BGM 2 ‐Much Ado About Nothing‐

sou

1.Intro.


 そこは、不気味な血溜りと暗い影に濡れそぼつ崩れ掛けの町だった。

あちこちから奇怪な叫び声や唸り声が響く中、男はひたすら歩を進めながら、次々と襲い掛かってくる “何か”に銃を向けていた。それらは各所がぼろぼろに崩れた状態で足を引き摺り、腐りかけの顔の中ではずらりと尖った歯ばかりが異様に白い。

撃てば脆く倒れるものの、リロードが追い付かないほど壁の隙間やドアの向こうからもぞもぞと這い出してくる。勢いよく飛び掛かってきたものを撃ち抜いた時、油断した脇から一撃引き裂かれて男はバランスを崩した。

まずい、と、引き金を引くが既に遅い。否応なしに血塗れの爪が伸びてきて――

「あー……!!」

引き裂かれた男は叫ばなかったが、男を”操作”していた青年は叫んでいた。

真横で見ていた青年が、呆然とする彼に無表情に言い放った。

「ハルちゃん、下手くそ」

「……」

青年は返す言葉もなく、悔しそうにケーブルで繋がれた巨大な銃を置いた。隣で同じように銃を置いたスポーツマン風の青年は意外そうに苦笑している。

「センパイ、本当ヘタっすね。超意外です」

未春みはるはともかく、リッキーまで言う?」

アーケード型のガン・シューティングゲームを前に、本物のガンマンである野々ののハルトは苦笑いを浮かべるしかなかった。

見下ろす先の大きな銃のコントローラーは、一見“有りそう”な見た目を装った玩具そのものだ。以前、本物の拳銃で「ゾンビ」を名乗るバイク集団を一人残らず倒した筈が、偽物の銃ではウスノロのゾンビさえままならない。

「ハルちゃんは上手いかと思ってた」

少し高い位置でハンサムな顔を傾け、尚も被せてくるのは十条じゅうじょう未春みはるである。現実ではノーコンの癖にゲームは高得点の青年をハルトは横目で睨む。

「うるせーな。大体これ……トリガーがスカスカし過ぎ……変なとこ重心掛かるし、水鉄砲のがまだ当たる気がする」

「リアルな意見ッス」

しみじみと出た言い訳に、最も高得点を叩き出したリッキーこと、葉月力也はづきりきやは笑った。

「実際はセンパイ、百発百中ですもんね」

魔法の弾丸フライクーゲルだからね」

「やめてくれ。その呼び方、マジで恥ずかしいんだよ」

百発百中なんて偉そうに言えた身分ではないとかぶりを振ったが、未春は全く表情を変えずに首を捻っただけだった。無理もない。恥ずかしいと謙遜する青年の射撃を目の当たりにしたことがあれば、大抵の人間はそう思う筈だった。

「そのあだ名、カッコいいッスよ」

「俺にはわからん。アマデウスさんのセンスはどうもアメコミっぽくて……そういや、あの人、ゲームも上手いな……」

元・上司の名を挙げて呟くハルトに、未春がほんの少し笑った。

「トオルさんのセンスよりマシだよ」

電子の騒音混じりに呟かれた声に、彼の殺し屋業界での最初のあだ名を知っているハルトは少々顔をしかめて言った。

「お前、こういう時に笑うのはやめろ」

幸い、力也には聴こえなかったものらしい。常に耳を襲ってくるガチャガチャした騒ぎに感謝しつつも、ハルトは眉を寄せた。

「それにしてもゲーセンて、すげえ音だな。皆よく頭おかしくならないな」

各個で意味不明な騒ぎが展開されるのは殺し屋の現場に似ていると思いながら、現役殺し屋である青年は辺りを見渡した。外から見ただけではポップなデザインのクレーンゲームばかりでよくわからなかったが、対戦ゲーム機が並ぶゾーンは殊の外やかましい。全体に黒い機械が詰め込まれた場所は暗く、電子音が鳴り響く操作音や派手な効果音、煙草の匂いと男臭さが漂っている。その上、ゲームとは楽しむものだと思っていたが、皆何かに取り憑かれたように画面を凝視し、にこりともしない真剣な眼差しでひたすら両手を素早く動かすばかりだ。

「こんな環境で大丈夫なのか、お前は?」

尋ねられた未春は、異常聴力の持主だ。家の中から屋外のひそひそ話も聴こえるレベルの耳ではうるさくない筈がないが、小首を捻ってから頷いた。

「聴かないようにすれば大丈夫」

「ふーん……」

コツがあるのだろうが、並の人間には理解不能だ。こんなもの、可能な限りは一分でも聴いていたくはない。

「アメリカにはゲーセン無いんすか?」

出口に向かいながら出たリッキーの問いにハルトは首を捻った。

「ある、けど……盛況してるイメージはないな。家でも出来るって感覚の人が多いんじゃないか?」

「まあ、そうッスよね。日本のゲーセンて独特っつうか……小中学校では、子供だけで行くなって言われますし」

「え、何でだよ? 本来は子供が遊ぶとこだろ?」

意外そうなハルトに、未春がぼそりと答えた。

「危ないから」

「なにが?」

「大きい子供が」

未春がそう言う頃には、三人は店の外に出ていた。背後の喚き散らすような電子音の多重奏を振り返り、ハルトは不思議そうに呟いた。

「そういや、大人ばっかだったな」



 BGMという組織がある。

Backバック Groundグラウンド Militaryミリタリー、略してBGMは、世界の裏側の軍を称する殺し屋組織だ。

一人のボスを持たず、世界各地の支部から選抜されたTOPトップ13の指示のもと、「世界を滞りなく回すこと」をお題目に殺しをビジネスとして行う。

ハルトと未春はその内のひとつ、日本にある「ハッピータウン支部」という気絶しかねないセンスの場に属していた。

以前は「センターコア支部」という支部も存在したが、ひと月半ほど前の秋頃、

“計画的”に解体され、今は此処だけが数名の殺し屋を抱えている。

代表にしてTOP13の一人、十条十じゅうじょうとおるが些かイカれた人間ということを除けば、ハッピータウン支部は名前の通り……と言うのは癪だが、まあまあの平和(悪党が悪党を排除する状態)を維持していた。

本拠地である椅子屋兼カフェの『DOUBLEダブルCROSSクロス』は営業を続けていたし、殺しに関与しない力也も含め、殺し屋二人も表向きはスタッフとして過ごしている。

その三人が電車に揺られた先の商業地をぶらぶらしていたのは、今日が店の定休日であり、店長代理を務める女性から「たまには遊んでくるように」と追い出された為だった。結果、二十八の若さで遊びが不得手である二人の殺し屋は、大学の授業が休みだった力也に助けを求めて今に至る。

クリスマスを月末に控えた町は、寒風にもゴキゲンな飾りと広告に輝いていた。

百貨店のショー・ウィンドウを飾る派手なツリー、いくつもぶら下がるオーナメントとモール、街路樹に掛かるイルミネーション、大小様々なプレゼント、高価で美麗なケーキは、愛と平等を説いた何処いずこの神に反し、人間を真っ二つ以上に分けている。

「お二人は、クリスマスはどうするんスか?」

力也の問いに、ハルトと未春は顔を見合わせた。両極端の一端、明暗の暗の側に居る二人は、無縁のお祭り騒ぎに興味のない目を向けて呟いた。

「どうって言われてもな……」

「どうもしない」

「ええーッ! なんで!?」

大げさな力也の声に、別に卑屈になっているわけでもない二人はそれぞれ眉を寄せた。

「日本て……そんなにクリスマスを重んじるのか?」

アメリカ育ちの日本人の意見に、力也は尤もらしく頷いた。

「一大イベントじゃないスか。センパイと未春サンなら、彼女なんて秒で出来るでしょ?」

「ああ、そういう――……それ、別にクリスマスじゃなくてもいいだろうに。リッキーは?」

「え……ソレ、聞きます……?」

わかりやすく項垂れる力也の肩を「sorry」と叩いてから、ハルトは未春を振り返った。

「お前はいつもどうしてんの?」

引く手数多であろう青年は、ハンサムな顔を些かも歪めずに目を瞬かせた。

「トオルさん次第。店に子供呼んだり、ボランティアに行ったり」

「ふーん……今年は自分で決めろよ」

未春は難しい顔をして首を捻ったが、頷いた。血の繋がらない叔父が居ないクリスマスは久しいのだろう。十条はきっと、今年は大々的に家族サービスをする筈だ。理由あって、十年近く二重生活状態で接した家族と、ようやくまともに向き合えるようになった最初のイベントなのだ。

