第2話 お仕事は報連相から

「澪ちゃん! ど、どうしよう……あたし、あたし明日……」


 下女寮で同室のゆきが青い顔で仕事から戻って来た。


「どうしたの、雪ちゃん?」


 私はようやく今日の仕事を終わらせて、楽しみにしていたお風呂に行こうとしていたところだった。しかし迷わず抱えていた着替え一式を寝台の上に放り投げると雪の元に駆け寄る。

 雪は私がこの世界に来たばかりのころ、最初に話かけて色々と生活の術を教えてくれた恩人だ。なんせ井戸で水も汲めずに下女頭げじょがしらを驚愕させた私である。今こうやって生きていられるのは大げさではなく彼女のお陰だった。その雪が何か困りごとを抱えているというのに、呑気に風呂になぞ浸かっている場合ではない。


 他にも時々、森で行き倒れていた私を保護してくれた騎士のかいが様子を見に来てくれることもあった。しかしそれは本当に時々のことだ。騎士として働く彼は多忙な身の上で、王都を長期間留守にすることも度々ある。

 だからこの世界で天涯孤独に生きる私にとって、純粋な善意から甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる友達というのは、何をおいても大切にすべき存在だった。それは単に話が合って寂しさを紛らわせられるからというようなメランコリックな理由からではない。

 そもそもこの世界について赤子よりも無知な私が、何とか生きていくために必要不可欠な知識を授けてくれる、貴重で奇特な本当にありがたい存在だからである。故に、私は日々せっせと雪の周りの不穏分子に目を光らせている。


「また、変な奴にしつこくされた?」


 というのも雪はなんでも北の地方出身だとかで、色白で線が細く下女にしておくのが勿体無いような可愛らしい少女なのだ。その上、控えめで大人しい性格だから、私が出会ってからだけでも度々不届き者に目をつけられている。悲しいかな、この世界での下女の立場はとても弱いものだ。私自身も物陰に引き込まれそうになったりしたことが、大げさではなく一度や二度以上はある。まあ雪に関しては、私が目を光らせてからは指一本触れさせていないけど。私自身も今のところはまだ実害を被るような目にはあっていない。


「うんん、そうじゃないの」


 青い顔のまま雪はぶるぶると首を振る。


「じゃあ、何が……」

「──ちょっと、あんたたちっ」


 私が俯いた雪の顔を覗き込もうとすると、狭い部屋に詰め込まれた二段ベッドの奥の方から怒声が飛んできた。


「煩いわよっ! 何時だと思ってんの、寝らんないじゃない」

「す、すみませんっ! 雪ちゃん外に行こう」


 私は雪の腕を引っぱると慌てて部屋を飛びだす。そしてそのまま廊下を小走りに通り抜けた。角を一つ曲がった突き当たりに小さな木戸がある。ちょっとコツがあるのだが、扉全体を持ち上げるように力をかけて軽く揺すると簡単に鍵がはずれる。建てつけにガタがきているのだ。古びた下女寮全体がどこもかしこもそうだった。何でも下女頭が設備費をケチっているらしいとかどうだとか。まあ私には関係のないことだけど。ガタがきていようが破れていようが、何とか風雨は凌げるのだから私にとっては御の字だろう。

 木戸を潜り抜けると下女寮の裏手にでる。別に寮の裏手にきたからといって何があるわけでもない。裏口から出たとこは屋根もない庭ともいえない中途半端な空間だ。崩れかけた土塀に壊れた古道具が積み上げられた物置である。しかしこっそりと話したいこんな時にはちょうどいい。


 日本でいえばまだ夜の八時頃。しかし朝が早い下女達にとってはもう深夜といっていい。中庭を囲む下女寮はすでに真っ暗で、王城の城壁内とはいえ一番奥まった僻地にあるこの辺りには人影もない。それでも隣に座った雪の顔ははっきりと見える。それは塀で小さく切り取られた夜空に、驚くほど大量の星がちかちかと輝いているからだった。


 こんな夜空、今時の日本じゃ田舎に行っても見られないよね──。


 うっかりとそんなことを考えてしまった私は、俯く雪に気づかれないようにそっと溜息を噛み殺した。そう、何を隠そう、いや別に何にも隠してはいないけど、私はいわゆる異世界転生した人だ。

