第46話 エロ触手 VS 普通の触手(6)

「ご主人様」


 背後から、慣れ親しんだ声。


「……うん、お疲れ様」


 ボクは振り返ることなく、ねぎらいの言葉をかけた。


 船長室を脱出した後、ボクは可能な限り急いで女船長のもとに向かったけれど、そこかしこに乗組員や奴隷がクラーケンにやられて倒れていた。


 もちろん、最優先にすべきことを見失ってはいけない。スキル『海越え』の効果で奴隷船をバックアップしている女船長を守ることが、結果として全員の命を救うことに繋がるのだから。


 ただ、死にかけている人たちを一瞥して切り捨てられるほど、ボクは完成していない。残念ながら……あるいは、幸いにしてか? ボクはいつでも迷いの森の中にいる。何はともあれ、怪我人の救助を奴隷少年に託したわけだ。


 オールマイティに何でもそつなくこなせる奴隷少年。


 便利に扱いすぎて、ちょっと申し訳ないね。


 怪我人たちの処置がようやく一段落したのだろう。


 彼もこの船首まで、遅ればせながら追いかけて来たわけだ。


「クラーケンの対処、船長の救援……ご主人様にお任せすれば、大丈夫だろうと信じておりました。なるほど、クラーケンは瀕死のようです。ご主人様の大活躍があったものと推測します。ただし、まったく理解できないこともありまして、船全体に現在進行形で広がっている災厄は、クラーケンのせいではないというか、ぶっちゃけご主人様のアレ以外の何ものでも無いだろうと思いまして、はい……」


 奴隷少年はいつも通り、気配を殺しながら、控え目にスッと歩み出てくる。


 ボクのかたわらに立って、これもまた、いつも通りの落ち着いた声色で淡々とつぶやく。


「この世の終わりを見てきました」


「ごめんね!」


「骨の折れた船員に添木を終えて、これで大丈夫と胸を撫で下ろした所でしたよ、エロ触手が光の矢のように急襲して来たのは。アッと驚く暇もなく、彼は宙吊りにされていました。ズボンを下ろされて、パンツを破られて……ええ、それより先は語りたくもありません。……いえ、それでも、お伝えしておくべきでしょう。ご主人様は詳細をしっかり耳にするべきです。それぐらいの責任はあるはずです。ああ、あの瞬間、人としての尊厳の門が破られる男の表情には、途方もない絶望の中に快楽の予感が入り混じり、それはもう人生の喜怒哀楽をこの一時に濃縮したかのような滋味深きものでした。そんな風に上空で繰り広げられる、ただおぞましき光景を、真下から呆然と観察することになった僕の心境をお察しいただけますか? 何もできず、震える足を鞭打つように逃げ出せば、行き着く先、行き着く先、船内のあらゆる場所で同じ惨状に遭遇するのです」


「ごめんって!」


 さながら、パニックホラーの主人公みたいな状況だった奴隷少年である。


 エロ触手というモンスターに襲われた船内で、どれだけ逃げ惑っても生き残りは無し。随所で出くわすのが、スプラッターな死体ではなく、ウホッいい男たちの痴態というのが、ホラーなのかコメディなのか分からなくさせるけれど。……いや、そんな状況に放り込まれた当人からすれば、えぐいホラー以外の何物でも無いだろうさ。ボクは『乗組員たちにエロいこと』と命令を出したので、奴隷少年にエロの被害が及ぶ可能性は無かったものの、本人はそんなこと知るよしもない。船員たちだけでなく、自分にもエロ触手が襲い掛かって来るのではないかという恐怖の中、必死にここまで逃げ延びて来たはずだ。


