幸せで飯を喰う女×不幸で飯を喰う男の1LDK

長久

第1話 異常に几帳面な男

 勤務している救急科の集中治療室――ICUにて、俺は女性患者のベッド横に立つ。

 俺は医者として状態を直に見たい。

 患者から生の意見も聞けるしな。


 状態はどうかと患者に尋ねながら、カートの上に載せた消毒セットの準備を進める。

 すると患者が突如俺に身を寄せ、声を潜めながら話しかけて来た。

 人目を忍ぶような仕草だ。


みなみ先生、こちらを……」


 ベッドとフレームの隙間から患者が封筒を取り出した。

 目立たないように、俺の着ているスクラブへ突っ込もうとしてくる。


 ――そんな患者の手を、俺はサッと避ける。


「先生、これは気持ちですから」


 なおも諦めず、俺のポケットへ向け手を伸ばしてくる。

 患者の素早い動きに、思わずチッと舌打ちをしそうになってしまう。


 俺はまたしても手を避け――患者の手をベッドへと強く押さえつけた。


「せ、先生?」


 袖の下、賄賂。


 言い方は様々だが……賄賂というのは、大きな利の為にする反倫理的行為の1つだ。

 医者をしていると、頻回に遭遇する場面だ。


 俺の所属する東林大学病院とうりんだいがくびょういんでも、表向きは袖の下を禁止している。

 発覚した時には罰する法人も、最近では出て来たらしい。


 だが、医師への袖の下というのは、古くから続いていた悪しき風習だ。

 そう簡単に撲滅ぼくめつ出来る物でもない。


 明確な線引き、ルールを作った所で、それを全員が守る訳ではない。


 しかし残念なことに――人とは己の利害を考え、行動に移してしまう愚かな生き物でもある。


 それは時に、社会通念上の常識や倫理に反する行為にまで及ぶ。

 特にそう、自分が不幸に陥っており、更なる不幸になるかもしれないと追いこまれている時は尚のことだ。

 非倫理的行為への心理的壁は追いこまれることで取り払われ、易々と実行へと移される。


 人道にもとる、あるいは倫理に反した行いだと頭で理解はしていても、己の利や安全を確保出来るのならば仕方ない。そう皆が妥協してしまう。


「……良いですか、よく聞いてください」


 戸惑う患者の目を見据え、重々しく口を開く。


「貴女が俺に袖の下を送ることのメリットは、安心を買えることでしょう。ましてや、集中治療室での治療が落ち着き、これから骨折の手術があるのでは、不安も強いはずです。唯でさえ、貴女は交通事故による出血性しゅっけつせいショックで死の恐怖を知った。少しでも良い治療を受けられるよう便宜べんぎを図ってくれと金銭を渡すのは、安心感に繋がる行為かもしれない。これが貴女の得るメリットです。そして俺のメリットは、出所不明でどころふめいで非課税の金銭を一時的に得られる」


「えっと、不安なのもありますが……。先生には、救急搬送された私の命を救って頂いたので。お礼にと――」


「――でしたら、余計にこれは仕舞うべき物です。俺のデメリットに触れます」


「デメリット、ですか?」


「ええ、そうです。この封筒を俺に渡したとしましょう。貴女のデメリットは、自身の大切に貯めてきた金銭を失うこと……だけではない。入院規則を破ったことで、強制退院や厳重注意を受ける場合もある」


「え、ええ!?」


「それだけではない。紙幣しへいとは製造以後、洗浄されることもなく人の手を渡って来て、かなり汚れている。ウイルスや細菌のパラダイスだ。貴女は交通事故の外傷で皮膚がめくれている。皮膚とは感染予防かんせんよぼうに重大な役割をしているんですよ。もし、傷口に細菌やウイルスが入れば、感染により病状の悪化もあり得る」


「そ、そんな!?」


「これが貴女のデメリットですよ」


 ここまで言えば、一先ず大丈夫だろう。

 抑えつけていた手を離す。


 俺はその感染リスクというデメリットを減らす為に、傷口の洗浄と消毒を行いに来たのだ。

 そんなことになれば、俺が来たのは無意味どころか逆効果。

 医者失格の詐欺師ではないか。


 傷を覆っていた被覆材ひふくざいを剥がすと、患者が痛みに顔を少し歪める。

 だが洗浄をおこたり感染すれば、もっと苦しむことになる。

 構わずに水や消毒剤を科学的根拠に基づく適正な必要量用意し、適切に処置を進める。


「そして俺が受けるデメリットは、更に大きいんですよ」


 涙目の患者へ先ほどの話を再開する。


 処置も一段落して、落ち着いて話せる環境になったからな。

 重要な話は、キッチリと意味まで伝えられねば無意味だ。


「医者がインテリヤクザと揶揄やゆされているのは、ご存じですか?」


「い、いえ……。暴力団、なんですか?」


「違います。そう言う意味ではないです。仲間意識の高さと、派閥の戦いから、ですよ」


「あ……。やっぱり、そう言うのはあるんですか。ドラマの世界だけじゃなかったんですね」


「大抵のテレビドラマは、実情よりも綺麗で優しく描いていますね。自分の所属する医局いきょく学閥がくばつによる仲間意識と助け合い、そして争い。これこそ、医者がインテリヤクザと言われる所以です」