一方、育ての親が居なければ何も浮かばないのかもしれないが、彼が居ないことを寂しく思う人物を思えば、未春も自ずと答えが出るに違いない。

ハルトが親心のような気持ちで思案していると、当の未春が口を開いた。

「さららさんに、お土産買おうかな」

今しがたハルトも考えていた人物――現在はDOUBLE・CROSSの店長代理であり、同居人でもある女性の名に一も二も無く頷いた。

「そうだな。何が良い?」

「たぶん、チーズとか喜ぶよ」

「さっすがー、さら姉は好みがオシャレっすねー」

ひと口にチーズと言っても、加熱処理されたプロセスチーズではなく、白カビチーズやモッツァレラなどの生チーズのことだ。三人揃ってデパートの食品フロアをぶらつくと、クリスマス・シーズンだけに、「ワインと共に」の文句と共にどっさり並んでいる。

「どれ買う?」

「ブリーでいいんじゃないの」

「定番か。お、ロックフォールある。買おう」

「えーセンパイ、青カビ食うんスか?」

「リッキーだめ? 俺は白カビより好きだよ。蜂蜜とクルミ載せると最高に美味い」

「マジすか? センパイが言うとうまそうだなあ……」

「ハルちゃん、ワインも買おうか。さららさん、メルロー飲みたがってたから」

「料理名人が三人居ると楽しそうッスね」

力也が言う通り、さららが同居してからというもの、食事は全体的に華美だった。

以前から未春は料理上手だったし、ハルトも男にしては家庭的な腕前だったが、やりくり上手な女性によって更にレベルは底上げされた。和洋折衷、旬のもの――おまけに三人とも好き嫌いがないため、鍋や肴を囲んでついつい飲み過ぎることもあった。

「リッキーも今夜来ればいいんじゃないか?」

「えっ! いいんスか!?」

嬉しそうな力也に未春も頷いた。

「いいよ。人が多い方が、さららさん喜ぶから」

「そっかー……さら姉、家ではどうすか?」

元気にしてます? という問い掛けに、二人の同居人は顔を見合せた。

「……俺たちが見てる上では、」

「元気、だと思う」

互いに煮え切らない答えになったのは仕方がない。

十条十という男に肉体的にも精神的にも依存していた彼女が、彼を失った生活にそう容易く適応できるとは思えなかったからだ。

さららの十条に対する感情はひと口には表現できない。彼女の複雑な生い立ち上、十条は親でもあり、兄でもあり、家族でもあり、恋人でもあり、手の届かない相手でもあった。現在でもハルトには理解不能だが、彼女は肉体関係を結んで尚、十条の妻子も愛していたし、妻子と共に在る十条も愛していた。また、十条本人も妻子を深く愛しながらさららを愛していたし、彼の妻子も彼女を嫌うどころか愛しているという始末で、美しいのか不毛なのか、他人にはわからない独自の倫理観で四者は成り立っている。

とはいえ、女性としてのさららが選ばれなかったのは本当のことだ。

力也は深い事情こそ知らないが、両者が結ばれないことは察したらしい。

仕事として十条は店には顔を出すし、一般的な企業よりも頻繁に来店している方だろうが、店の二階に住んでいた頃に比べれば圧倒的に不在が増えた。まあ、以前も二重生活と彼自身の特異体質のせいで午前中はほぼ就寝していたが。

さて、とにかく二人はあくまでも仕事上の付き合いに留まった。彼らの間で折り合いをつけた後はそれ以上の関係は持っていないし、二人きりで会うことも無くなった。

さららは店では特に元気そうにしているが、あまりに快活に働く姿は時折、不安になる。無駄な気遣いはしないと決めた二人も、できるだけ一人にしないように努めていた。どうしても難しいときは、二匹の出来る猫たちに任せている。

「クリスマス近い時って、結構クるもんなんスよねえ……」

覚えが有るのか、しみじみと力也は呟く。

「バレンタインとクリスマスは、どこ行っても総出で煽るじゃないスか」

「何を?」

「恋人作れ~って……居れば楽しいけど、居ないと辛いぞーみたいなことです」

「なんだそりゃ……日本はクリスマスを何だと思ってんだ?」

「……なんでしたっけ?」

「イエス・キリストの降誕祭」

「こうたん……?」

「聖誕祭って言えばわかるか?」

「ああ~……」

「で? 日本はそれを何だって?」

「ケーキとチキン食べて、サンタさんがプレゼントくれたり、恋人ならおしゃれなディナーとかする日……?」

指を繰る力也を、帰国子女の本気の呆れ顔が見た。その視線に力也は瞬いてから未春を振り返り、未春はぼんやり顔のまま、ハルトに視線を戻した。

「日本はリッキーが言うので大体合ってる。子供はプレゼント、大人は――」

「待て、Stop it……!」

顔面に鋭く片手を突き出したハルトを、胡乱げな視線が見下ろす。

「何?」

「いい。なんか聞きたくない」

街中でハンサムがぼやくセリフではない気がしたので阻止したが、彼は不服そうに肩をゆすり、ぷいと視線を逸らした。最近、たまに見かけるようになった拗ねた顔に、こちらは苦笑を返す外ない。

これが『キラー・マシーン』などと言われるほど、一貫して無が占めていた男かと思うと、感慨深いものがあるが……

「ハルちゃん」

「ん?」

「その急に出る英語、なんかやらしいからやめて」

「…………」

最近、奇怪なことを言うようになって困っている。



「おかえりなさーい。楽しかった?」

若者二人のケツを叩いて送り出した女性は、爽やかな笑みと共に出迎えた。

三十路を越えて尚若々しく、ふんわりした栗色のショートヘアがぴったりの小牧こまきさららは、シンプルなベージュのニットワンピースを纏い、当家の女王である猫・スズを抱いていた。典型的な焦げ茶トラに顔や腹は白い丸々とした猫は、「くるしゅうない」とでも言いそうな貫録で、薄緑の目を細めた。一方、さららの足元にちょこちょことおしゃまに歩いてきた錆び猫のビビは、長い尾を立て、くりりと丸い金目でハルトを仰ぎ、甘え声を上げた。

「いらっしゃい、リッキー。今日は二人と遊んでくれてありがと」

小さい子どもの親みたいに言う彼女に、力也は照れ臭そうに頭を掻いた。

「ども、さら姉……お邪魔します。いやあ……二人ともカッコいいから緊張しますー……」

「そうか? リッキーはカッコいいけどな?」

飛び掛かって来るビビを抱えてのハルトに、さららもウンウン頷いた。

「そうよーリッキーは優しいし、爽やかでいいじゃない。『特殊イケメン詐欺』の未春がなんでモテるのか、私には謎だわ」

「だから未春は詐欺なんですよ、さららさん」

実際、未春は通りすがりの女性たちが思わず振り向く容姿だが、全く意に介さず、愛想の欠片もない。……にも関わらず、やっぱり引き連れて歩いてしまうのだが。

「俺は別にモテなくていいよ」

食材を冷蔵庫に入れながらの熱の無い回答に、これだよ、と三人が苦笑した。

「未春ぅ……もう二十八なのよ? クリスマス前だし……そろそろ誰か選んでもいいんじゃない?」

「さららさんが選んだら考えます」

「またそんなこと言って。年増を困らせないで」

年増などという言葉が全く似合わない彼女が唇を尖らせる。

実は、さららには十条とはタイプの異なる良い相手が居るのだが、彼がめっきり訪れなくなってしまったので進展の程は不明だ。ついでに、未春の前でこの相手のことを言うのは躊躇われる。血の繋がらない女性にだいぶ過剰な――一方で性的欲求は皆無のシスター・コンプレックスをこじらせている青年は、短い沈黙の後にさらりと答えた。