「ご主人様」


 心なしか、ボクを呼ぶ声にも冷たいものが感じられる。


 チラッと横目で表情を伺うと、幽鬼のような青ざめた顔をしている奴隷少年。


 果たして、ボクはどんな風に謝れば良いのだろうか。何をすれば、彼に対しての償いになるのだろうか。しばらく考えても思い付かなかったので、無言で海の彼方を見つめ続ける。しぶといクラーケンはゆらゆらワカメのように揺れ続けており、女船長もちょっとしたアスレチックのように耐え続けている。そして、ボクと奴隷少年が沈黙しているからと云って、この場が穏やかな静けさに包まれるなんてことはなく、背後では野太いあえぎ声が幾重にも響き渡っていた。


「そういえば……」


 すべてに耐えられず、ボクは話題を転じることにした。


「クラーケンにこの船が襲われたのは、奴隷少年のせいだとか云っていたね。捕まりたくないとか、なんとか……。魔物が人を襲うのに理由は必要ないし、普通に考えれば、クラーケンの縄張りにたまたま奴隷船が近づいてしまった不幸とも思えるけれど……そうじゃないって確信があるの?」


「はい」


 奴隷少年は即座に肯定した。


 ただ、それから黙り込んだ。


 口数少ないわけではないものの、自分から、あれこれ話を広げようとするタイプではない。奴隷という身でありながら、驚くべきほどに博識なのはこれまでも度々実感させられていた。


 本人の口から、極東魔法学園の出身とも語られていたっけ。


 高学歴を証明するものが手元にあるわけでは無いけれど、ボクに対してそんなウソを吐いても意味は無いだろう。普段の何気ない会話で、知恵が回り、知識が深いことは十分察せられている。一方で、自分からそうした部分をひけらかすような事はない。正しく、能ある鷹は爪を隠す。本当に、奴隷らしくない奴隷である。


 奴隷という立場が、まるで隠れ蓑みたい。


 何はともあれ、必要以上のことを自分から語り出すことはないけれど――。


 一方で、ボクから尋ねた時は、過不足なく物事を教授してくれる。


 そんな奴隷少年が、珍しく話すのを躊躇しているようだった。


「……クラーケンの触手が半分ぐらい失われていますが、あれはどうして?」


 奴隷少年から不意に質問される。


「んー、エロ触手が――」


 ボクは説明する。


 左手をエロ触手のつもりで、右手をクラーケンの巨大触手のつもりで、どちらもウネウネと動かしながら、触手同士の正面衝突を再現してみる。両手の指先が触れ合うと同時に、クラーケンな右手をパンッと弾き飛ばすように動かした。エロ触手な左手はウネウネと勝利の舞いである。


「ドカーンって感じで、吹き飛ばしたよ」


「さすがは、ご主人様」


 凄いのはエロ触手であり、ボクでは無いんだけどね。


 いつでも、ボクのことを褒めてくれる奴隷少年だった。


「あれだけの手傷を負った魔物ならば、普通は逃げると思いませんか?」


 奴隷少年は淡々と話し始めた。


「魔物の基本的な習性として、人類種には敵対的行動を取るのは当たり前です。加えて、クラーケンのように人間を捕食対象とする魔物はより攻撃的です。ナワバリにうっかり近付けば、戦闘は避けられないものでしょう。実際の所、商船がクラーケンに襲われるなんて事件は年に一度や二度はニュースになるようなものですから、今回の遭遇もたまたまの出来事として納得してしまいそうになりますが……」


 奴隷少年は、そこで首を横に振る。


「航海が順調に行けば、半日も経たずに砂漠都市の港に到着という位置です。小さな漁村とはわけが違う、交易の重要拠点ですから、そんな大都市のほど近いところにクラーケンが生息している……これには違和感があります」


 海洋の知識に乏しいボクは、そんなものかと頷くだけ。


 ただ、考えてみれば陸地でも同じか。都市や主要街道の近くで、凶悪な魔物に遭遇するなんてことはまず無い。騎士団や冒険者による定期的な駆除活動が行われているし、魔物側もあえて危険を冒してまで人間の生活圏に踏み込んでこない。


