壊れかけの世界で、キミ想いて唄う。

鵜月 祐

プロローグ

著名ちょめい文豪ぶんごうは、筆に囚われる」


「あなたの作品は、一匹のヘビによって愚策へと成り果てた」


 そうして、世界は崩壊した。



 朱雨しゅうという男はヒト殺しの咎人だ。


 ヒトを殺す────。武器である朱雨にとって、その行為は日常であり、習慣だ。そこに道徳や倫理観りんりかんなどは存在しない。あるのは、ヒト殺しの付箋ふせんと死体の山だけだ。しかし、朱雨が法的に制裁を受けることはない。彼の行いは社会のかかげる『偽りの幸福』によって覆い隠され、悲劇は美談として語られる。死者は行方不明者として処理され、真実を知る者はいない。否、真実を知っても口に出す者は稀だ、と称するべきだろう。


 人類の歴史は、まるで舞台の大道具のようなものだ。何世紀にも渡っていろどられた装飾は、しかし一つの作品が終わると同時に、数瞬のうちに崩れ落ちた。整えられた舞台は色彩しきさいを失い、空虚くうきょとなったその場所には脚本家と演者家が選ばれる。そうして繰り返すうちに、本棚から派古い作品は消え去っていく。


 朱雨は手に握った三枚のドックタグに視線を移す。


 僅か三十グラムにも満たない鉄の塊は、指先を介して朱雨の心臓に重く伸し掛る。血に染まった『誓約せいやく』は彼らの生きた証としての誇りだ。何かを形として残せるだけ、彼らはまだ幸福なのかもしれない。多くの人々は生きた証すら遺すことはできない。だからこそ、彼らは幸福だった、そう思いこもうとして朱雨しゅうは激しい吐き気と苛立ちを覚えた。


 彼らは朱雨という男の手によって葬られた犠牲者だ。そうして、同じ道を生きた仲間でもあった。しかし、最期は信頼を置いていた仲間の手によって短い生涯を終えた。


 この行いに幸福や未来などは存在しない。


 いままでにも多くの仲間を殺めてきた。その都度、心を摩耗まもうし続けてきた。彼らの名前も最期の瞬間も、永遠に忘れることはないだろ。その姿は、まるで心に焼きついた呪いだ。いまもまぶたの奥には、命乞いをする仲間たちの幻影が浮かび上がり、朱雨を苦しめる。


 心に残る傷跡は『過去』という名の波にさらわれ、罪の深淵に引き摺りこまれいく。暗く冷たい海の底には未来や希望はなく、一筋の光すら見えない。その場には何モノもなく、同時に何モノも存在していた。それは『厄災』に支配された日々の中での出来事で、同時に朱雨という男の原点とも言えるものだ。



 覚えておけ、少年。


 正義を口にした時点で、我々はみんな等しく悪党だ。



 生前の師匠が、まだ幼かった朱雨しゅうに向けて放った台詞だ。


 彼女の唱える主張は、正義と悪は時間と場合によって曖昧であることを強調していた。

 社会や文化が特定の時代に与える影響力を考えると、正義の定義は流動的だ。人々は複雑な環境によって変容を遂げ、その中で善悪の境界も揺れ動く。同時に群れで行動をする生物でもある為、集団の影響を受けつつ、自らの行動も周囲の人々に共感を呼ぶ。歴史は文化を重んじ、文化は人々の行動に影響力を与える。その中には善意が交じり、正義の理解が形成される。一方で、時折悪意や混沌も見受けられる。完全な定義を見つけることは難しいが、これらの要素が人間関係や生き方に影響を与えていることは否定し難い真実だとも言えるだろう。


 そうして彼女の言葉はこのように続いた。

 故に。この世界にロビン・フッドやジャンヌ・ダルクなど存在しないと。


 彼女の訴えは暴論だ。異論を呼ぶ主張だとも言える。それは哲学的にも考察すべき議論であり、答えなど何処にもないであろう。それでも彼女が間違っていると否定をすることは、まだ幼かった一人の少年にはできなかった。否、過去となった現在でも、彼女を否定するのは難しいだろう。


 朱雨しゅうは胸ポケットから煙草を取り出す。ボッ、という音が静寂を切り裂き、帯状に伸びた紫煙が立ち昇る。口腔内こうくうないには、何とも言えない苦味が広がり、独特の臭いが鼻を突く。紫煙は宙をただよい、静かな雰囲気により一層の緊迫感を与えた。


「不味いな、やっぱり……」


 こんな物の何が美味しかったのだろうか。彼女が好きだった煙草に視線を向けると、朱雨は溜め息と共に煙を吐き出す。彼の心は苦悩という名の味に満たされ、『記憶』という名の風浪ふろうに包まれる。海の音が木霊こだましている。過去を叩く波の音だ。

 彼は再度溜め息を吐くと冷たい視線を向ける。その先には瓦礫に埋もれた街が静かに佇んでいる。


 朱雨しゅうの暮らしていた街が『厄災』の影響によって消失したのは、もう十年以上前のことになるだろう。


 記録的な寒波が街を襲うがクリスマスの前日ということもあり、子供連れや若い二人組で賑わっていた。装飾が施された街は人々の笑顔で彩っており、幼い子供が両親にプレゼントを強請る姿は幸福すら感じさせた。