「じゃあ、ハルちゃんが居ればいいです」

投げやりにしては的をぐさりと刺す返答に当事者はぶっと吹き出した。抱っこされていたビビが驚いて飛び降りる。

「惚れられてるわねー……ハルちゃん」

「……いや、マジでやめて下さい。コイツに浮いた話が無いせいで、ホント変な目で見られることがあるんですから!」

事実、二人で買物などしていると、シャレにならない視線を感じることがある。

店の常連客にも、疑っている……というか楽しんでいるフシの女性達が居て、未春がやましさの欠片もない口で同居していることを喋った日には、視界の端で黄色い声が上がった。

「まあ、ハルちゃんはイイ男だから仕方ないわね」

口元に手をやってくすくす笑うさららに、力也が腕組みしながら大きく頷いた。

「それは俺もわかるッス」

「おいおい、勘弁してくれ……俺そっちのケはないから」

真っ当な文句に、未春がきょとんとした顔を上げた。

「無いの?」

「無いわ! お前が聞くな!」

大声を上げると、二人分の笑い声と一人分の音の無い笑いが出た。



「ハルちゃん、素敵!」

早朝、DOUBLE・CROSSの店内で褒められたのはハルト自身ではなかった。

12月頭――気忙しい世間より遅れて飾り付けられたツリーを仰ぎ、店長代理は手を叩いて嬉しそうに微笑んだ。

「良かったー、ハルちゃんがハイセンスで。さすが本場育ち」

「オーバーですよ。クリスマスが有名なのはヨーロッパですし、アメリカは消費が主流ですから。さららさんがやった方が良かったんじゃないですか?」

「そんなことないわ。とっても綺麗よ」

お褒めに預かるのは光栄だが、はっきり言って専門外だ。スマートフォンの検索画面と向き合いながらの試行錯誤の末である。見上げるツリーは、大人の男でも脚立が必要なビッグサイズだ。アメリカ暮らしが長いハルトに違和感はなかったが、日本ではかなりの大物だという。

「これ、私やラッコちゃんには大きくて大変なのよね。未春とリッキーには荷が重いし、一番ハイセンスなのはあっくんなんだけど、忙しいし、今は居ないものね」

先の件で恐るべきジョーカーを務めた茶話さわ明香あすかか。BGMの後処理を担う清掃員クリーナーだが、役者志望のスキルが突出している「劇団」というポジションの青年だ。まるきり別人に化けた彼にまんまと騙された身としては悔しいが、ハイブランドを着こなす麗人の女装をこなした男なら、確かに上手くやりそうだ。両親が他界している現役大学生でありながら、廃業した劇場を買い取ってオーナー兼役者として盛り立てつつ、その借金返済と公演、清掃員活動、たまにDOUBLE・CROSSの非常勤までするパワフルな明香に時間は足りない。

その上、今は海外留学中だ。

まあ、金を積めば病に伏していてもすっ飛んでくるだろうが。

つまり。ハルトは困り顔を浮かべた。

「……じゃあ、今までこれを飾り付けてたのって――」

「消去法よね」

小さく笑ったさららに、ハルトは頭を掻いた。

「やっぱり十条さんなんですね」

「トオルちゃん……家事はなーんにもできないのに、飾り付けは上手いの。ハロウィンのセットも、知らない内に出来てたでしょ?」

「言われてみればそうですよね……さららさんが居ない時だったのに」

今更ながら、自ら企画したイベントの準備をせっせと行う姿が見える気がする。

あのひょろっと長い手足を伸ばしてガーランドを引っ掛け、角度を見ながらカボチャのランタンを設置していたのだろう。本物のもみの木そっくりな、ボリュームのあるツリーにもこだわりを感じるし、飾りは金銀をベースに赤が加わる豪華なセットだ。オーナメントのボールも、複雑なカットが入ったものや、雪の結晶、星の模様が吹き付けてあるなど芸が細かい。ふと、ハルトは外で掃除をしている未春を見た。家事もそうだが、この店に関して『完璧』である未春が、何故自らツリーを出さなかったのか、ようやく合点がいく。さららにせがまれて引っ張り出した時、何となく感付いていたものの……イベント――即ち企画であり『計画』とは、全て十条十の気配が濃いらしい。

彼は今、自宅にも立派なツリーを飾っているのだろうか。

「本当は、未春にもやってほしいけど……もう少し経ってからでも良いと思って」

「あいつは、さららさんに言われれば何でもやると思いますが」

「それじゃ駄目なの」

さららは少し寂しそうに苦笑した。

「ハルちゃんが教えてくれたことを、未春がきちんと受け取るまではね」

「きちんと受け取る……?」

「お手本が居なくても、大丈夫になるまで」

さららがにこりと微笑むと、店の電話が鳴った。そちらに向かうさららを見送ってから、ハルトはツリーを見上げた。

――お手本、か。

十条の飾り付けはどんなものだったのかな――などと思っていると、さららが子機を片手に引き返してきた。

「ハルちゃーん、電話ー」

「え、俺? 誰ですか?」

「アマデウスさん」

昨今、これほど不穏な名は他にあるまい。急に胃でも痛むような顔をして、ハルトはつい言った。

「……切って下さい」

どうしてとさららは笑いながら、電話に何事か話し掛けてから、嫌そうな青年に押し付けた。響いてきた陽気な声に、返事の代わりに一発お見舞いしてやりたい気持ちになる。

「Good morning、ハルー」

「Good morning?……また来日してるんですか、ミスター・アマデウス?」

国際電話ではない受話器の向こうで男は笑ったようだった。

「そのようだね」

他人事のような返答に、ハルトは既に寄せていた眉間の皺をひとつ増やした。

元・上司……否、今は前の前の上司にして、BGMのTOP13の一人でもあるミスター・アマデウスは、アメリカ支部を牛耳る辣腕家だ。殺し屋の現役時代は『死神』とあだ名された優れた一撃必殺の狙撃手だったらしいが、早々に引退し、表向きは音楽会社のCEOを始め、諸々の事業を展開し、裏では武器商も手掛ける奇想天外な仕事に従事している。それ以外にも“様々”な悪企みに明け暮れているのだから、大人しくニューヨークかシアトルのオフィスに収まっていてほしい。

アマデウスが動くということは、ろくでもない『何か』が起きるということなのだから。

「……何の用です?」

顔どころか声にも満面の嫌悪を滲ませて訊ねる元・部下に、アマデウスは頓着しないようだった。教師になれるほど流暢な日本語で、愉快なゴシップを語るとばかりに切り出す。

「ハル、うちの事務所から出たシンデレラ・ガールは知っているかい?」

「俺が知ってると思います?」

にべもない回答に、アマデウスは電話越しにひどく落胆を示した。

「Oh……それは残念……! リリー・クレイヴンは天才なのに! 全米チャートで早くもトップに躍り出た歌姫だよ?」

「その天才が何なんです……売り込みなら余所でやって下さいよ」

「冷たいなあ、ハル。彼女がね、クリスマス休暇で来日するんだ」

「はあ」

「来週にはそっちに行く筈だから、ボディーガードしてくれ。とりあえず、前金一万ドル、君の口座に振り込んだ」

「は……!?」

「頼んだよ、フライクーゲル。詳しい話は彼女に聞いてくれたまえ」

「ちょっと待っ……!」

どちらが冷たいのか、ともかく電話はぷつりと切れた。

即かけ直してやろうかと思ったが、受話器を睨むしかない。一方的な依頼だ――どうせ知らん顔をするに決まっている。大仰な溜め息を吐いて電話を置くと、さららが不思議そうな顔をしていた。

「アマデウスさん、何て?」

「……何か妙な依頼です。彼の事務所の歌姫が来日するから護衛しろって……」

「護衛……? 殺し屋に?」

「全くです。人気芸能人なら、その道のプロに頼めばいいのに」

人殺しと護衛では、やることが根本的に真逆だ。そんな子供でもわかる話をアマデウスがわからない筈がない。

第一、彼のオフィスだけでもその道のプロであるSPはゴロゴロ居る。元・上司の権限でタダ働きさせるなら(やらないが)筋は通るものの、既に一万ドル……日本円にして約百万円を振り込むとは、どういう了見なのだろう。

