長になれるはずがない。事実、男たちの反応がそれを否定している。とにかく厳つい男どもは、小柄な院長をまるで壊物のように大事にしていた。廊下の騒ぎに執務室から顔をだした雲開も、院長の姿を見つけて満面の笑みで駆け寄ってくる。


「そのお顔は、よい着想の神が得られたようですね」

「ええ、とても素晴らしい離宮の設計ができたと思います。さっそく細部について打ち合わせしたいのですが──」


 院長が皆までいうまでもなく、群がった男どもが歓喜の雄叫びをあげると、まるで神輿を担ぐような勢いで院長を取り囲んで近くの会議室に入っていった。廊下に呆然と立ち尽くしていると、白蓮様の咳払いで我に返る。助けと求めるように白蓮様の方を見るが、すでに踵を返した白蓮様は、放っておけというように軽く頭を振っただけだった。

 執務室に戻ると、白蓮様たちの昼餉はとっくに片付けられた後だった。私の昼餉も何をかいわんやである。ショックで言葉を失った私を尻目に、資料を見ながら何やら話しあう二人は至極満足そうだった。


「土木院の食事は、いつ食べても美味だな」

「全国津々浦々に配置された者達が、各地から旬の食材を送ってきますから。風土を知るのも我々の重要な仕事です」


 貴重な昼餉を投げうって二院間を爆走した私のおかげで、とても有益な情報が得られたようだ。気さくで陽気な副院長は親しげに回した手で白蓮の背中をばしばしと叩いて、笑顔で私達を送りだしてくれた。やっぱり白蓮様、今のは絶対痛かったですよね?

 この後は医薬院に戻って昼議ちゅうぎを行う予定だ。各局長が参加して朝議の内容共有をする場である。医薬院に戻るとすでに会議の間には各局長らが揃っていた。私は空腹を抱えながちょこんと末席に控える。今度こそ誰かに何か気づかれるだろうと思ったが、意外にも誰にも怪しまれずに昼議を終えてしまった。

 その後、白蓮様は白い割烹着のような上着を羽織ると、医薬院療養局りょうようきょく付属の王府おうふ療養所、つまり前世でいうところの国立病院内を回診する。回診しながら治療も行い、そのままの姿で薬種局やくしゅきょくに移動。今朝の外商院と財歳院の打ち合わせを踏まえつつ、夏の薬草仕入に関する打合せを行った。その間、私は常に側に控え、回診内容の記録、白蓮様の備忘、打合せの議事録と、ひたすらメモをとりまくる。


 ふと、手元に差し込む日差しの赤さに顔を上げると、窓の外には橙色の美しい夕焼けが広がっていた。あっという間に一日が過ぎていたのだ。たなびく雲の合間を飛ぶ鳥の黒い影を見ながら、遠く響く鐘の音を聞いていると、私は無性にあの歌を口ずさみたくなった。

 誰もが知っている、懐かしくて物悲しい響きのあの歌だ。何の面白みがあるわけでもないのに、なぜか世代を問わず誰でも歌えるあの歌。そういうものが前の世界には沢山あった。テレビで、ラジオで、学校で、いつのまにか心の奥深くに刻み込まれているのだろう。

 この世界も嫌じゃないと、沈みかけた太陽を見ながら私は思う。確かに前の世界は様々な文明の利器があってとても便利だった。けれども日々時間に追われて、些細なことに神経をすり減らす前の世界の暮らしが、ここよりも優れているとは思わない。むしろ体力的にはずっと大変だが、この世界の生活の方がよほど人間らしいとすら思う。

 だけどあの烏の歌のように、当たり前のこととして体に刻み込まれたものが一切無い今の私の存在は、この世界ではあまりにも唐突で薄っぺらだとも思う。もう散々悩んで、元の世界には戻れない、ここで生きていくのだと決心しているのに、しかし私の心のどこかにはいつも、この世界の自分について他人事の自分がいた。


 でも今日一日は、その事を忘れていられたかな。


 私は墨に汚れた自分の手を見る。下女の仕事は肉体労働だ。仕事中も仕事後も体はくたくたに疲れ切っているのに、頭は常に暇を持て余している。暇があると人間ロクなことを考えない。突然、見も知らぬ世界で生きることになった理不尽への怒りと、諦めと、寂しさと、ほんの少しの期待。いつもそれをぐるぐると回ってはまた元の怒りに戻ってくる堂々巡りの思考を何度繰り返したことか。

 でも今日は少し違っていた。白蓮様は横暴だし勘違いも甚だしいが、今日は一日中、私の頭はフル回転していたから余計なことを考える暇はなかった。王城中を引き摺り回されて、気がつけばあっという間に夕方だ。久しぶりの事務仕事は勝手の違うことばかりで気をつかったけれども、頭は心地よい疲労感に浸って満足している。


 疲れたけれどこういうの、嫌いじゃないな。そんなことを考えながら窓の外をぼんやりと見ていると、ぼふりと頭の上に何かが落ちてきた。椅子から飛び上がるほど驚く。しかし頭上に落ちてきたものは私の反応にはおかまいなしで、ぼふりとした頭をそのままぐりぐりとかき混ぜる。固まる私の肩の上に、夕日を反射する美しい清流のような銀髪がはらりと流れ落ちた。それでようやく私は頭上のそれが白蓮様の手だと分かった。


「ぼんやりするな、部屋に戻るぞ」


 響いていたのは七の鐘。夕方の五時だ。私は諸処の仕事を切り上げて、自分の執務室に戻る白蓮様の背中を見ながら後について歩いた。

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