 奴隷少年はさらに続ける。


「結論から云えば、このクラーケンは待ち伏せしていた。大海のど真ん中で、たった一隻の船を見つけるのは困難でしょう。ただし、港まで後わずかという距離であれば、航路は限りなく絞られて来る。僕を狙う者からすれば、シンプルに『この場所を通りがかる船を襲え』と命令を出しやすい。ええ、そうです、あのクラーケンは命じられているから、深手を負っても逃げようとしない。正確には、逃げられない。魔物としての本能よりも、スキルによる強制力の方が強いからです」


 奴隷少年はため息を吐いた。


「つまり、スキル『魔物つかい』……これまでも使役された魔物にたびたび襲われて来ましたが、まさか相手がクラーケンまで支配できるようになっているとは予想もしていませんでした。海ならば襲撃されることは無いだろうと、甘く見ていた僕の失態です。巻き込んでしまったこの船の方々には、大変申し訳なく思います」


「自分のせいだから、ボクにクラーケンの撃退を頼んだの?」


「はい。ご主人様にお願いするなんて、恥知らずも良い所ですが……。無駄な犠牲者を出さないためには仕方ありませんでした」


 顔を伏せる奴隷少年。


「まったく、自分自身が情けない……僕のことなんて、途中で諦めてくれると思っていたのに」


 大勢の女子からキャーキャー追いかけられる王子様ポジションみたいな、やれやれという表情を見せる奴隷少年。うん、君は恰好いい。認めよう。耽美の権化みたいな顔立ちである。褐色の肌に、絹糸のようなサラサラの銀髪。奴隷は奴隷でも、下働きをさせられるような奴隷では絶対にない。そもそも見た目の良さだけで一生食っていけるだろうに、なぜどうして奴隷なんてやっているのか……。


 物憂げな表情には妙な説得力があり、スキル『魔物つかい』で操られたクラーケンが奴隷少年を狙って襲撃して来たという話を、この時点で納得してしまいそうになるけれど。


「うーん、どうしてかな?」


「なにがでしょうか、ご主人様?」


「スキル『魔物つかい』は、まあレアスキルというわけでも無いし、そうしたスキルがあるってことはボクでも知っているし。実際のところ、クラーケンは今の状況でも船を沈めようとしてギリギリまで粘っているね。なるほど、誰かに操られているという奴隷少年の話はちゃんと納得できる。……でも、どうして? クラーケンを操るなんて大がかりなやり方で……それこそ、無関係な人間がたくさん犠牲になるようなやり方を選んでまで、どうして奴隷少年を狙っているのかな? どこの誰が? なんの目的で?」


 正確には――。


 ボクの本当に訊きたかった内容は、『君は何者?』という一言だったかも知れない。


 ただ残念ながら、この時点では、奴隷少年はハッキリとした答えを示してくれなかった。


「ご主人様は、この奴隷船を地獄に変えてみせましたが……」


「いや、だから悪かったよ。反省しています!」


 まあ、わざとではないけれど。


 しかし、エロ触手というスキルの持ち主として、今後も同じようなことを繰り返すだろうことは否めない。


 反省はするけれど、二度とこんなことはしませんって誓うことはできない。残念ながらね。


「責めたいわけではありません。ご主人様には、それだけの力があるということです」


 奴隷少年は苦笑している。


 それから、ちょっと真面目な顔で続けた。


「僕も、力が欲しかったんです。くだらない目的を果たすために、どうしても――」


 奴隷少年は、語らない。


 この時も、これから後も、クリティカルな部分では言葉を濁した。


 彼はそもそも、自分自身について話そうとしない。


 どんな風に尋ねても、秘密は秘密のまま守り続けた。


 ボクの奴隷というポジションを好み、そう在ろうとした。


 そう振る舞うことは、人生のほんの一時の戯れだったのか。


 あるいは――。


 結局、ボクとの離別が決定的となるその瞬間まで、奴隷少年は答えを語らなかった。


「狙われているのは、僕と云うよりも……僕のスキルなんですよ」

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