「アマデウスさんは、ハルちゃんを本当に007だと思ってるのかしら」

可笑しそうなさららに、今の上司にも言われたなと思いつつ、口に出さずに首を振った。

「何にしても嫌な予感しかしませんよ……」

「ついでに殺し屋なんて辞めちゃえばいいのに」

事ある毎に出るセリフに、にわか007は仕方なさそうに首を振った。

「……さららさん、それは言いっこなしです」

お互いさまでしょう、と付け加えられ、さららは苦笑いのみ返した。ハルトと未春に足を洗わせたがっている彼女だが、それが難しいことも理解している。

今のBGMには、見過ごせない問題がちらついている。先の事件で、BGM狩り――或いはアマデウス狙いと思われる行動に出た組織は依然、謎のままだし、数年前にステファニー・レッドフィールドというTOP13が死亡以降、十二人体制が続いている彼らの動向は腹の探り合いと、意見の違いが出始めているらしい。今の上司である十条は、この辺りのことは気楽に傍観しているていでいるが、そもそもTOPの数名は顔や年齢さえ不明の連中だ。表向きの国家が嘘八百のパフォーマンスをしているのに、殺し屋なんぞが博愛主義を掲げて握手はできまい。

いつか殺される身だと自覚しているが、いつ巡るのかわからない危機に対して、知らぬ存ぜぬ顔ができない身だとも自覚しているつもりだ。

さて、今回の異様な話は、それらと関係があるのだろうか?

「ミスター・アマデウスのことですから……間違いなく裏がありますね。十条さんにも聞いてみますが、一応、身辺には気をつけて下さい。他の皆も」

「わかったわ。皆には私から連絡回しておくから、未春にはハルちゃんから言ってくれる?」

「あ、はい……わかりました」

頷いて店を出ると、激流のような国道の手前で掃除をしている未春が居た。

彼は掃除が趣味か、潔癖症なのではと思わせるほど丁寧にやるタイプだが、実は決まった動作を効率的に行っているだけなのだと最近知った。十条にキラー・マシーン扱いされていた青年は、先の件以降だいぶ角が取れたように思えるが、まだまだオートマチックな機械らしさが抜けていない。

「未春、ちょっといいか」

鈍色が混じる落ち葉から顔を上げた青年に事の次第を話すと、彼にしては腑に落ちない顔つきで首を捻った。

「その人、うちで預かるの?」

「ああ……もしかしたらそうかも……」

「シンデレラ・ガールってことは、若い女の人だよね?」

「だな。年配者にガールは無いと思う」

「部屋、どうしようか」

「あー……そういや、そうか……現状、さららさんに頼むしか……」

「ハルちゃん、それは無理」

「はい?」

「その人が何者かわからないのに、さららさんと一緒にはできない」

SPよりも従者に等しい口調はともかく、尤もな意見なのでハルトは押し黙った。

未春が言う通り、そのシンガー本人が標的、或いは殺し屋という可能性もある。

「……だからって、『ガール』が俺やお前と相部屋はまずいだろ。違う意味でさららさんに反対されるぞ」

「俺とハルちゃんが相部屋なのは?」

瞬間、ハルトは変なものを飲み込んだような顔で黙した。

「何その沈黙」

「……いや、まあ、いいけどさ……」

先日の話を思うと、何やらむず痒いものがある。あの部屋はベッドもセミダブルひとつ。かつて家主とさららが軋むほど利用していたかと思うと尚更気まずい。ソファーに布団を持ち込む必要性を思う青年に、未春は事も無げに続けた。

「俺の部屋をさららさんに貸して、その子にハルちゃんの部屋を貸すのでどう?」

選択肢が無いというのは不自由なものだ。ハルトは必要以上に顔をしかめてから頷いた。

「わかった、仕方ない……さららさんに相談してからな」



「ええー!! ほんとにー!? スッゴい!!」

全米チャート1位の歌姫来訪に、アマデウスが望む反応をしたのは、DOUBLE・CROSSにバイトに来ている女子高生の空井そらい倉子くらこだった。

「ラッコちゃん」のあだ名で親しまれる彼女は、動物好きの優しい性格だが、動物と見ると犬猫は言うまでもなく、世に言う害獣――ドブネズミやアライグマ、ハクビシンなども大事にしようとするため、ハルトに「害獣保護JK」という残念なあだ名を付けられている。仕方がない。己のスクールバッグにドブネズミ入りの捕獲檻を隠すという戦慄の保護活動はいまだ記憶に新しく、到底忘れられそうにない。

曖昧ながらもBGMの存在を知る一般人で、悪徳ブリーダーを恨む余り、自身も殺し屋を目指した時期もあるが、今は本人によると保留段階――こちらの動向を観察した上で決めるつもりでいるらしい。表向きは動物方面の進路と述べて全く疑われない点や、ずば抜けて察しが良い辺りは見込みがあるが、いかんせん、正義思想のケが強い上、普通の女子高生には違いないので、彼女の加入は“あの”十条も反対している。

その判断は正しい。優しさが発端の殺しは、質の悪い方へ流れやすい。

現に今、ハルトが休日に車のハンドルを握っているのも、倉子を犬猫保護施設に送るためだった。彼女は積極的にこのボランティア活動をしており、十条らと出会ったのもこれがきっかけである。以前は施設を支援している十条が定期的に行っていた役割だが、彼が家族サービスに精を出して以降は自然とハルトが引き継いでしまっていた。先日のツリーといい、彼の術中にはまっているようでモヤモヤするのだが、ほぼ毎日店に出るさららは休ませたいし、力也は学業が最優先。未春は地獄のドライブテクニックの持主なので論外だ。

倉子は助手席でそわそわし始め、両の手のひらを擦り合わせるように口元を覆った。

「ヤッバー……あたし、こういうのあんまりキャッキャしない方なんだけど……これはヒミツにする自信ない……! なんでハルちゃんは落ち着いてんの?」

「いやあ……俺はどうも、芸能だの流行だのには疎くて。詳しそうに見えないだろ?」

てっきり、倉子もそうした話には興味がないかと思っていたが、そこは現役女子高生――意外というよりも咎める目をして倉子は首を捻った。

「信じらんない……ハルちゃん、アメリカに居たんでしょ。しかも英語ペラペラじゃん。洋楽聴かないの?」

「バイリンガルとトレンドは関係ないってことだよ」

「えー……みーちゃん……は、無理か……さららさんは?」

「俺も期待したけど、どっかの店で聴いたくらいだってさ」

居ない所で「無理」扱いされる未春はともかく、さららは流行に疎いわけではないし、世相をキャッチするセンスもある。ところが音楽となると懐メロ派で、洋楽ではジャズ中心、ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマン、ハービー・ハンコックなどなど……またはビートルズやマイケル・ジャクソンなどの大御所アーティストに遡ってしまうという。どうやら十条や、ジャズ好きの親友の影響らしい。確かに、DOUBLE・CROSSで流れているジャズ中心の楽曲は、全て十条とさららの選曲だ。

「そっかあ……さららさんぽいけど……マズくない? 失礼になるんじゃないの?」

「だったら頼んだ人がどうかしてるよ。俺がどういうタイプか知らんわけでもなし……」

どうかしている男なのは間違いないが、能無しではない。それに、全米で人気の歌姫が、何故わざわざクリスマス休暇を日本で過ごすのだろう?

同じ過ごすなら、日本の一般家庭……ではないが、経済的にはその程度――に居るよりも、ハワイなどの暖かい土地でのんびり過ごすのがセレブではあるまいか?

