2 餅つき

「自己紹介が遅れたね。私は遠野好映とおの このえ。コノエって呼んでね。よろしく」

 チェーンの喫茶店に入って向かい合うと、女性はそう言って、パーカーの袖に入ったままの手を差し出してきた。


「犬丸祐樹です」

 犬丸は袖の上から軽くその手を握った。


「アイスミルクとアメリカンでございます」

 店内に人はまばらだった。ちょうどいい音量の音楽が掛けられ、穏やかな時間が流れていた。この店員も、勉強道具を広げる大学生も、おしゃべりに興じるマダムたちも、二人を見て、まさかたった今、人をそれぞれ一人ずつ轢き殺してきたとは思わないだろう。


 遠野はアイスミルクを美味そうに一口飲むと、ふぅと息をつき、パーカーのポケットから犬丸のスマホを取り出した。今はロックがかかっているが、待ち受けの画面や、ついているカバーから言って犬丸のスマホで間違いない。犬丸のスマホを叩き落としたかのように見えたが、あの時にすり替えでもしたのだろうか。


「スマホっていうのは、つくづく怖いものだね。壊れると人に正気を失わせ、また現れては人を犯罪者にしてしまう。さっきの一件でまだ気づかないとは言わせないよ。君は立派な中毒者だ。手に収まりやすいってのがもう、罪な形状をしてる。煙草やお酒、クスリは場所を選ぶけれど、これは選ばない。人生全部この板を眺めるだけで終わることもできそうなくらいお手軽。健康じゃなく、時間をむしばんでいく。中毒者から注意力や判断力、思考力を奪う点では、ある意味健康もむしばんでいると言えるのかな。まあ、実際、これのせいで人が死んでいるわけだし」


「……」

 犬丸は黙ってアメリカンを一口飲む。


 遠野は身を乗り出して犬丸にぐっと顔を近づける。指でつまんだスマホを犬丸の顔の前でプラプラ揺らす。

「ねえ、今もう一度聞くよ。本当にこれ、返してほしい?」


 犬丸はぎゅっと目を瞑った。フロントガラスに飛び散った赤いしぶき。間違いなく自分のせいだ。そしてそれは、確かに遠野が言う通り、自分のスマホ中毒のせいだということも十分に理解していた。


 その様子を見て遠野は口元に微笑を浮かべる。

「犬山君は賢いね」


「犬丸です」


「じゃ、犬丸君。君はこの一件で反省しなくちゃならないよ」


「わかってます」


 犬丸はスマホを遠野の方に押し付けるようにした。自分が今まで毎日欠かすことなく触っていたそれが、急に邪悪で恐ろしいものに思えてきた。


「それ、コノエさんが壊してください。それと……スマホをこの世から消す革命活動?でしたっけ。それ、協力します」


 遠野は大きな目を見開くようにして、それからすぐに顔中に満面の笑みを浮かべた。

「えらい!えらいね!やっとわかってくれたか」

 遠野は犬丸の髪をくしゃくしゃとなでた。


「勘違いしないでくださいよ。協力は、なんというか、僕に気付かせてくれたお礼といいますか、そういうものです。ずっと永続的にバディみたいに協力するって言ってるわけじゃなくて、一回くらいなら協力してもいいっていうか」


 うんうん、と遠野は頷く。

「でもさ、君に選択肢ってあるのかな?人を殺してるっていう弱みを持っているわけだし、私の言うことに逆らうのはあんまりいいムーブじゃないと思うよ。永続的に協力しないと警察にバラすよって私が脅迫したらどうするの?」


「脅迫するんですか」


「しないけど。でも、私が跳ねた人の死亡は私たちは確認してないから、あの人は擦り傷と脳震盪くらいで済んだかも。君は危険運転過失致死だから、いっしょにお縄になった場合、より困るのは君だってことは忘れないでいてほしいかな」


 まさにこれが脅迫だ。涼しい顔をしてアイスミルクを飲んでいるが、この人の本質は狂気なのだった。恐ろしい人に弱みを握られているのだ。スマホが壊れたときよりも何倍も状況は悪化していた。


「協力してくれるなら、そんなことなんにも気にしなくていいんだよ。恨むのなら私や自分の運勢じゃなくて、この板を恨んでね」


「……はい」

 うなだれる犬丸のつむじを見て、遠野は満足気に頷いた。


📱 📱 📱


 遠野と犬丸はホームセンターから出てくると、公園に歩いて行った。静かな公園で、人はまばらだった。


「さあて、お楽しみの時間。君にとっては、中毒脱却の記念すべき最初のイベントだね。盛り上がっていこー!」


 遠野は石づくりのベンチに犬丸のスマホをぞんざいに投げ捨て、ホームセンターの袋から金属製のハンマーを二本取り出して、一本を犬丸に放った。


 遠野は大きく振りかぶってスマホの画面にハンマーを振り下ろした。サンダルのヒールで踏んだ時とはくらべものにならないほど一瞬で保護シールが割れて、細かいヒビで真っ白になる。