 目に力が籠もってしまった。

 女性患者は俺と視線を合わせるのが怖くなったのか、キョロキョロと目を揺らしている。


「俺が受けるデメリット。その1、病院内で懲罰委員会ちょうばついいんかいにかけられれば、俺は様々な人に攻撃される弱味を与える。病院医局内での地位、そして学閥や医療従事者全体からの信頼まで喪失そうしつする。その2、目の前の金に目が眩み、医師免許を失効する可能性。つまり、俺の夢が絶たれる。苦労して医者になり、叶えたかった夢が失われてしまう。その3、俺の心を支えている、仕事へのプライドを失う。袖の下を渡さねば最善の医療選択をしないと思われていることは、俺にとって最大級の屈辱くつじょくです」


「は、はぁ……」


 俺は明確に作成されたルールを破り、倫理りんりをねじ曲げる行為を決して認めない。


 法やルールを破らず、利害の一致から協力するのは素晴らしいことだ。

 だが、それが法令や規則に違反する行為であれば、強く非難されるべきである。


 賄賂など、最たる例だろう。


 そもそも、医療に関しては国から診療報酬しんりょうほうしゅうが発生している。

 患者は既に、入院して治療を受けているだけで十分な対価を払っているのだ。

 それ以上、個人の懐を潤す袖の下を渡されなければ最善の判断に基づく治療を行われないと思われることは、屈辱ですらある。


「以上のことを説明した上で、貴女はどう選択しますか?」


「……その、失礼いたしました」


「分かって頂けて、何よりです」


 女性患者は渋々と、ベッドフレームとマットレスの間に再び封筒を仕舞った。


 大きく頷いてから、俺は患者の手を取り洗浄と消毒をしてゆく。

 せっかく傷口の洗浄をしたのに、汚れが付着した手で触れてしまえば全て台無しだ。

 時間は有限。

 こうして洗浄をしている間に、病状経過の説明もしていくか。


「安心してください。心配せずとも、私は医者として最善の判断と行動をする為にここへ来ました。出血性ショックの状態は輸液負荷ゆえきふかで危機を脱した。……外傷がいしょうの様子も、見た限り感染や炎症、再出血もなかった。観察所見かんさつしょけんも、血液データ上も問題はなし。肋骨骨折ろっっこるこっせつは本日のレントゲン所見でも大きな変移へんいがなかった。この後は予定通りです。交通事故で折れていた両足の手術の為、整形外科病棟せいけいげかびょうとうへ移って頂きます。詳細な手術の内容、その後のリハビリプログラム、退院時期の目安については、あちらの担当医からご説明します。担当医、そして執刀医しっとういは、以前お伝えしていた通り。他にも3名のサブ担当医が付きます。経過や訴えは全て電子カルテで情報共有させてもらいますので、そちらもご安心ください」


 話している時間で、疾病対策予防しっぺいたいさくよぼうセンターが推奨している通りの手指洗浄と消毒を終えた。


 手指洗浄しゅしせんじょうには10秒のもみ洗い後、15秒のすすぎだ。

 これでウイルス残存率は0.01パーセントまで減少する。

 流水りゅうすいではない為、そこまでの効果は認められないだろうが……。

 目に見える汚れはないので、これが妥当な洗浄だ。


 目に見える汚れがない場合は、消毒の方がより重要だ。

 擦式さっしきアルコール手指消毒で、指や爪の間に手首までしっかり擦る。

 液状のエタノールなら、1回量は3ミリリットルだ。

 そして乾けば、アルコール耐性菌たいせいきんなどを除けば殆どの微生物びせいぶつが死滅する。


 医薬品から時間まで、過不足なしだ。

 ――実に素晴らしい。

 思わず微笑んで手を見つめてしまう。


 そんな俺の顔を、女性患者が覗き込んでいることに気が付く。

 思わず自分の世界に浸ってしまっていた……いかんな。

 咳払いをしてから、会話を続ける――。



―――――――――――

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