或いは同じ日本でも、京都や北海道、名の有る温泉地などの方がそれらしい。

クリスマスに休むのも妙だ。マーケットの分野だけでも、アメリカは日本と比較にならないほど盛り上がる。日本の芸能人でも、クリスマス向けのイベント活動をする者は多いようだし、アメリカでは街頭でチャリティーコンサートをする姿をよく見かけた。休む選択肢の場合も、クリスマスは家族と過ごすのが普通だ。長期留学に来ている学生も、よほどの理由が無い限り、クリスマスには帰国する。

損得勘定なら右に出るものは居ないアマデウスのこと、セオリーを無視するには何らかの好条件が発生するのだろうが、絶対に別の理由がある。

恐らく――危険な方面の。

それを前提にしてしまうと、楽曲の認知など討論している場合ではなかった。

「そだ。ハルちゃん『TAKEテイク』は知らないの?」

「TAKE?」

「SNSだよ。ちょっと~……こっちもアメリカ発だよ! どうなってんの?」

「どうなってるも何も、俺が情報発信や写真アップしたりすると思う?」

「そだねー」

そうでしょうよ、と互いに笑って、倉子は一般常識をレクチャーするように指を立てた。

「TAKEはね、開発元のアメリカで流行って、何年か前に日本でもサービスが始まったSNSなの。代表のアルフレッド・ヘスの本は超売れて話題になったよ。今は世界レベルのIT企業だし、あたしの周りも殆どの子がアプリ入れてるよ」

「……わからん……俺、友達居ないし」

いまだに「友達」というワードは苦手だ。十代で初めて「友達」だと認識した相手を射殺した記憶は、十年以上経った今でも拭えずに付き纏っている。彼を殺したショックから、人殺しの後に氷を山ほど食わねば気狂いする体になった。この戦闘ストレスをBGMでは『キリング・ショック』と呼び、これが存在することは人間である証だというが、人殺しをした確たる証でもある。以前、未春と友達になるよう促した倉子は、理由を説明して尚引き下がらず、殺した相手と未春は無関係だと主張し、例によって呟いた。

「みーちゃんが居るじゃん」

「……同じ家に住んでて、必要ある?」

「買物、頼むとか」

「電話でいい」

「あう……そだねー。殺し屋ってカワイソー……」

向けられる哀れみの視線は気にならないが、返す言葉は無い。

「リリーとTAKEは、何か関係あるのか?」

「リリーはTAKEのフォロワー数が一位なの。去年から……だったかな?」

「フォロワーって、ファンとは違うのか?」

「えっとー……まあ、ファンだよ。芸能人は大体そうだから、そう思っていいと思う」

「その一位ってことは、彼女の投稿を見たい人が大勢いる、と」

「うんうん、そゆこと」

倉子によると、アーティストやタレントは自身の活動内容や宣伝が主体となるが、飼っているペットの写真や、旅行先でのプライベートな写真を載せることも多いという。リリーは休憩中に食べたお菓子から、購入したファッションアイテムの写真、ファンへのメッセージなど、些細なことを含めて、こまめに投稿しているらしい。

「なるほどな。ところでラッコちゃん、CD持ってないの?」

「あたしはスマホにダウンロードしたのしか無いや。ハルちゃん、お金持ちなんだから買えばいいじゃん。ついでにお店で流してよ」

「こらこら……お金持ちじゃないって」

一瞬、アマデウスに振り込まれた一万ドルが頭を過ったが、こんな金に気楽に手を付けるつもりは無い。

「同世代に比べたら有る方だろうけど、外で言わないでくれよ」

「いいけどさあ……“有る方”はウソでしょ? 十条さんが言ってたよ、ハルちゃんは取引で十万単位から上乗せするのが上手いって」

クソ。あの上司は嫌な所で口が軽い。

……いいじゃないか、悪党から幾らふんだくろうが。

「店で使うなら経費で落としてもらえばいいだろ」

「えーケチー。でも、そっか……十条さんならオッケーしてくれそう」

十条の悪い面を理解しつつも、良い面を評価している倉子は、呑気にラジオのスイッチを入れてチャンネルを切り替え始めた。

「あたし今、充電忘れて電池ヤバいんだよね。どっかでやってないかなーリリーの歌……」

「彼女の歌って、何が良いの?」

何気なく聞いたが、倉子は難しい顔をした。

「んー……歌も歌詞もいいけど、まず、声かなー……?」

「声?」

「うん。リリーって細くて可愛いのに、ハスキーで……お腹に響く感じがする声なの。ダイナミックーってカンジ」

「ふーん」

「あと、すっごくカワイイよ! 天使!」

「ほほお」

「あのさあ……ハルちゃん、興味ないなら聞かないでくれる?」

「……すみません」

顔はともかく、声に関しては調べてみよう。先の件は、人を殺すほどの『声』を巡るトラブルだった。これに関しては決着した筈だが、無関係とは限らない。何にしても、上司に話す必要があると思いながら、小さな施設の前に乗り入れた。

施設長の果林かりんが、ピンク色のエプロンをはためかせて走ってきたが、はっとしてから少しだけ肩を落とすのが見えた。

「どしたの、果林さん?」

ひょいっと飛び降りた倉子が怪訝な顔をすると、果林は臆病な動物らしき目をして首を振り、微笑した。実際、ややぽちゃっとした頬と小柄な体型はウサギに似ている。

「ごめんね……とおるさんの車だから、来たのかと思っちゃっただけ」

全く罪の多い男だ。さららだけでも十分な重罪だが、巷にファンが多いのは、あのなりふり構わぬ人懐こい笑顔が原因だろう。

「すみません。十条さん――別の車買ったんですが、こっちは仕事用に取っておいてて。車検して乗らないのは勿体ないから、俺が借りてるんです」

嘘ではない。十条は家族用に新車を買い、こちらは「仕事用」と称し、手続き上では未春に譲った。まあ、”仕事”以外で、未春が運転することは殆ど無いのだが。

頭を下げるハルトに、果林は慌てて手を振った。

「いいのいいの、ハルちゃんは大歓迎! 皆もう興奮しちゃって大変なぐらいよ」

「お姉さま方じゃなくて、わんこがねー」

ニヤニヤ笑う倉子に、わかってます、と頷いてから、モテ男の黒いハッチバック・セダンを振り返った。「ハルちゃんなら運転してもいい」と未春に鍵を渡されて久しいが、やっぱり元の持ち主によく似合う車だ。

「みんなー、ラッコちゃんとハルちゃんが来てくれたよー」

果林が穏やかな声で呼び掛けると、か弱くも真っ先に尾を振ったのは、ふわっとした耳と尾が特徴の白い犬だ。

「元気そうだな、マックス」

ハルトが頭を撫でると、嬉しそうに手のひらを押し返して来た。

初めて十条に伴われて参加した譲渡会にて、ハルトの傍にぴたりくっついて離れなかった一頭だ。虐待経験を持つため、どことなく悲しい目をした犬だったが、初会から今日――少しずつ人に慣れてきたようだった。

「ハルちゃんが付けた名前、カッコイイって評判なのよ」

犬の喜ぶ様子に目を細める果林が言うと、ハルトは苦笑いだ。マックスは、日本で言う所の「ポチ」や「シロ」などに等しい、ポピュラーの塊である。

「マックス、決まりそうなんでしょ?」

他の犬に取り囲まれた倉子が尋ねると、果林は嬉しそうに頷いた。

「そうなの。実は、外国人のご家族からご希望頂いてるの。来週、面談なのよ」

「それはそれは」

英語教えときます?というアメリカ育ちの冗談に、いいわね、と果林は笑った。

「ビビちゃんは元気?」

「はい。あいつは賢いし、同居人やラッコちゃんもよく見てくれるんで」

この施設上がりの猫・ビビは、なかなか飼い主に巡り会えず、倉子と十条の情に圧されるようにハルトの飼い猫に収まった。先に飼われていたスズとの相性は女同士だが良好で、二匹はさららの安定剤としても実に有能だった。興味が無さそうな未春が、世話好きかと思うほど面倒を見るし、施設や倉子の躾が良いのか、全く手間が掛からない。親の欲目かもしれないが、ビビ自体、名犬ならぬ名猫と言っても良いほど賢いところがある。

「ビビ子、スズ様ともすっごい仲良しなんだー。最近は慣れてきて、よくお喋りするよ」

倉子が言う通り、先に飼われていたスズが大らかな性格なのか、同じ野良出身の境遇に共感でもするのか、ほぼ一緒に行動し、夜は仲良くハルトをベッドにしている。

果林はほっと胸を撫でおろす。

「良かったー……飼ってもらえるだけでもありがたいけれど……やっぱり幸せになってほしいもの」

息を潜めるように呟く。倉子によると、以前、悪徳ブリーダーに譲渡してしまった経験の後、果林はひどく慎重になっているという。まあ、そのブリーダーは“犯人不明の悪質なイタズラ”で自慢のベンツがオシャカになってから大人しくなったらしいが。

