12 過去

好映このえ、おばあちゃんのお見舞いに行こう」


 何度目かわからないが父が玄関先で言うので、仕方なく遠野好映は観ていた映画を一時停止し、億劫そうに立ち上がった。倒さないようにいちごミルクの入ったペットボトルの蓋を閉める。


「はぁい、今行く」


 好映の祖母は末期がんだった。日に日に弱っていく祖母を見ているのは10歳になったばかりの好映にとってはつらいものだった。まるで色あせた花の花弁が一枚一枚目に見えて散っていくような、絶えず悪い方向に進み、決して戻ってはこない流れを目を当たりにするようだった。


 玄関に行くと、母はもう化粧をして父の隣で待っていて、少し暗い顔をしていた。母が何も言わないのは、自分の向き合っている哀しみと戦っているためなのか、病院に向かおうとしたがらない娘の気持ちに共感していたのかのいずれかだろうが、好映には判断が付かなかった。


 好映は両親の間に挟まれるように歩き、両手を繋いで病院への道を歩いて行った。空は曇っていた。なんだかやけに嫌な予感がして好映は何度も立ち止まりそうになったが、両親が手を引いていたので、実際に立ち止まることはなく、重い足を引きずって病院までの道のりを一歩一歩と歩いて行った。


 病院の前の横断歩道での出来事だった。赤いランプが一つずつ減っていくのをぼんやりと眺めていた。ランプが残り一つになったとき、視界がブレた。赤いランプが、キャンバスの上で乾く前の赤い水彩絵の具を指で引き伸ばしたみたいにぐにゃりと伸びた。骨が折れる感覚、赤、青、そして暗転。


📱 📱 📱


 次に目を開けたとき、好映の目にとびこんできたのは、白い天井だった。ゆっくりと視界は焦点を結ぶ。天井には無数の小さな穴が空いていることに気付く。ピッ、ピッという規則的な電子音が聞こえている。


「遠野好映ちゃん、だよね。目が覚めた?大丈夫?」

 声がして視線を少しずらすと、薄ピンク色のポロシャツを着たナースが覗き込んでくる。


「お母さんは?お父さんは?」

 好映は掠れる声でそう聞いた。ナースは何も言わない。


📱 📱 📱


 好映は両親とともに交通事故に遭い、頭を強く打って一か月生死の境をさまよった。目が覚めてからも数度手術を受けた。好映の意識がない一か月の間に、祖母は一人で息を引き取った。


 事故から一年が経って、一人の男が病室にやってきた。男はベッドに寝たままの好映の姿を見て、言葉を失い、目を逸らした。男の隣に立つ大人が背中を押すように男を一歩好映のそばに近づかせた。好映はそれを少し不快に思った。


 うつむいた男も、好映の年齢からしてみれば十分大人と言って差し支えない年齢であることは見て取れたが、そのおどおどとして落ち着きがなく、自信のなさそうな態度からは、幼さのようなものを感じさせられた。男は手をもじもじといじりながら忙しなく自分の汚い金髪の髪を触っていた。


 もう一度、今度は強めに背中を押されて、やっと男はしゃべり始めた。


「あ、あの、俺、こんなことになるとは思ってなくて。あの日は、実は割と調子悪くて」


 好映は男の背後に立つ大人を睨みつけた。いったい何のつもりなのか。大人の男は謝罪の言葉を口にすると、男を引きずるようにして病室を出て行った。大人の男の方が謝罪の言葉を口にしたのがどうしようもなく気分が悪く、好映は奥歯を噛みしめた。鳥肌が立ち、吐き気がするほどおぞましい出来事だった。


 あの日、好映の両親は死んだ。即死だったのが、救いだったのかどうかなど考えたくもなかった。


 裁判によって、男の刑は決まった。その男が何年牢獄に入るのか、誰にいくらの金を支払ったのか、さらには男の顔さえもよく覚えていないが、男がなぜ両親を殺すに至ったのかという原因だけを覚えて裁判の日は終わった。


 好映の両親は、男の、スマホをいじりながらのながら運転によるよそ見によって死んだ。


 男は裁判中も何度も右の尻ポケットに手を入れては出してのしぐさをくり返していた。スマホ中毒の禁断症状のようで、よく覚えていた。


 男は一度も謝罪の言葉を口にしなかった。男は始終、自分はあるアプリの有名なインフルエンサーなのだということを強調していたが、その場にいるすべての人間はそれに価値を見出しておらず、男はその事実に気付いていないということが、重苦しい裁判の中で唯一滑稽に見えた。


 裁判長は男に好映に賠償金および慰謝料を支払うように命じた。その判決を最後に、裁判は終わった。好映は早く終わってほしいと思っていたから、少しほっとした。


 好映は一生働かずとも生きて行けるだけの金を手に入れることになった。それは、まったくの空虚な金だった。


 好映は一度も学校に行かず、働きもせず、ただ大きなマンションの最上階に部屋を買ってそこに引きこもった。部屋の中が人生のすべてだった。悪夢にうなされるので薬を飲んだが、効果は見いだせなかった。スマートフォンへの憎悪だけが日々の生活の中に積もっていった。


 カウンセリングの先生はよく、「前向きに」と言った。どちらが前かもわからなかったし、後ろ向きでいては駄目な訳もわからなかった。


 ある日、好映の中で怪物が目を覚ました。怪物はおどけた調子で好映に手を差し出し、言った。


「そんなにスマホが憎いなら、スマホ中毒の人間が憎いなら、全部ぶっ壊してやろうぜ。お前は壊すことでしか生きられないんだよ」


 好映は怪物の手を取った。何か、心の中で糸みたいなものがぷつんと切れたような気がした。少し笑う。


「いいね。それ、超面白そう」


 私からすべてを奪った男は、私に一つだけ使える武器をもたらした。金だ。やりたいことは全部できる。なぜつらい思いをさせられているこっちが、無理に前を向かなくちゃいけないのか。変わることを強いられなくてはならないのか。変わらなきゃならないのはあんたらの方だ。あんたらのやりかたをまねるなら、人を傷つけたっていいだろう。私以外、世界全部が狂っている。誰も気づかないのなら、私がガツンと変えてやる。


 後は立ち上がり、部屋から出て、表現するだけだ。このどうしようもない破壊衝動を。

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