34 こんなに静かで穏やかな時間は、なんだか夢のようで……。


「ソティア嬢、その……。よかったら、こちらへ来ないか?」


 ソティアがジェスロッドに呼びかけられたのは、一着分の布地を切り、縫い始めたところだった。


「? はい」


 どこに邪神の欠片が潜んでいるのかわからないので、ジェスロッドのそばにいたほうがよいということなのだろうか。素直に頷き、縫うのに必要な一式を持って、ローテーブルを挟んでジェスロッドの向かいのソファーに移動する。


 二階では聖獣の館を辞去する令嬢達が侍女達に荷造りをさせているので騒がしいはずだが、ユウェルリースの私室は静かなものだ。


 ジェスロッドが紙をめくるかすかな音と、ときおりペンを走らせる音しか聞こえない。


 ちくちくと針を動かしながらソティアは向かいのジェスロッドにちらりと視線を向ける。


 ゆったりとソファーに身を預け、真剣な顔で書類を読むジェスロッドは、見惚れずにはいられない凛々しさだ。


 服装は国王という地位から考えると質素なものだが、腰にかれた黄金づくりの聖剣ラーシェリンが威厳をさらに引き立てている。


 書類にそそがれた黒瑪瑙のまなざしは真剣そのもので、ジェスロッドが国王という責務に真摯に取り組んでいるのだと、見ただけでわかる。


「どうかしたか?」


 視線に気づいたジェスロッドがふと顔を上げる。


 ソティアは自分が無意識にジェスロッドに見惚れていたことに気づいた。


 書類から顔を上げ、ローテーブルに置いていた紙に何やら書きつけようと身を乗り出したジェスロッドが、不思議そうな表情でこちらを見ている。


「い、いえっ! その……っ」


 ジェスロッドが凛々しくて見惚れていたなんて、口に出せるわけがない。ソティアはあわてて言いつくろう。


「こんなに静かで穏やかな時間は久々で……。なんだか、夢のようで……」


 上質な調度品に囲まれた部屋で凛々しい青年国王と差し向かいに座っているなんて、半月前には想像もしていなかった。


 婚約を破棄され、『かかし令嬢』と嘲笑されていた自分は、このまま小さな町で家族の世話をして老いていくのだと。


 家族のことは大切で大好きなので、その生活に不満はない。


 だが、いまはまだ『ねえさま、ねえさま』と慕ってくれる小さい弟妹達がいつか成人し、実家を巣立っていく日のことを考えると、自分ひとりだけが取り残されてしまうのではないかと、心の奥底ではずっと不安を感じていた。


 聖獣のお世話係に応募したのは、もちろん高給に惹かれたからではあるが、同時に、自分が家を出てどこまでできるのか試したかったからだ。


 王城で勤めたというはくがつけば、家を出ても雇ってくれる先があるのかもしれない、と。


 それがまさか、国王陛下と言葉を交わし一緒の部屋で過ごすという、夢みたいな事態になっているなんて。


 呆れられるかと思いきや、ジェスロッドから返ってきたのは柔らかな笑みだった。


「確かにそうだな。ユウェルが赤ん坊になって以来、騒がしい日が続いていたが……。こんな穏やかな時間を過ごせるとは、俺も夢にも思っていなかった」


 包み込むようなまなざしを向けられ、ぱくりと鼓動が跳ねる。


「幼いころから邪神に対するためにずっと気を張って生きてきたからな、なんだか不思議な気分だ」


 そう告げるジェスロッドが浮かべる笑みは優しく、どこか甘やかで……。


 微笑みかけられるだけで、ぱくぱくと心臓が早くなってしまう。


 国王というローゲンブルグ王国最高の地位というだけでなく、凛々しくたくましいジェスロッドは、そばにいるとくらくらと気が遠くなりそうなほど魅力的だ。令嬢達がジェスロッドの隣に並び立とうと躍起やっきになる気持ちもよくわかる。


 単なるお世話係にすぎないソティアは、ユウェルリースのためとはいえ、そんな自分を側近くに置いてくれるジェスロッドの寛大さに感謝するほかないのだが。


 と、こんこんとかすかなノックの音が鳴る。


 いったい何だろうか。ユウェルはぐっすり眠っていて、まだおやつの時間ではないし、何か問題でも起きたのだろうか。


「確認してまいります」


 立ち上がろうとすると、ジェスロッドに片手を上げて制された。


「いや、よい。俺が頼んでいたものが来たようだ」


 ジェスロッドの許可に応じて、盆を持った侍女が入ってくる。ジェスロッドが書類の束を脇へよけたのに合わせてソティアも裁縫道具を脇へやると、侍女がローテーブルの空いたところに置いたのは、湯気の立つ紅茶のカップと、上に桃のシロップ煮がのせられ、たっぷりと蜂蜜がかけられたパンケーキの皿だった。