「さあ、丸山君も!」

 遠野は狂気をたたえた目で誘う。犬丸も意を決して振りかぶり、スマホにハンマーを打ち下ろした。


「犬丸です!」

 衝撃でスマホはベンチから少し飛び上がる。


「いいね!その調子だよ!スマホ消えろ!スマホ消えろ!」

 まるで餅つきのように、二人は交互にスマホにハンマーを打ち下ろす。リズミカルな音が公園に響く。


「スマホ消えろ!スマホ消えろ!スマホ消えろ!」

 スマホはやがて粉々になり、原型を失った。


📱 📱 📱


 二人は粉々になったスマホの残骸を挟んでベンチに腰掛けていた。ハンマーを振り下ろす運動のせいでかいた汗が、風でゆっくりと心地よく冷やされていく。


「で、君の部屋はスマートキーなんだ」

 日が落ちてきて、二人の頭上で街頭がぱっと灯った。


「そうですね」

 犬丸は肩をすくめた。今となっては後の祭りだが、犬丸のアパートの鍵は、デバイスをかざすことで鍵をかけるタイプだったため、自宅に帰ることすらできなくなっていた。金もなければ、他の人に連絡する手段もなかった。


「うち来る?」

 遠野が聞いた。


「そうですね」

 犬丸は同意した。


📱 📱 📱


 遠野の住む部屋は、高層マンションの20階だった。ピカピカの床の、広い玄関ホールを抜け、エレベーターで20階に向かう。


「一人で住んでるんですか?」


「寂しいことにね」


「仕事は何を……?」


「んー、しいて言うなら革命活動?」


 遠野がドアを開けると、広い部屋が現れた。東京の街を見下ろす大きな窓、五人はゆったりと座れるであろうカウチソファー、アイランドキッチン。窓際には葉に白い模様の入った観葉植物が飾られていた。全体的に片付いている、というか物が少なかった。部屋の奥には本棚と背の高いデスクセットが置かれていて、パソコンが置いてあった。


「スマホは嫌いだけど、パソコンはいいんですね」


「場所を選ぶからね」


 遠野は広告のチラシを取り出す。

「お腹空いた。デリバリーでも頼もうか」


 遠野はピザのチラシを見て、固定電話を取った。今時、固定電話を家に置いている人など珍しい。犬丸はとりあえずソファーに座って、遠野がピザを注文するのを聞いていた。窓からはライトアップされた東京スカイツリーが見えた。犬丸はそこで自分の手がそわそわしていることに気付いた。スマホを探すように尻ポケットに入ったり出たりしている。少し暇な時間ができると、すぐにスマホをいじり出してしまうのだった。たとえそれが、電車を待つ2分間、壁によりかかって一息ついた数秒間でも同じだ。とりあえず、画面を見て、ただ時間と新しい通知を見て、また閉じる。


 ああ、今日はバイトだったっけ、と犬丸は唐突に思い出す。スマホのリマインド機能に頼りすぎて、通知が来ないと用事を忘れてしまう。日付や曜日も把握できていない。明日の授業までに出さなくてはいけない大学の課題はあっただろうかと思案を巡らせてみるが、うまく思い出せなかった。失ってみると、改めて、スマホが自分にとってどれほど強大な影響力を及ぼしていたのかということを実感する。


「注文終わったよ。君って、ピザの上のパイナップルって許せるタイプ?」


「別に平気ですけど」


「まじか。私は絶対嫌」


 遠野は冷蔵庫からいちごミルクのペットボトルを取り出し、ソファーにどっかりと腰を下ろすと、裸足の足を組む。

「ピザ、30分で来るって」


「こういう時間、コノエさんは何して過ごすんですか?」


 遠野は少し首を傾ける。

「ジュースを飲んだり、窓の外見たり、植物を見たり。本を読んでもいいし、目を閉じててもいい。……なんでそんなことを?」


 遠野は犬丸のそわそわした手に目を止める。目が細くなる。

「ははあ、君はわかんないんだ。スマホが無いとほんとになんにもできないんだね。嘆かわしい」


「コノエさんはスマホを買ったことはないんですか」


「ないよ。生まれてから今まで自分のスマホを持ったことは一度もない。もちろん、少し触ったことはあるけれど」


「よくこの現代社会で生きて来れましたね」


「生きるっていうのは、案外誰にでもできることなんだよ。ただ、その生きるって状態が、ただ寝てるだけみたいに生きるか、立ち上がって歩いて生きるかっていう違いだけ」


「あなたは今歩いてるんですね」


「そうだね。私に言わせれば、この世界の多くの人は寝てるように見える。夜は明けずに夢の中」


「一人目覚めているのって疲れませんか」


「疲れるよ。みんな目を瞑っているから、私のことを見ない。大勢の人の中で独りだけ正気なら、その人は相対的に狂気。孤独はつらいよ」


 遠野は飄々と言って、いちごミルクをぐびぐび呷った。どこか愉快そうともとれるその口ぶりは、その他大勢のことをあざ笑うかのようだった。


 犬丸はピザが来るまで、黙って窓の外を眺めた。街の明かりは点いたり消えたり移動したりと、ひと時も止まることはない。タイムラインを眺めていても同じ虚無を感じていたことに犬丸は気付いた。遠野はいちごミルクを飲み終え、かすかな音量で鼻歌を歌いながら観葉植物に霧吹きで水をかけ、その葉を丁寧に拭って手入れしていた。

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