第15話 重なる世界(3)

 九年前の事故の直後、トワは生まれた。

 本となったイツカを引き取った彩咲クオンは夫エイゴウと共に日本に帰った。

 アリスは事故前後の記憶がないことを除けば、身体的異常は『その時は』見られなかったため、そのままノルウェーに残り、オルラトル町立図書館に勤めることになった。

 イツカがまともに話をできるようになったのは、日本に帰って数年は経ってからだった。

 始めはその本にイツカの魂ともいうものが存在しているということだけが確かで、全く話すことも聞くこともできなかった。

 人間としての身体を失い、五感を自ら生み出した知覚機能で代替するのには相当のリハビリを要した。それはその本の中に残されていたコードがあったからこそ可能であった。

 不思議とそのコードはイツカとトワが一緒にいる時のみ発現したため、クオンは常に二人を一緒にいるように育てた。

 そしてトワが六歳になる頃、彼女は魔法司書に目覚めた。



「あー! まただめだー!」

 古い木造家屋の畳の間、黒い着物姿の幼い少女が投げやりな声を上げて、畳の上に仰向けに身を投げる。もう何回も失敗した末のことだ。

 見上げると古い木の天井に雨漏りで出来たシミが見える。

 そして小さな青い粒が雪のようにゆっくりと降ってきて頬に触れて消える。

「焦るこたぁないよ。ケイちゃんも最初はそんなもんだったらしいぞ」

 畳の間の襖の先から見える後ろ姿の白髪の老人が、顔だけ振り向いて笑う。


 季節は冬、東京都千代田区神田神保町にある柳葉書店。

 創業五十周年を迎えるこの古書店の奥の部屋で、齢六歳の彩咲トワはエーテライズの練習をしていた。

「ケイちゃんが最後にうちに来たのは七年前だったか。久しぶりに日本に帰ってきたと思ったら、魔法使いになりましただからな。たまげたもんだ」

「にゃー」

 店主、柳葉キクヲは客がいないのを確認して部屋に入ってくると、ふてくされて口を尖らせるトワにおどけて見せる。こたつの上のデューイが呑気な鳴き声を上げる。

 キクヲはケイやクオン、アリスとは古い馴染みで、まだ高校生だった彼女らが放課後にこの古書店に入り浸っていた頃からの付き合いだ。

「おめえもできたんだろ? 何かコツとか教えてあげろや」

 そしてトワの左手の下の赤い本に話しかける。

『……ちっ』

 ほとんど聞こえないくらい小さな声で舌打ちをする本――イツカであった。


解本リベーレ!」

 しばらくごろごろした後、再びやる気を奮い起こしたトワがエーテライズを開始する。

 右手の平の上に乗せていた小さな文庫本がふわりと浮かび、青く輝き始める。もう十数冊目だ。損傷が酷く処分する予定だった古本をもらって練習しているため、再構成に失敗して消失しても問題はないのだが、やはり良い気分ではなかった。

時間タン――」

 トワは目を瞑って意識を集中させながら解けていく本のイメージを頭の中に描く。本の書誌情報はイツカから引き出し済みだ。あとはその通りに再構成するだけでいい。

空間エスパス――」

 その本が存在する『今』を規定し、この『場』に固着させる。内容は書誌情報通りに構成すれば新品同様に再構成することが可能――のはずだった。

「!」

 トワの手の平の上でまとまりかけた無数の青い糸が突然弾けて、散り散りになって解けていく。

「もう! なんでなの?」

 トワは再び両手を振り上げて仰向けに横たわる。

 青いエーテルの粒子がゆっくりと畳の上に落ちて消えていく。

「うーむ……」

 腕を組んでその一部始終を見ていたキクヲが声を上げる。彼にも原因は皆目見当もつかなかった。

「ぶー。やっぱむりだよぉ」

 トワは頬を膨らませてぶー垂れながらまた畳の上をごろごろと転がる。


『……足りてねえ』

 ふてくされて横たわるトワに、畳の上に放り出されたイツカがぼそりと呟く。

「――え?」

 トワはごろりと身体の向きを変えてイツカの方を見つめる。埃っぽい畳の匂いがした。

『時間と空間、そして書誌情報の結びつきがまるで出来てねえ。それじゃただバラしてるだけだ』

 顔を畳の上に乗せたままじっと見つめているトワに、イツカはめんどくさそうに答える。

「どうすればいいの?」

 トワは横たわったまま腕を伸ばし、イツカを引き寄せる。

『自分で考えろ』

 だがイツカはばっさりと切り捨てる。

 エーテライズのやり方は個人差が激しく、正解と呼べるやり方は存在しないのだ。イツカも出来たとは言え、それは人間の身体だった頃の話で、どうやっていたのか今のこの本の身体ではどうしてもはっきりと思い出せなかった。それが余計に苛立たせた。

 この時間と空間と書誌情報を呪文のような言葉で結合させるやり方も、母相馬ケイから最初に教わったやり方の受け売りにすぎない。

「あー! もうやめたー!」

 トワは立ち上がると両腕を上げて伸びをする。そしてわざとらしい声を畳の上のイツカに投げかけると、どんどんと足を踏みならして部屋を出て、店の入口に向かう。

「やれやれ……」

 キクヲはその背を見送りながら溜息をつくと、イツカをひょいと拾い上げる。

「いつもこんな調子なのかい?」

『……』

 イツカは答えなかった。

「まあまだ六歳の子にいきなりやれってのも無茶な話だな」

『……あいつはわがままだ』

 キクヲがイツカをこたつの上に置こうと身を屈めた時、イツカはぼそりと呟く。デューイは今にも飛びかからんとばかりに目を光らせている。

「どこがだ?」

『人間としてものを見て、聞いて、触れて、感じて、それがどれだけ幸せなことかわかっちゃいない』

 イツカは愚痴りだした。キクヲとは日本に帰ってきてから知り合ったが、今ではすっかり何でも言い合える仲になっていた。いつも一緒にいるトワやクオンにも言えないことも、この好々爺にはつい話してしまう魅力があった。

「そりゃそうだ。おめえの方がレアケースだ。けどそりゃただの嫉妬だ」

『そんなんじゃっ……』

 イツカは言いかけて黙る。図星だった。この身体になってからいつもトワに劣等感をもっているのは事実だった。

「いいじゃねえか嫉妬結構。そんな姿になってもちゃんと人間だってこった。あの子を見て何でそう思っちまうのかはわかるだろ?」


『くやしいからだ!』


 イツカは即答する。人間の身体を取り戻し、トワと対等に競い合うこと。それこそがイツカの願いであり、唯一の生きる希望であった。

「だったらパートナーとはちゃんと向き合わなきゃな」

 キクヲはそう言うとイツカをこたつの上に置いて、トワの後を追って部屋を出て行った。

『あっ、おい待て』

「にゃー!」

 まだ愚痴り足りないイツカが口を開くや否や、待ってましたとばかりにデューイが飛び乗り、イツカにちょいちょいと腕を伸ばしてじゃれ始める。

『……お前は気楽そうでいいよな』

 イツカは呆れ声を上げると、その闖入者の相手を始めた。

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