 そんなこと本当にあるんだと驚いたが、あったんだから仕方ない。私、かつて前園澪まえぞのみお呼ばれていた三十五歳独身会社員女は、約半年前の或る日、突然全く異なる世界に転生した。それは天虹国てんこうこくという、この世界では交易の要所にある商業大国の一つだった。天虹国、何度『てんごく』と聞き間違えただろうか。

 自分の記憶を辿る限り、転生というものに特段のきっかけがあったようには思えない。ふらふら歩いてもいなければ、車に轢かれたり、ビルから落ちたりもしていない。ただある日、街を歩いていてふと気がつくと、突然全く別の世界にいた、私の場合はそれだけだった。

 半年前の冬の寒い日、私は王城近くの森で倒れていたらしい。それを偶然巡回していた騎士の海が助けてくれた。そして行く宛のない私は下女寮に預けられ、それから私はそのまま下女寮に住み、王城の下女として働いている。


 不思議に思わないだろうか。何故、私はわざわざ異世界に転生するという大変な目にあいながら、一下女として王城で働いているのか。それはこの世界に来て以来、私自身が度々煩悶する疑問でもある。

 私は決して下女の仕事を卑下しているわけではない。仕事に貴賎があるとも思わない。しかし異世界転生はされる側にとっては、そしておそらくはする側にとっても、決して生易しいものではない。ある日突然、何の準備も心積もりもなく別の世界に突き落とされるのは、想像を絶する苦労と葛藤を伴う。そしてそんなことをするには膨大なエネルギーが必要なはずだ。

 だから普通は何かしらの目的や意図があって、ある人物を異世界とやらに呼び寄せるものだろう。それがたとえどんなに一方的で理不尽な理由であったとしても、それを乗り越えてまで達成したいと願う、ある種の妄執とも言える使命感があるからこそ、これほどまでの労力をかけて誰かを別の世界に呼び寄せる意味があるのだ。


 しかし私にはその使命がない。特別な役割も求められていない。だから未だに異世界に転生した理由も分からない。だが時間が経つにつれて、それも仕方がないことだと私は思うようになった。

 というのも私にはいわゆるチート能力的なものが一切ないのだ。あるのはサラリーマン時代と全く同じ能力だけ。つまり極めて平凡な、至って普通の、何の変哲もない、この世界でも何処にでもいるような、至極ありふれた一市民の能力と同じということだ。確かにこれでは特別な使命など帯ようがない。


 しかし下女とはいえ王城の勤め人の端くれ。本来はそれなりの紹介状や身元保証人がいなければできない仕事なのだそうだ。だから真冬の森で行き倒れていたところを、運良く通りがかった王城の騎士に助けられ、そのまま王城で働くことができた私はかなりラッキーだったのだろう。朝から晩までの肉体労働でへとへとになる毎日ではあるが、少なくともここにいれば最低限の衣食住は得られるし、野垂れ死ぬ心配もない。


 唯一ありがたかったのは、会話と読み書きの能力が維持されていたことだろうか。考えようによってはこれがチート能力と言えなくもない。今の生活ではほとんど文字を読む機会はないが、屑かごに捨てられた手紙や書類の切れ端を見た限りでは読めそうだ。

 筆記用具は筆になるが、書道は子供の頃から続けていて得意だから問題ない。書道など前の世界では年賀状かご祝儀袋かしか出番がなかった隠し芸だ。それがこの世界ではスタンダードなのだから、芸は身を助けるとはまさにこれ。ただひたすらおばあちゃんに感謝である。


 その他の変化といえば、元の世界では三十五歳だった私が、この世界では十四、五歳くらいの子供になってしまったことだろうか。年齢が若くなったのは、もしかしたらというかおそらく、この世界の平均寿命が前の世界の半分くらいしかないからだろう。だから私の年齢も元の世界の半分くらいになってしまったのだと、私は勝手に解釈している。

 普通ならある日突然、己の容姿や年齢が変わったら仰天するだろう。しかし別の世界に突き落とされた衝撃に比べると、多少見た目が変わったことなど他愛ないことに思えるから不思議である。

 そもそも下女の毎日には、文字同様に鏡を覗くような機会も滅多にない。当然、日々の生活に精一杯で、化粧をするような時間的金銭的余裕もない。そもそもこの世界では鏡はかなりの貴重品で、下女が持てるようなものではないのだ。だから時々、水面や硝子窓に映った滲んだ人影を見るくらいしか、今の己の姿を認識する機会はない。つまり結局は、顔なんて自分では見えないのだから気にしなければ大した問題などないのだった。

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