「優しい飼い主だといいな」

話し掛けると、マックスは頷くように羽箒のような尾を振った。その後方で、倉子が慣れた手つきで犬たちを別室に移動させてから、掃除用具を取り出した。

「ハルちゃーん、マックスも連れて来てー、掃除するよー」

「はいはい」

そうだ、とハルトは果林を振り返った。

「あの……果林さん、リリー・クレイヴンて歌手知ってます?」

「リリー……? あ、こないだテレビで見たわ。お人形さんみたいな子でしょ?」

「俺はよく知らないんですけど……人気あります?」

「と、思うけど。私も洋楽は詳しくないから……岡さんどう?」

如何にもおっかさんといった風貌の片岡さん――通称・岡さんは、外で叩こうとしたのか、マットを持ち上げながら首を傾げた。

「娘が見てたかもねえ……あたしはダメ。ビートルズの方がいいわあ」

「あ、わかりますー。はしもっちゃんは?」

はしもっちゃんこと、すらっとした眼鏡女子の橋本さんは二十代後半の最も若輩だが、短いポニーテールをゆるく振った。

「……私、アニソン専門なので」

「そっかあ……ハルちゃん、うちはこんな感じ」

果林の言葉に、ハルトは頷いた。――どうやら、リリーは日本の老若男女にウケているわけではなさそうだ。察するに、倉子の世代――ティーン・エイジャーのファンが多いと見える。何かにサプライズ出演でもするのかと思ったが、あまり金銭的には強くない少数派ティーンの為だけに行うのは、旨い話には思えない。

アマデウスは一体何を企んで――……

「ハルちゃん! ぼさっとしない!」

ほうきを片手に仁王立つ倉子に、ハルトは慌てて従った。



 「うげっ!」

店に戻るなり、倉子は女子としてはどうだろうという声を上げた。

定休日である筈の店には、客が居た。視線の先――カジュアルなセーター姿のさららが手を振るカウンターの手前で客は振り向いた。

椅子にどっかと座っていたのは、黒のニット帽に黒のTシャツ、白のダウンジャケットを脇に置いたベタなB系ファッションの男である。

傍らで、「なんで店内で帽子?」と倉子が忌々し気に呟くのが聴こえた。

保土ヶ谷ほどがやという男だ。通称、ガヤちゃん。

「おかえりー、ハルちゃん。ちょうど良かった。お客さんよ」

「お……俺にですか?」

まさか、いつかの“お礼”じゃあるまいな?

そわそわするハルトに対し、男はすっと立ち上がり、びしっとお辞儀をした。

「どうも、ハルさん。ご無沙汰してます」

「ど……どうも……」

彼は姿勢を正したまま頷いた。

「保土ヶ谷 れんです。正式なご挨拶が遅くなってすみません」

「……いや、ご丁寧にどうも……」

誤解が有ったとはいえ、初対面でぶん殴ってしまった相手は、どうやら“お礼回り”ではないらしい。初めて会った日と後日改めて会った時よりも遥かに丁寧な対応に面食らっていると、誤解の原因である倉子がじろりと仰いだ。

「なんでガヤちゃんが居んのよ?」

テリトリーに入って来た外敵を見るような倉子に、保土ヶ谷は怖すぎるほど整った眉を寄せ、鼻を鳴らした。そんな態度をとると、ますます麻薬の売人に見えるが――彼は非常に真面目な好青年で、人に害成す虫や獣の駆除業者として働いている。害獣保護JKである倉子とは水と油の関係で、思想の異なる両者は顔を合わせただけで揉めるらしい。

「倉子は黙ってろ。大人の話があんだよ」

「はあ? 何よ、エラソーに。あたしとそんなに変わんないじゃん」

「おいおい、マジかよ……保土ヶ谷さん、何歳……?」

「二十四です。未成年の倉子に言われたくないスよ」

「げ……俺の四つ下……?」

「ぷっぷー引かれてやんのー」

口許をひくつかせる保土ヶ谷に、さららがやんわり割って入る。

「こーら、喧嘩しないの。ラッコちゃんは私と上でお茶しましょう。お嬢とビビちゃんが暇そうにしてるから」

「はあーい」

不服そうな倉子が居なくなると、ハルトはダウンが乗った席をひとつ空けて座った。

「えーと……話ってどういう……?」

「ハルさんは、俺が『清掃員クリーナー』って話は、聞いてますか?」

清掃員は、BGMの後処理を行うチームだ。BGMが成り立つのは全て彼らのおかげといってもいい。各自の得意分野によって仕事内容は分かれるが、主に遺体処理や輸送、偽装工作などに当たる。

「未春に聞いたけど――ちょっと待った、その“ハルさん”てやめないか? 未春は呼び捨てだったろ?」

野々サンからハルトさんを経て、ハルさん……一体このご無沙汰期間に彼の中でどういう変化が有ったのかわからない。

「未春はまあ、ああいう奴なんでいいんスよ。ハルさんには漢気感じたんで。俺もガヤでいいって言ったじゃないスか」

「お……漢気……?」

何処にそんなポイントが? と顔に書いた男に、保土ヶ谷は苦笑した。

「だってハルさん、最初……俺らを倉子に絡んでるワルだと思って、声掛けたんスよね?」

「ああ……まあ、そうだけど……」

「十条サンに聞きましたけど、さららさんの件でも活躍したって」

「いや、それは諸事情というか流れというか……」

「はは、何にしたって自分以外の為にやったんでしょ? ヒーローじゃないスか」

そう言って笑った顔は、いかにも働く男といった風の爽やかさがあった。

「倉子の件にしたって、普通は皆、見ないふりして素通りするもんスよ。未春とハルさんだけです、俺らの外見にビビらないで声掛けたのは。……まあ、未春は極端にやり過ぎますけど」

「そういうもんかなあ……」

保土ヶ谷の正体はワルと真逆の青年なのだから、ヒーローも何も無い。おまけにこっちは正真正銘、本物の悪党だ。先に手を上げたのもこちらなので閉口する。

「……ガヤちゃんが良いならいいか。話って……BGMの方?」

「はい。仕事が落ち着いたんで、こっちも出られるようになりました。何かあったら呼んでください」

なるほど。この打って変わった応対はそういうことか。BGMの場合、清掃員は大概、殺し屋に対して丁寧に接する。

「てことは、スズメバチは片付いたのか」

猛暑で大繁殖したスズメバチの駆除に追われ、清掃員どころではなかったと聞いている。現に、ひと月ほど前の件に保土ヶ谷は関わっておらず、彼が清掃員であるのをハルトが知ったのも事件後のことだった。

「はい。おかげさまで。本当は4月とかにやるのが安全なんスけどね。よりによって一番血気盛んなシーズンに相手にする羽目になりました」

「すごいなあ。俺はそっちのがヒーローだと思うな」

世辞でも何でもない。如何な殺し屋でも、あの攻撃的な蜂と戦うのは御免被るし、昆虫相手に銃なぞ何の役にも立たない。はっきり言って怖すぎる。確実に人助けに成り得る仕事という点では、彼はよっぽどヒーローだ。

どうも、と恥ずかしそうに保土ヶ谷は肩を揺すった。

「まさか、ガヤちゃんの清掃員って……そっち方面じゃないよな?」

「いやいや、まさか。ハルさん面白いスね」

アメリカンジョーク? などと笑ってから、保土ヶ谷はポケットから厳つい黒革の財布を取り出し、運転免許証を机に置いた。

「俺は室月むろつきさんや茶話さわほど多芸じゃないスけど、運転は自信あります。大型免許2種持ってるんで」

「え、2種って――バスの運転手にもなれるヤツだよな? その年齢で大型持ってるだけでも凄いのに」

ハルトも外国免許から切り替えた時に知ったのだが、自動車の大型免許には、1種と2種が存在する。単純に大型免許を取得するだけでも、普通免許を取得後に3年以上経過している必要があるし、2種に至っては安全面の知識や技能も求められる。彼の年齢からすれば最速に等しい取得だ。