 しかも、ジェスロッドとソティアの前に、ひとつずつ。


「あ、あの、陛下……?」


 侍女が退室し、テーブルの上の皿とジェスロッドの顔の間で視線を行ったり来たりさせながら戸惑っていると、ジェスロッドがこらえきれないとばかりに吹き出した。


「すまん。だが、きみが素直に感情を出しているさまを見るのは心楽しいな。もっと見てみたくなる」


 悪戯っぽい、けれどもどこか甘い笑みをこぼしたジェスロッドが、剣だこのある手でローテーブルの上を示す。


「さあ、食べてくれ。昼食の時はユウェルが騒いだせいで、ゆっくり食べられなかっただろう? クッキーを食べていた時の様子から、甘いものは嫌いではないと踏んだんだが……。気に入らなかったか?」


「いえっ! とんでもありませんっ!」


 不安もあらわなジェスロッドの表情に、反射的にかぶりを振り、自分の声の大きさにあわてて両手で口を押さえる。ユウェルリースを起こしてしまったら大変だ。


「気に入らないなんて、とんでもございません。それよりも、お世話係にすぎない私などが、こんな立派なものをいただいてもよいのかと、それが不安で……」


 声を落として、胸中の不安を吐露すると、


「いいに決まっているだろう」


 と力強い声が返ってきた。


「エディンスも言っていただろう? ユウェルに必要なものは清らかな乙女の愛情だと。ということは、きみが幸せであれば、その分ユウェルにもさらに深い愛情がそそがれるということになるだろう? そう考えたんだが、違うだろうか?」


「いえ……っ」


 生真面目な表情で問われ、ふるふるとかぶりを振る。


「陛下のおっしゃるとおりだと思います。母親に余裕がないことには、子どもを可愛がりたくても心や身体がついてこなくて、なかなかうまくいかないこともあるでしょうから……」


 ソティアの義母がそうだった。産後の肥立ひだちが悪く、赤ん坊の世話をするのが大変そうだった。


 見かねてソティアが手伝ったのが、弟妹達の面倒をみるきっかけだったのだが、義母はソティアが何度気にしないでほしいと言っても、いつも申し訳なさそうだった。


 自分が産んだ子を自分で面倒を見られないことに不甲斐なさを感じていたのかもしれない。


「陛下のお考えは素晴らしいことこの上ないですが、私にお気づかいは不要でございます。私は健康に恵まれておりますし、愛らしいユウェルリース様のお世話をさせていただくのは、とても幸せでございますから。ユウェルリース様のお世話係に採用していただいて、本当にありがたいと、お礼の申し上げようもないくらい感謝しているのです」


 ソティアがどれほどいまの仕事に満足し感謝しているのか、少しでも伝われば嬉しいと、にっこりと微笑んで告げると、ジェスロッドが小さく息を呑んだ。


「そう、か……。きみが満足しているのなら、俺も嬉しい」


 みしめるように呟いたジェスロッドが、不意にいたずらっぽい笑みを浮かべる。


「……が。実は、侍女にこれを持ってこさせたのにはひとつ理由があってだな……」


 思わせぶりに告げたジェスロッドが、ローテーブルの上に身を乗り出す。


 重大な秘密を打ち明けるような声をひそめた物言いに、ソティアも思わず前のめりになった。


 ジェスロッドが凛々しい面輪に真剣な表情を浮かべて、ソティアを見つめ。


「実は、こう見えて甘いものが好きなんだが、侍女達に知られるのは気恥ずかしくてな。前はユウェルを口実にしていたんだが、赤ん坊になってしまったこの状況では使えん。すまんが、ソティア嬢。俺が甘いものを食べる口実になってくれるか?」


 くすり、とジェスロッドが悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「まぁっ、陛下……っ!」


 思いがけない告白に、すっとんきょうな声が飛び出す。


 まじまじと見返すと、ジェスロッドは悪戯が成功した子どもみたいな顔をしていた。つられたように、ソティアも口元が緩むのを感じる。


「かしこまりました。そういうご事情でしたら、謹んで口実役を承ります」


「ああ、助かる」


 身を起こしたジェスロッドが嬉しげに顔をほころばせた。そんな表情をすると、一気に親しみやすい雰囲気になる。


「というわけだ。さあ、冷める前に食べよう」


 うきうきとフォークとナイフを手に取ったジェスロッドが、ソティアを見て、もう一度くすりと笑う。


「もちろん、ユウェルには内緒だぞ? あいつが知ったら、欲しがるに決まってるからな」



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