4 アパート

 アパートの外廊下に着くと、犬丸の部屋の前に誰か立っているのが見えた。インターフォンをしきりに押している。


「あっ、荻本おぎもと。おはよう。いや、夕方だしおはようって時間でもないか。うちになんか用?」


 大学で同じ学部の友達の荻本だった。一緒に授業を受けたり、時々どちらかの家で宅飲みをする仲だった。バイトも荻本の紹介で始めたので、同じ居酒屋で働いている。


「犬丸。なんか用って、お前の生存確認に来たんだよ。昨日バイトをバックレただろ?それに一日中連絡つかねえし。大学にも来てなかったみたいじゃねえか」


 荻本はこの近辺に実家があって、実家から大学に自転車で通っていた。犬丸は地方から出てきて一人暮らしなため、体調不良などで部屋の中で倒れていたとしても発見がされづらい。荻本はそれを心配して様子を見に来てくれたのだろう。


「ちょっとスマホが壊れちゃってさ。連絡つかなくてごめん。なんともないよ」


「大学は?」


「行ったよ。会えなかったけどね。ちゃんと授業は受けてた」


 荻本に嘘をつくのは心が痛んだが、今自分が脅迫されている狂った女性との関係に巻き込んでしまうほうが心が痛む。それに、昨日の行動について、自分が犯してしまったこととの関連性を見出してしまう可能性をできるだけ除去したかった。


「なんだよ、ならいいや。明日もシフト入ってたよな。明日はちゃんと来いよ」


「あー、そのことなんだけど」

 犬丸は頭をかいた。

「しばらくバイトを休むことになるかもしれないんだ」


「は?なんでだよ」


「ちょっとね。今、身の回りがいろいろ忙しいんだ。すまないんだけど、店長にはそう伝えておいてくれる?それでクビならしょうがないし」


「忙しいってなんだよ。実家関係か?」


「まあ、そんなところかも」


「そうか。まあ、店長には言っとくけどよ」

 荻本はまだ少し怪訝そうな顔をしていたが、それ以上の追求は止めて引き下がった。

「何か困ったことがあれば言えよ。あ、スマホ壊れてるんだっけ」


「パソコンは平気だからラインはこれまで通りできるよ。ただ、スマホよりはチェックしないかもしれない」


「りょーかい。じゃあ、また大学でな」

 荻本は手を振って帰って行った。


 自転車がアパートから去っていくのを見届けると、犬丸は自室のドアを開けた。チラシや封筒など、郵便物が溜まっていた。とりあえずすべてにさっと目を通してからゴミ箱に突っ込む。最近は気温が高くなってきているので、生ごみなどが油断しているとゴミ箱の中で腐って異臭を放つ危険がある。


 遠野は犬丸がマンションから出ていくことを許さない雰囲気だったので、自宅はできるだけきれいにして、半ば同居のために引っ越すというくらいの心構えで持ち物を用意する必要があるな、と犬丸は考えた。


 出会って数日の女性と同居などと聞いたら、数週間前の犬丸なら、手の早い奴だと口笛を吹いていじり、自分に起きるはずもない、とどこか他人事のように考え、内心うらやましく思ったことだろう。しかし、実際にその状況になってみると、まったく素直に喜べる状態にはなかった。


 昨日から干しっぱなしだった洗濯物をたたんで棚にしまい、冷蔵庫の中の生ものもすべてゴミ箱に放り込み、ゴミ袋を縛ってアパートの共有ゴミ捨てスペースに捨てる。軽く部屋を掃除し、リュックサックに遠野の部屋に持っていくものを詰める。着替えと洗面用具、ノートパソコン、大学の教科書、たんすの奥をひっかきまわしてやっと見つけたわずかな現金と通帳。窓の鍵を閉め、台所の火が消えていることを再度確認してから犬丸は自室を出ようとドアノブに手を掛けた。


 ピンポーン、とインターフォンが鳴った。ドアノブをひねろうとした手を放し、ドアスコープから外の様子をうかがう。てっきり荻本が戻ってきたのかと思ったが、そこにいたのは荻本ではなかった。