素直に感心するハルトに、保土ヶ谷は照れ臭そうに頭を掻いた。

「そのぐらいしか取柄ないんスよ。崖吹っ飛ぶとかスタントマンみたいなことは無理ですけど、日本の狭い道は得意です」

「十分凄いよ。悪党の手伝いには勿体ないな」

苦笑いを浮かべたハルトに、保土ヶ谷は目を瞬いた。

「何か変な事言ったか?」

「いえ。ハルさんは……十条サンみたいなこと言うんスね」

「……う……マジか……」

このところ、背後霊のように感じる男の名だ。カウンターに突っ伏しそうになりながら、困り顔で保土ヶ谷を仰ぐ。

「……俺、あの人に似てる?」

「全然。だから意外に思っただけです」

あっさり言われて、心なしかほっとした。

「ガヤちゃんは……十条さんと、長いの?」

「約六年てとこです。俺を今の職場に紹介したの、十条サンですから」

「仕事斡旋までやってたのか……どんだけオールマイティーなんだ、あの人……」

「趣味に『ボランティア』って書ける人ですよ」

それが、数十――或いは数百規模の殺しに関わった人物の履歴書かと思うとぞっとするが。

「じゃあ、ガヤちゃんにとっても恩人ってとこ?」

「ええ、まあ……」

頷きながらも、保土ヶ谷の声は浮かない。力也や倉子との違いを感じつつ、ハルトは首を捻った。

「脅迫されてるとかじゃないよな?」

「十条サンは間違いなく恩人です。……ただ、あの人ほど、怖い人も居ないんで」

ぽつぽつと話してくれた内容によれば、保土ヶ谷の両親はサラ金業者に騙され、首を吊る手前まで追い詰められたらしい。その業者をあわやのところで“たまたま”潰したのがBGMであり、十条本人によるものだった。勿論、慈善活動ではない。彼がBGMとして動くときは、決して人助けのつもりではなく、単なる仕事――恐らく、害獣駆除業者など及びもつかない処理感覚でやっている。いっそ、菓子の包み紙をゴミ箱に捨てるより容易く。

しかし、結果的に十条は保土ヶ谷家の借金を帳消しにし、連が協力することを条件に免許を取る資金を提供、一発合格を祝った後、車までプレゼントしてくれたという。

「そりゃあ、オヤジとおふくろは手放しで喜んで拝みましたよ。けど、『親切な人』では片付けられないスよね」

「そう思ったガヤちゃんは賢い。大抵はわかってても丸め込まれる話だ」

かくいうハルト自身、両親の夜逃げが原因で天涯孤独になった身だ。彼らは幼い息子の手を引いて東南アジアまで逃げおおせたものの、ちょうどBGMに狙われていた連中と意気投合してしまい、毒薬入りの酒で眠る様に逝った。当然、酒を飲む筈もなく眠りこけていたハルトは、その作戦を担当していたBGMに拾われ、今に至る。

保土ヶ谷が、似てはいても同じ境遇にならなかったのは幸いだ。

「はは、何て言うんスかね……十条サンみたいな人。リッキーは神様みたいって言うんですが、それもわかるんです。俺は免許取る前から、できることを見抜かれてた気がしますから。運転の素質があることも、協力するってことも」

「……あの人なら、有り得るな」

十代から面識のあるアマデウスでさえ、「トオルはようやく騙されてくれる歳になった」と言っていた。何か、神がかった――否、悪魔じみた才能の持ち主なのだ。或いはあれを、真の天才、またはカリスマと呼ぶのかもしれない。

「ハルさんは、十条サンに心酔してないんスね」

「しないしない。あの人の感性は、俺にはちょっとエグ過ぎる」

「エグイ、か。そうかもしれません」

保土ヶ谷は苦笑して、さららが淹れてくれたコーヒーをぐいと飲みほした。

「俺は、ハルさんの手伝いは喜んでやりますよ。いつでも呼んでください」

仕事用の名刺を差し出し、保土ヶ谷はその歳の若者にしては厳つい笑顔ではにかんだ。

「ありがとう、俺もガヤちゃんが居るのはなんか心強い」

全く年下に見えないところも頼り甲斐がある。保土ヶ谷が席を立ったとき、示し合わせたようにさららと倉子が降りてきた。

「ガヤちゃん帰るの? ついでにラッコちゃん送ってくれない?」

さららはそう言ったが、脇で倉子がもろに嫌そうな顔をした。

「いいよお、さららさん……あたし、一人で帰れるよ」

「でも、だいぶ暗いわ。ラッコちゃん可愛いから、誘拐されたりしないか心配なの」

「平気だってばー。足早いもん」

「確かにイノシシみてえに早えな」

日頃、イタチごっこをしている保土ヶ谷の揶揄に、倉子はぷうっと頬を膨らませた。

「俺は構わねえけど、どーすんだ、倉子?」

「お断りしますうー。ハルちゃん送って!」

やれやれ、と同じような苦笑いのさららと顔を見合わせてから、保土ヶ谷を見送り、ハルトは倉子と裏手の駐車場に回った。さららが言う通り、季節柄、陽が落ちるのは早い。オレンジと濃紺は遠い空の隅に滲んでいる。外灯が点き始める路上の空気は濁って見えた。

「ガヤちゃんイイ男じゃないか。仲良くすりゃいいのに」

「そーお……?」

足元の小石を隅に弾いて、倉子は面倒くさそうに言う。

「ああいうの、男には人気ありそうだよねえー……」

「それが大事だろ。付き合うのはああいうタイプが良いと思うぞ」

大真面目なハルトに対し、倉子はともすれば吐きそうな顔で首を振った。

「げー……ヤダよう。仕事もヤダし、ガサツだし、服ダッサいもん」



「おかえり。ハルちゃん」

倉子を送ってから家に戻ると、姿が見えなかった未春がキッチンに立っていた。

その足元で夕食を心待ちにしている猫たちがウロウロし、テーブルに向かうさららは膝にブランケットを掛け、金の植物に縁取られた便箋を前に手紙らしきものを書いていた。

テレビを見る習慣の無い彼らのこと、いつも静かなリビング&ダイニングだったが……今日は知らない歌が流れていた。

「これ、もしかしてリリー・クレイヴンですか?」

「うん、未春が買い出しついでに買って来てくれたの」

キッチンに立つ背は振り向きもしないが、さりげない気遣いならば女性にも負けない。伸びやかな旋律に、さららはリラックスした様子で頷いた。

「もっと早く聴けばよかった。全米チャート一位の歌声はステキね」

確かに、倉子が言っていた通り、若い女性にしては厚みのある歌声だ。低音はしっとりしているが重くなく、高音は伸びやかに空気を震わし、遠く響く。

「何書いてるんです?」

既に封をされた封筒が並んでいるのを見て、ハルトはいぶかしげに尋ねた。さららはビジネスマンが持っていそうな黒い万年筆を手に、口元を綻ばせた。

「トオルちゃんがやってたクリスマスの寄付に、添え状を書いてるの」

よく見ると、便箋と封筒を彩る金の植物は西洋柊ホーリーだ。大人っぽいデザインの洒落たそれに、彼女の優雅な文字はよく似合っていた。

「そんな予感はしてましたけど……多いですね」

先日、物資の手配をしてきた際も思った感想を口にすると、さららは頷きながら万年筆を置いて腕を伸ばした。いくら筋金入りの慈善事業家でも、既に十を越える行き先は、個人のそれには些か多い。十条は自分でやると言ったらしいが、今は店長の身であるさららが、挨拶するつもりでやると引き受けたそうだ。

「ほーんと。マメよねえ……肩凝ってきちゃった」

「さららさん、休んでメシにしますか?」

未春の声に、するする、と嬉しそうにした彼女は、手早くテーブルを片付けた。

既に、言わなくても何が出てくるかわかる香りが室内を満たしている。

「最低でも、二週に一度は欲しくなるのよね」

そう言いながらさららが両手で受け取るのは、カレーライスだ。いよいよやかましい猫たちにエサを与えつつ、ハルトも頷いた。

「わかります……何なんだろうな、未春のカレーは? お前やっぱ何か入れてるだろ?」

「入れてない」

サラダを出しながら、シェフは素っ気なく首を振る。仰る通り、具は関東ではド定番の豚肉、玉ねぎ、人参、じゃがいもだけ。ルーは二種使われるがこれまた市販のド定番だし、鍋も普通、野菜の切り方も普通、目立った調味料は無いどころか塩もコショウも使わない。さららが飴色玉ねぎと鶏手羽元で作ってくれるチキンカレーも絶品だが、未春のカレー中毒者は総じて言うのだ――「おふくろの味っぽい」と。

