月の凪ぐ海
夜海ルネ
一章
おもしろいこと
放課後、旧校舎の音楽室でピアノを弾くと幽霊が出る。
そんな噂が流れ始めたのは、五月に入ってすぐのことだった。クラスメイトとあまり関わりを持たない俺が耳にするほど、その噂は学校中に拡散していた。
旧校舎の音楽室。いかにもな雰囲気がする。オカルト的なのものを信じたことはあまりないが、ピアノを弾く身として気にならないこともない。
数年前、この高校の校舎は新しくなった。その関係でもともとの校舎は“旧校舎”とされ、音楽室や化学室、教室もそのままの形で取りのこされている。そんな旧校舎も、俺たちの卒業する年には取り壊されるらしい。
そんなことを考えながら、俺は本当に旧校舎の音楽室の前にまで来てしまっていた。戻ろうか、そんな考えが一瞬頭をよぎったが、ここまできて引き返すのもどうかと思い直す。
放課後、旧校舎の音楽室でピアノを弾くと幽霊が出る。
この気味悪い噂の真偽を確かめるには、実際に自分が体験することだ。そう思って俺は、音楽室のドアを開けようとした。そのとき──。
俺は、ハッと息を呑んで手を止めた。扉の向こうから静謐に、だがたしかな調べがさざなみのごとく押し寄せてくる。
磁石の力に引き寄せられるように、俺はほぼ無意識に扉をあけた。引き戸式のドアは建て付けが悪く、ガタガタと音をたてる。
扉が開いた、その隙間から。障壁に遮られていたピアノの歌声が衝撃波のように耳に飛び込んできた。
遅れて、艶やかに黒く光るグランドピアノを弾くのが彼女であることに気づく。
「白石……?」
演奏は、ピタリと止まった。それと同時にピアノの前に座る
「な、なんでここに人が……」
それが、俺がクラスの人気者と交わした初めての会話だった。白石は椅子から立ち上がり、俺の方にやってきておずおずと口にする。
「えっと、あれだよね。同じクラスの、あの……」
まあ、クラスの美少女がモブの名前を覚えていないなんてことは、ザラにある。
「
「そ、そう! 黒木くん。忘れてたわけじゃないよ? ただ、ほらあるじゃない。人の名前が咄嗟に出てこないとき」
たしかに人の名前が咄嗟に出てこないことというのはよくある。だけどさすがにちょっと、目の前の彼女の口から出る言葉は胡散臭さを帯びていた。
「いや、別にいいよ。名前覚えられてないなんて、そう珍しくないし」
俺が言うと、白石は申し訳なさそうに肩を落とした。誤魔化すのはやめにしたらしい。
「あ、そうだ。えっと、黒木くんはどうしてここに来たの?」
彼女はどうやら、それが気になっているらしい。手を後ろで組んで、なんかちょっともじもじしている。
「あ、噂……旧校舎の音楽室でピアノを弾くとってやつ。あれ、気になって」
隠すことでもないなと思い正直に白状すると、彼女は一瞬俺の目を見て、そしてなぜだか俺には、少し得意げにほくそ笑んだように見えた。
「幽霊の噂か。そっか。あの噂、実はね」
────私が流したの。
開け放たれた窓から、五月の風が吹き込んできた。目の前で白石が、イタズラを成功させた子どもみたいにふふふっと目を細める。
「ねえ、噂が気になったってことは、黒木くんピアノ弾くの?」
硬直する俺を尻目に、白石は流れるように言葉を並べる。
「そういうこと、だよね? 自分で確かめにきたんでしょう? 意外と度胸あるんだねぇ」
「……白石の」
唇の隙間から、吐息みたいに歪な声が漏れる。
「幽霊の噂は、白石の作り話なのか?」
俺は尋ねた。彼女は少し黙って、だけどすぐに口を開く。
「半分ウソだけど、半分ホント」
相変わらず、白石は朝靄みたいなうっすらとした笑みを浮かべて言った。
「放課後の音楽室っていうのは、私が勝手に脚色したの。実際は、“旧校舎の音楽室には、幽霊が憑いている”」
音楽室に、幽霊が取り憑いている。それが、人の口を巡って形を変えた、噂の正体なのだという。
「それ、本当なのか……?」
「どうだろう。黒木くんはどう思う? 幽霊とか、信じる?」
少し考えて、いいやと首を振ろうとした。それよりも先に、彼女は言った。
「私はね、信じる。だって……ほら、君の後ろ」
そうして、俺の背後をそうっと指差した。俺はゾッとして、ゆっくりと顔を後ろに向ける。
するとそこには──。
「へへっ、なんちゃって」
誰も、いるはずがなかった。
「おい、人をおちょくるなよ!」
「ごめんごめん。反応見たいなって、気になっちゃって」
白石は「はははっ」と屈託なく笑いこける。からかわれて多少イラッとしたが、まあ許容範囲だ。俺は自身のことを寛容だと自負している。
「まあ、実際には何も起こらないよ。私よくここでピアノ弾くんだけど、幽霊にはお目にかかれてないし」
ふうっと肩をすくめて白石は言った。それならなぜ、彼女はわざわざ噂にトッピングを足したのだろう。
その真意を問おうとすると、ビュオオオと勢いよく風が吹きこんできた。思わず目をギュッと閉じ、風がおさまったのを確認してから開けると。
そこには、白石ともう一人、彼女にそっくりな少女がいた。
「えっ……」
俺は目を見開いて、白石の隣に立つその少女を見つめた。顔も、背格好も、着ている制服も似ている。俺は生まれて初めて、ドッペルゲンガーというものを見てしまったのかもしれないと思った。
「白石……隣」
「え? 隣って何。さっきの仕返しのつもりなら、そうはいかないよ?」
白石はヘラヘラっと言って俺の視線を追いかけるが、彼女には見えていないのだろうか。
「隣、白石みたいな人が、立ってる」
「え……?」
俺があまりにも顔面蒼白だったからなのか、白石はようやくその表情をこわばらせた。
「ホントに?」
俺がコクコクッと頷くと、彼女もサッと血の気を引かせたようだった。
俺がまばたきをすると、気づけばその少女の姿はなかった。幻覚、だったのだろうか。
「き、えた」
俺が言うと、白石はほっと胸を撫で下ろすような仕草をしたあと、なぜかじっと睨んできた。
「うそだ。最初からからかってたんでしょ」
「ち、違うって。ホントにいたんだよ! 白石とそっくりな子が」
もしかして俺には、霊感があるのだろうか。そんなことを思っていると、白石がなぜか俺に一歩近づいて、言った。
「ねぇ、黒木くん。おもしろいことしてみない?」
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