「すいませーん、警察の者ですが」


 途端に身が堅くなる。制服を着て帽子を目深にかぶった、背の高い男が立っていた。犬丸は息を殺してゆっくりとドアから後ずさりした。またピンポーン、とインターフォンが鳴る。昨日事故を起こしたのはこのアパートよりもだいぶ離れた地域だったはずだが、そのこととは関係があるのだろうか。まさか、なんらかの防犯カメラに顔が映っていて、轢き逃げのことはもう警察にバレているのか?それとも、何か他の事か?思い当たる余罪が多すぎて、心臓が早鐘を打ち始める。


「今いらっしゃいますよね。開けてくれませんか?」

 警察官の男は今度はインターフォンではなく、ドアを拳でドンドンと叩いた。


 犬丸はスニーカーを取ると、ドアの方に体を向けたままじりじりと後ずさり、窓の鍵を開ける。幸いここは二階だ。うまくすればベランダから脱出できるかもしれない。窓を開けてベランダに出る。ドアを叩く音は大きくなっている。飛び降りても死ぬことはないだろうが、無傷というわけにはいかなそうな高さだった。雨どいが目に入る。犬丸はリュックを下に投げ、雨どいに飛びついた。できるだけ体を雨どいに触れさせて手足を絡めて滑り降りる。小学校の時の上り棒以来の体験だった。摩擦で手が熱い。地面に降り立つと、リュックを引っ掴んで駆け出した。


 後ろから、「待てコラァ!」という怒鳴り声が聞こえた。なぜかもう逃げ出したのがバレている。頭が真っ白になって適当な道をジグザグに駆け抜けていく。今にも後ろからとびかかられて組み伏せられ、手錠を掛けられるような想像が頭の中を占め、振り返ることもできなかった。


 少し大きい道に出たとき、タクシーが止まっているのが見えた。


「タクシー!」

 犬丸は叫ぶ。タクシーの運転はそれに気づいてドアを開ける。開き始めたというところで犬丸は飛び乗る。


「お客さん、どちらへ?」


「早く、どこでもいい、早く出して!」


 鬼気迫る表情の犬丸の剣幕に驚いた運転手は少し目を丸くして、すぐにタクシーを発進させた。


「お客さん、誰かに追われてるので?」


「まあ、そんなところ。もっとスピードは出ないの?」


「これが法定速度なもんで。でも、細い道を駆使して追っ手を法定速度内で巻くことは十分可能ですぜ」


 犬丸は後ろを振り返る。まだパトランプを点灯したパトカーは来ていないようだ。

「じゃあとりあえずその方向でお願いします。誰もついてきてないって確信できるくらい走ったら、このマンションに向かってください」

 犬丸はマンションの住所を言った。


「あいよ」

 運転手はハンドルを切り、タクシーは細い路地に入って行った。


「俺は、追われる側じゃなくて追う側のドライバーをやりたかったのになぁ」

 運転手は独り言のようにぼやいた。

「大急ぎで乗り込んできた客に、『前の車を追ってください!』を言われたいがために、運転手になったんですぜ」


「期待に沿えなくてすいませんが、うまくやってくださいよ」


「わかってますよ」

 運転手はサイドミラーがこすれるぎりぎりの細さの道をすいすい通り抜け、あっという間に見慣れた国道までたどり着いた。そこからは細い路地でのショートカットも時折挟みつつ、最短経路でマンションへと向かって行った。


📱 📱 📱


 警察官の制服を着た男は「待てコラァ!」とから身を乗り出しながら叫んだ。


 何事かとベランダの仕切りの壁からひょこっと顔をのぞかせた、隣の部屋に住む大学生と目が合う。男はへらっと表情を崩して愛想笑いをし、何でもないと言うかのように手をヒラヒラ振った。大学生は警察の制服を見てぎょっとし、顔を引っ込めた。


 男はそれ以上犬丸を追うことはせず、ベランダからまた部屋に入り、窓に鍵をかけた。鍵をかけるその手の甲には、丸文字ゴシックで『みぎ』とタトゥーが彫ってあった。ポケットに突っ込んでいるもう一方の左手の手の甲には『ひだり』と彫ってある。


 男は鼻歌を歌いながら犬丸のベッドに寝そべると、スマホを取り出して動画サイトを開き、まるで自分の家かのようにくつろぎはじめた。

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