回演

崎川忍

第一話 隣の川中

 机の脚の大合唱を終え、自分が変な場所にいるような感覚のまま辺りを見渡す。ありえねー、うちの班、最悪だ! お前、この位置だと授業中眠れないな? 騒ぎ立てるクラスメイト。担任の多田がずっと、静かにー、静かにー、と通らない声で注意し続けている。

 前の席の米澤がにやにやしながら俺の机を叩いてきた。


「ご愁傷さま、小谷!」


 卑屈な瞳の透けた分厚い眼鏡に、俺と隣の女の影が反射する。左に視線を移すと、終始俯きっぱなしの女の輪郭だけが見えた。二つに結った赤茶色の髪の毛が、ヘアゴムの隙間から数本飛び出している。


「まーたこいつと隣なのかよ。運悪いな」


「終わってるわ。おい委員長、お前どういう魂胆だ」


 席を決めたクラス委員を責める。彼は「ごめぇん」と謝罪しながらも愉しげだ。俺はぎいぃっと大きな音をたてて、自分の机を右の方向へずらした。

 周囲は興奮からさめて静かになりつつあった。俺の机の位置に気づいた多田が注意をしてくる。俺は無視を決め込む。その態度に腹を立てた多田の、一際大きい声が教室に響いた。


「小谷! 机を戻しなさい」


「……だーって、多田センセー」


 クラス中の視線が俺のところに集まる。俺は親指で左隣を指し、


「この席、川中さんが喋んないからつまんないんだもん」


 俺の演技にどこからか小さな笑い声が起こる。前を向いた米澤も微かに肩を揺らしている。多田はため息をつき、何事もなかったかのように黒板の席替え表を消し始めた。

 左隣の輪郭は一切変わらず、その結んだ髪の先さえも動きはしなかった。


 給食の時間になり、生徒は規則通り机を向かい合わせにして「班のかたち」になった。当番が牛乳を三つ、ストローを三つ、パンを三つとそれぞれ一人分少なくこちらの班に置いていく。「いただきます」の号令があって俺たちがパンに口をつけた時、川中はようやく立ち上がって自分にだけ配られなかった給食を取りに行く。食事中、川中は何も喋らない。みんなが食べ終えると、誰かが「今日のMVPどうする?」と聞く。俺は決まって悩んだフリをし、班の奴らに告げる。


「やっぱり川中じゃね? 今日もある意味目立ってたじゃん!」


 MVPは班の皿を全員分片付ける義務がある。俺たちは自分の使い終えた皿を次々と川中の机に置き、昼休みに入る。一人で給食ワゴンに皿を重ねる川中の横で、多田はちんたらと給食を食べている。

 これが俺たちの日常。

 花殻居内中学校三年二組の日常だった。


 放課後になると、多田の化粧で隠しきれなかった皺が目立ち始める。ホームルームが終わり、みんなが友人とだらだら帰りの準備をする中、川中だけがさっさとピンク色のリュックサックを背負って教室から消えるのを、おそらく誰も気にとめていない。

 俺は部活の時間まで友人の百田と談笑する。百田はサッカー部員で、日に焼けた肌に綺麗な白い歯がかっこいい、と女子から人気があった。肌が白くて長髪の俺は百田と対照的だったけれど、今までに貰ったラブレターの数なら俺の方がわずかに上回っていた。

 そろそろ行くか、じゃあな。百田はそう言ってエナメルのバッグを右肩にかける。サッカー仲間を引き連れて更衣室へ駆けていく、その健康的な横顔が羨ましかった。


 三時四十分。頭が重たくなる。


 美術室のドアを開けると、無駄に広い教室の真ん中で一組の部員が一年とカードゲームをしていた。女子の姿はない。

 戸棚を開け、乱雑にしまわれたクロッキー帳の中から自分のものを取り出す。落書き一つない綺麗な表紙が、逆に目印になっている。ピンクのロゴ入りの汚いクロッキー帳が手の上に倒れかかった。俺はぴしゃりと戸を閉める。


 黒板には『本日 五時まで』の文字。見慣れた不格好な女の字。俺は隅っこの机に頭を乗せて、横向きの美術室をぼんやり眺める。長い前髪がクロッキー帳の上でがさがさと鳴る。

 グラウンドで響くホイッスルに、百田の楽しそうな顔が浮かんだ。


「小谷ー」


 甲高い声がして、廊下から顔だけを出す部員の道原と目が合った。


「部長が呼んでる」


 俺はわざと気だるそうに「なんの用で?」と聞いた。少し考えてから、道原も同じトーンで「なんでも」と答える。


「俺、パシリじゃねーんだけど」


「だよねえ、ははは」


 全く笑っていなかった。少し怖くなって立ち上がった俺の顔を、道原はむっとした表情で見上げる。


「でも、行ってあげるんだよね」


「俺、優しいから」


「ふうん」


 廊下はいつの間にか大量のポスターで埋め尽くされている。その先で、女子部員たちが椅子に乗ったりセロハンテープをちぎったりしながら、せっせとそれら一枚一枚を貼りつけようとしていたのだった。