「たぶん、永遠の謎よ……私、何度も教わったけど、全然違うのが出来ちゃうの」

「俺もです。十条さんにはひと口で『未春のじゃないね』って看破されました」

「トオルちゃんは末期の中毒者だったわね。ラッコちゃんとリッキーなんて、お母さんのより美味しいとか言ってたっけ」

当の未春は黙々と評判のカレーを口にし、上手くもマズくも見えない表情を浮かべていた。このカレーの師匠が言ったポイントは、実にシンプルなものばかりで、二人にも同じように教えた筈なのだが、どうしたわけだか同じ味にならない。強いて言えば、未春自身も、師匠の味とは少し違う気がしているくらいだ。

――いい? 未春。焦がしちゃダメ。焦がさず、ちゃんと炒めるの。玉ねぎのツンとした匂いが消えたらお水を入れてね。灰汁は丁寧に、でも、取り過ぎないように……――

ちら、とリビングに飾られた写真に目を留める。

十条が居た頃は飾っていなかったのだが、さららが来た時にいくつも飾られた。

少し前に撮った、自分とさらら、十条と、彼の妻にして家事の師匠である穂積ほづみ、その娘の実乃里みのりが写る写真。

そして、ハルトが加わってからのDOUBLE・CROSSの面々が映る写真。

少し前までは “死者”にされていた十条の妻子は、ようやく家族水入らずで暮らしている。

「……さららさん、今年のクリスマスどうするんですか?」

不意に口を開いた未春に、さららは世にも不思議なカレーから顔を上げた。微かに動揺のようなものが過ったが、指摘するほどの変化ではない。

「特に……決めてないわ。リリーの件がどうなるか次第かしら?」

「ハルちゃんは?」

「同じく」

「そう」

「え、何? 未春なんかあるの?」

「そうなのか?」

興味津々の両者と、エサをぺろりと平らげた猫二匹までもが未春を見上げた。

「俺は……」

手元のカレーと、猫と、テーブルを囲むさららとハルトに視線は泳いで……無表情のまま首を振った。

「……別に無いです」

「ええー? 何なのその前フリ!」

さららが我が事のようにガッカリする中、未春はわずかに困り顔を浮かべた。

「二人がどうするのか聞きたかっただけです」

「ふーん……じゃあ、なんかするか?」

「なんかって何?」

「あー……クリスマス会ってやつ? こないだリッキーが来たときみたいのでいいんだろ?」

「あら、いいわね。皆誘って……楽しそう!」

手を叩きそうなさららを静かな目が見て、何の気も無さそうな発案者を見た。

「ハルちゃんがやるならいいよ」



〈ハロー、エロール・フリンです〉

「名乗るならちゃんとれ。元気そうだな、非常勤」

〈お久しぶりです、フライクーゲルさん〉

電話の向こうで、中性的な声が笑った。

「その呼び名はやめろ。留学は楽しいか?」

〈毎日楽しいです。ハードなのも含めて。教えて頂いたお店のリスト、めっちゃ役に立ってますよ。パン屋の『マダム・キャロット』なんて通い過ぎて、顔覚えられちゃった。『Don't be shy, dig in!』って、マダムがオマケをいっぱい詰めてくれるんですよね。ハンバーガーもいいけど、こっちのサンドイッチ旨すぎ〉

「マダムの店は別格だよ、『トリックスター』」

相手はヒヒヒヒヒと、まんま悪の手下みたいに笑った。

先の件での活躍から、清掃員でありながら、アマデウスから「トリックスター」のあだ名を頂いたこの男、茶話明香さわ あすかは、報酬の一つとしてアメリカに短期留学中だった。

アマデウスは『劇場型』――通称ブロードウェイと呼んでいる演技を得意とする清掃員を抱えており、彼らの達人級は別人に成り代わるほどの実力を持つ。役者を目指していた明香は十条に目をつけられ、日本の劇場型清掃員を『アポロ』と名付けて率いている。劇場型としては既に実装レベルの明香だが、そんな彼でも本物の、つまりは真っ当な役者とは確たる実力差を感じているそうで、本場で学ぶのを熱望していた。

劇場型の清掃員が目立つ仕事をすることはほぼ無いのだが、彼はこうなる以前から役者を志している。ひと月に満たない日程だが、憧れのブロードウェイやアポロ・シアター、メトロポリタン歌劇場、カーネギーホール、ボストン歌劇場、アンバサダー劇場などなど……名だたるシアターを巡る他、プロのミュージカル俳優やダンサーを紹介してもらい、交流したり、教えを乞うたという。

「英語はどうだ?」

〈ハルトさんとの特訓で、なんとか。でも皆、演技やダンスには厳しいですが、そういうトコは優しいですよ。困ってることない?って聞いてくれるし、ごはん食べさせてくれたり、送り迎えしてくれたり。ややこしい話はあの人に電話すれば話つけてくれますしね〉

「ジョンか」

〈そう。ハルトさんの親切なおっきいワンちゃん〉

アマデウスの敏腕秘書は、お守りも押し付けられたらしい。あの男のことだ、何を言われようがどっしりしているのだろうが。

〈ところで、ハルトさんが俺に連絡してくるってことは、例の件でしょ?〉

面白そうに言う明香に、ハルトは眉間に皺を寄せた。

「やっぱりお前、リリー・クレイヴンの件、聞いてるんだな?」

〈ええ、一応は。俺も同じ頃に帰国するんですが、店に来るなんて面白そうですよね〉

「言ってくれるな。お喋りなお前に教えてくれたご親切は誰だ?」

〈最初に、ジョンを通してアマデウスさん。トオルさんからも電話がありました〉

フンとハルトは鼻を鳴らした。電話の向こうはくすくす笑う。

〈手伝いが要ります?〉

「いや……こないだガヤちゃんが来てくれたから、こっちも保険掛けとこうと思って」

〈いつでもどうぞ。“誰でもやりますよ”〉

「……俺としちゃ、お前がその歌姫と入れ替わってくる方が嫌なんだよ」

〈あ、そっち? ヤダな~……ハルトさん、俺も信用してよお~……〉

初対面でしっかり騙した相手に、どの口が言うのか。

しかし……明香が同時期に帰国するとなると、十条の電話はその確認だろうか。またこいつに誰かをやらせるつもりなら、身内とはいえ注意が必要だ。

「じゃあ、信用兼ねて聞くが、そっちでリリーを推してるのって、どの層かわかるか?」

〈圧倒的にティーンエイジャーですね〉

全く迷いのない返事に、ハルトは唸った。

「日本の若者が海外人気に乗ったわけじゃないんだな」

〈フフ、日本あるあるの横並びは多少あるっしょ。でも確かに、年齢が上がるほど反応は鈍いです。二十代後半から、好みは割れると思いますよ〉

「……かなり支持層狭くないか? よくトップになれたな?」

〈チャート……ランキングには発表する雑誌によって集計に差があるんですよ。たぶん、リリーを一位にしているのはダウンロード数です。CD発売では低いランクだったのに、ダウンロードが開始されるとジャンプアップするアーティストは結構居ます〉

「なるほど。さすが芸能系……詳しい」

〈一般常識ですよお、センパイ〉

爽やかな厭味に、電話越しに苦笑するしかない。

〈今は十代も普通にスマホ持ってますからね。売上じゃなく、ダウンロードを含む発信力は若い程あるし、広がるスピードも速いんです〉

「言えてるな。既に俺は追いつかない」

〈フフン……でも、さすがはハルトさん、この件が只の護衛じゃないって思ってるんでしょ?〉

「そりゃそうだよ……俺が何者なのか一番知ってる人が連絡してきてるんだから」

〈それが解ってれば、オーライじゃないですか〉

「だといいけど」

ふう、と溜息を吐いて、通話を終えようとしたとき、明香が不意に言った。

〈ハルトさん、俺から一つだけアドバイスがあるんです〉

「は? 何?」

〈ミーくんから、目を放しちゃダメですよ〉

「未春から?」

何故? という問い掛けに、明香は答えない。

胡乱げに見た通話画面は、既に切れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る