 その日も師匠は酒瓶を片手に笑っていた。クリスマスを口実に、また大量の酒瓶を漁ろう言い、買ってきたのだ。


 代わり映えのない日常。退屈で平凡で、平穏な日々がそこにはあった。


 鐘の音が響く。しかし、クリスマスを祝福するそれとは全く違った。


 幸福な時間も束の間、突如として街は不気味な霧に包まれた。人々の顔には困惑と恐怖が生まれ、悲鳴にも似た声があがる。霧はさらに濃くなり、美しく彩られていた街並みは白い渦の底へと呑み込まれていく。恐怖と不安が人々の心に巣食う。活気に満ちていた瞬間がまるで嘘のようで、息をするだけの簡単な行為でさえも躊躇われる。


 瞬間、マッチを擦る音が静寂を切り裂いた。視線を横に向けると、師匠は落ち着いた雰囲気で煙草を咥えている。煙草の先が怪しく燃え、灰が落ちる。


「行くよ、少年。着いておいで」

 師匠の声が低く響く。朱雨は首を縦に振ると彼女の後に従って進んだ。



 彼女の周りを紫煙しえんが巡る。蝶のように舞う紫煙は幻想的で同時にどこか未熟さを含んだ大人の雰囲気を纏っている。普段の彼女とはまるで別人だ。


 先々では霧に包まれた影が立ち上り、徐々に教会が姿を現す。建物は年月の経過を感じさせ、剥がれ落ちた塗装が不気味な雰囲気を漂わせていた。扉に力を加えると獣の咆哮にも似た音が空気を震わせ、一度に解放された埃が鼻を刺激する。月明かりに照らされた内部はまるで二人の客人を招き入れているようで、大きく伸びた聖像の影がより一層の不気味差をかもしていた。師匠は此方に合図を送る。黒のコンバットブーツが闇に溶け込み、大理石を叩く音が重く響き渡る。師匠という人間は相変わらずの師匠なのだ。


 朱雨は不安と興奮の入り混じった心境の中で歩を進めた。彼の目に映る景色は、かつての日常とは異なり、まるで別世界のようだ。霧に包まれた街並み、不気味な教会、そして師匠の周りを漂う紫煙、その全てが当時十歳にも満たない少年の感覚を狂わせた。彼は唾を飲み込むと、震える足を一歩前に出す。


 瞬間、浮遊感ふゆうかんが朱雨を襲った────。


 世界はゆっくりと上昇し、地面が迫ってくる。先程まで彼が居た教会は消え去り、師匠の姿もない。自分が何処にいるのかも理解できなくなり、まるで夢の中に居るかのような謎の感覚が襲う。


 周囲には霧が立ち込め、幻想的でありながらも異様な雰囲気に包まれた。地上には瓦礫が横たわり、堕ちた天使を串刺しにせんと鉄骨が此方に延びる。心臓は激しく鼓動し、恐怖が身体を支配するのが解る。『死』という文字が脳裏に浮かぶ。


 次の瞬間、柔らかな歌声が彼の心を揺さぶる。


 それは、何処か懐かしい思い出のようで。

 だが朱雨の記憶中にはソレは存在しない。捨て子である彼には、母親という人との思い出が存在しないからだ。それでも懐かしいのはソレがそういうものだからだろう。


(母親か……)


 一瞬考えるが自分には一切関係がないと、一蹴する。それ程までに朱雨の人生は満たされていた。母親の顔や名前を知らない身でありながらも、気がつけば母性の温かさや愛情はそこに存在していた。あんな師匠でも朱雨にとっては母親だったのだ。


 やがて『死』が現実のものとなる。ドッ、という痛みが響き渡り、身体中から血液が零れ落ちる。身体中が熱くて、冷たい。


 意識が漂い始め、周囲の景色がぼやける。目の前には師匠の影が浮かび上がるが、もはや現実なのかも理解できない。彼女は微笑むと朱雨に近づき、彼の頭をまるで子どもを寝かしつけるように優しく触れた。熱を帯びた掌は、まるで母親のような温もりを持っていて、壱に平穏に包まれていた。


 朱雨は視界がぼやけていく中で、師匠の姿が不安定に揺れ動くのを感じ取る。


「師匠……」


 朱雨の声がか細く響く。師匠は微笑みを浮かべると、彼に寄り添うように視線を合わせた。


「安心しろ、少年。私はキミの側にいるから」


 師匠の声が優しく、安心感に包まれていた。朱雨は彼女の言葉に小さく頷くと、静かに瞳を閉じる。瞬間、溜まっていた疲労がドッ────と溢れ出し、意識が徐々に薄れていく。幼子は師匠の手に頭を預けると、穏やかな眠りに身を委ねた。


「もうすぐに全てが終わる」



 だから今は安心しておやすみ、────。

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