「なんで他の奴らも呼ばなかったの?」


 それは純粋な疑問だったけれど、道原はむすっとしたまま何も言わず作業を手伝い始めた。

 ……しばらく経ってから、ようやく口を開く。


「わがままなの。部長のね」


「えーっ」


 誰もがその大袈裟な声に手を止めた。振り返った先でその声の主が、段ボール箱のガムテープをころころと揺らしながら口をぽっかりと開けていた。

 その場に僅かな緊張が走る。あんなに不機嫌そうだった道原さえ表情を作り直し、わざとらしい微笑みを浮かべる。


「私のわがままだったの? 一夏」


「え……いや、わがままっていうか……」


「私、部員たちのこと考えたつもりだったんだけどなあ」


 胸にこつん、と固いものが当たる。ガムテープだった。そいつは俺に乱暴な物の渡し方をして通り過ぎ、「だって、」散らかったその場を軽やかに歩き回った。


「他の男子は修学旅行のしおりの挿絵とか、みんなそれぞれ仕事を分担してやってるでしょ。でも小谷は今年入部したばっかりでそういうの難しいみたいだから、ずっと暇しちゃってて、可哀想だなって思ったの」


 ずっと暇しちゃってて、の辺りで、俺はもう俯くしかなくなっていた。首筋が熱くなる。みっともなく押し付けられたガムテープを握りしめる俺には見向きもせず、そいつは言い終えると「はい、じゃあ作業再開!」と張り切りだした。


 顧問の合羽がポスターの点検をし、美術部の仕事は終了となった。

 汗を拭う。労働をした割にかいたのは嫌な汗だけだ。解放された部員たちが次々と帰る支度を始める中、一人だけ廊下を見上げていたあいつが「あっ」と声をあげて壁の高い位置を指さした。


「あそこ、剥がれかけてる」


 もう椅子や机は片付けた後だった。うわあ嫌だ、面倒くさい、と口々に文句を言いだす女子部員。見かねた後輩が椅子を運ぼうとしていた時、ふいに、ぞくりと背筋を冷やすような視線が俺の襟元へ注がれた。

 挑発的な視線。不吉な夜道の猫の視線。冷たいのに熱を帯びた視線。どう例えても足りないような、距離感が掴めないその目を向けられる時には、決まって良くないことが起きる。

 嫌な予感に身を強ばらせる俺をせせら笑い、あいつは「大丈夫!」ととびきり明るい声で周囲に宣言した。


「小谷が椅子になるから!」


「あ……え……?」


 俺の反応を見て少し驚いたので、どこに驚く要素があったのか分からず余計に頭が混乱する。


「え、私たちの椅子になれないの? 小谷」


「な……なれないっつーか、なりたくねえよ……」


「えー、それが仕事でも?」


 口を結んで深く頷く。するとあいつの表情からは女の子っぽい柔らかさが消え失せ、一気に凍てつく蝋人形の顔つきに変わった。その変貌ぶりは骨格さえ別物に見せるほど極端で、俺は恐ろしさからついイエスと言ってしまいそうだった。


「じゃあ、小谷には何が出来るの? 絵も描かなければ仕事もしない、部員とも打ち解けずにひとりぼっちで……」


 心臓が変な位置で鳴っている。あいつは一歩ずつ歩み寄って、もはやこいつと呼ぶべき距離にまで来ていた。後輩の不安げな表情が視界に入る。

 細いため息混じりに目の前の女は言い放つ。


「椅子以下」


 俯く俺にもう一度言い聞かせる。


「椅子、以下」


「……………………」


 おーい、時間だぞ、合羽が部室から声をかけ、それに合わせて女子部員はぞろぞろ戻っていく。俺の首筋はまた羞恥に火照りだした。女子にあんな風に罵倒され、失望され、哀れみの視線を受けて、…………

 この俺が。

 クラスメイトが見ていたらどう思うだろう。そこまで考えて胸に焼けるような痛みを覚えた。


 けれど、こいつは実際クラスメイトなのだ。日誌に必要事項を記入し、支度の終わった部員を集めて教卓の前に立つ。合羽の隣で流れるようにお決まりの台詞を吐く。


「今日もお疲れ様でした。明日の活動もいつも通り、五時までです。何か質問はありますか? じゃあ、気をつけて帰ってください。さようなら!」


 天真爛漫な女子中学生の顔。そこにさっきまでの冷酷さはない。みんなの部長。部員の中では比較的真面目で大人しくて、優しくて、悩みなんて一つもないようでいて、思考が読めない美術部の部長。

 部活の時だけ生き返る女。

 三年二組では死んでいる女。

 美術室の女王。


 川中花南。


 俺は、ここでは彼女に逆らえない。

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