6

 その夜。僕は先生の部屋のローテーブルに、カンッと空き缶を置いた。


「完っ全に八つ当たりじゃないれすか! 悪いのは恋人の男であって、そのあと来る人は関係ねーじゃん!」


 空き缶には「アルコール」の文字。同じテーブルを囲んで座る先生は、キャミソールに薄いパーカーを羽織ったラフな格好で、同じく酒を煽っていた。


「あっはっはっ! 本当になあ」


「大体、幽霊ってなんなんです!? 科学的根拠もない意味不明な存在のくせに、一丁前に現実に作用してくるなよ。橋が取り壊されて出現スポットなくなって困ればいいのに」


「小鳩くんの酔い方、面白れえ」


 先生は手を叩いて笑い転げている。


 恋人でもない女性の自宅でひと晩過ごすというのは、非常識だと思って気が引けた。しかし今夜家でひとりになれば、今度こそ幽霊に殺されるかもしれない。それに、先生自身も、幽霊に襲われないとも限らない。ふたり一緒にいたほうがお互いに安全なのだ。

 幽霊なんていう非常識な存在にまとわりつかれている以上、自分も常識に囚われていられない。僕は約束どおり、先生の部屋に泊まりにきた。


 こちらはかなり緊張したのだが、先生はまるで旧知の友人が遊びに来たかのような対応で僕を迎えた。そして冷蔵庫から次々とお酒を持ってきて僕に勧め、今に至る。


「そのうち小鳩くんと飲みたいな、と思ってたんだよ。いいきっかけをくれた幽霊ちゃんに感謝だな」


 先生が何本目かのハイボール缶のプルタブを開けた。


「因みに小鳩くん、幽霊ちゃんってどんな顔してた? 大体こういうの、生きてた頃は美人だったんだろうなーって顔してるのが定番だけど」


「怖すぎて覚えてませんよ」


 僕はテーブルに頬をつけてぼやく。先生はそうかあとため息をついた。


「君が撮ってくれた写真に写っていればいいんだがな」


「現像しに行ったんじゃなかったんですか?」


「それがさ、あのカメラまーた壊れてたんだよ! こないだ修理したばっかりだってのに!」


 先生は肩を竦め、項垂れた。


「写真店に預けてきた。写真は撮れてるかどうかも、まずは修理してみないと分からないそうだ」


「これでただカメラが壊れただけだったら、僕は完全に損しかしてませんよ」


 せめて心霊写真のひとつやふたつが撮れていて、先生の仕事の役に立っていただきたい。

 僕はお酒を口に流し込み、言った。


「損といえば、幽霊さんも気の毒ですよね。最低な男に人生を狂わされて。元を辿ればその男が元凶ですからね」


 現状、僕が迷惑しているのは女の幽霊だが、彼女だってそうなりたくてなったわけではない。憎たらしいのは彼女を裏切った男のほうだ。

 酔いが回ってきて、頭がくらくらする。体がぽわーっと熱くなって、眠たくなってきた。

 僕は、昨晩見た女の記憶を振り返った。


「元凶は男ですけど、幽霊さんは、恋人の男を憎んでるわけじゃないみたいでした」


「なんだって? 復讐のために待ってるんじゃなかったっけ」


「そう思ってたんですけど、僕が彼女から受け取ったメッセージは、そういうニュアンスじゃなかった気がして」


 僕はテーブルの上で腕を組んで、前屈みになった。

 男を待ち続けていた彼女から感じたのは、恨みというより、淡い期待だった。


「彼女は、自分が裏切られた事実を受け止めたくなかったのかな。男が自分を愛していれば、自分だけ見殺しにしたりはしない。また来てくれるって信じて……待っていたんだと思います」


 女が殺されたのは昭和初期だったという。その当時の男が、今も生きているとは考えにくい。彼は生涯、彼女を迎えには行かなかった。

 やり場のない悲しみは、彼女の癒えない魂を一層悲しみに染めた。そうして彼女は、悪霊に成り果てたのだ。

 先生は胡座をかき、ハイボール缶を胸の辺りで持って聞いていた。


「ほう。君は主人公への感情移入が上手いな。さすが読書量が多いだけはある」


「それは関係あるか分からないけど。ともかく、恋人の男性がもう会いに来てくれない以上、あの人の悲しみは永遠に癒えないんだなと考えると……胸が痛みます」


 吊り橋の女は、ただ愛する人と幸せになりたかっただけのありふれた女性だったはずだ。人生を壊された彼女は、この物語の被害者である。

 もちろん、悲しい過去があったところで僕を取り殺していいわけではない。だけれど、彼女の記憶を見てしまった以上、本気で憎めない。

 先生はつまみのチーズを口に放り込んだ。


「あのな、小鳩くん。こういうものに同情したらいけないんだぜ」


「え」


「『怖い』『気持ち悪い』で切り捨てないで中途半端に優しくする奴こそ、化け物の恰好の的なんだよ」


 先生はそう言って、はっと鼻で笑った。


「幽霊ちゃんは立派なバカ女だ。自分の感情すら上手に整理できない。なにを求めているのか自覚できてない。そんな酷い目に遭わされておいて、まだその男を愛せるのか? 幽霊ちゃんが執着しているのは、愛ではなくて幸せな未来なんじゃないかな」


「幸せな未来……」


「そ。件の女はただ幸せに暮らしたかった。そのチャンスのひとつが結婚だっただけで、他の形で幸せを掴むこともできたわけだ」


 先生は足を組み直し、言った。


「つか、んなクソ野郎が相手だったら、仮に難なく結婚していたとしてもその後の生活はろくでもなかっただろ。幸せは他人に委ねるものじゃねえのよ」


 先生の言葉を聞いていると、なんだか自分に言われているような気持ちになってきて、胸がじくじくした。そうだ、私はただ、幸せになりたかっただけ――僕に取り憑く女が、そう言っているような感じがする。

 先生はお酒を味わって、ぷはっと気持ちよさそうに息継ぎした。


「クソ野郎にこだわってぐずぐずしてるより、さっさと成仏して次の人生で幸せになったほうが良いぞー」


「先生はさっぱりしてますね」


 そうだ、ろくでもない男に身を委ねたことを後悔するより、やり直したほうがずっといい。幽霊の悲しみに引っ張られて俯いていた僕に、先生は新たにサワーの缶を突き出した。


「まあ、飲め飲め!」


「絡み方が酔っ払いのおじさんだ」


 しかし僕まで凹んで暗くなってもよくない。大家さんの占い……が当たるかどうかはさておき、ネガティブになると悪霊を寄せつけやすいらしいし、ここでどよんとしていれば幽霊の思う壺だ。

 僕は先生から貰ったサワーを受け取り、プルタブを開けて一気に煽った。先生がキャッキャと喜ぶ。


「いい飲みっぷりだ! いいぞ、クズ男なんて飲んで忘れな。あんたはいい女だ」


「先生、僕と幽霊を混同してません?」


 缶をテーブルに置いたとき、頭がぐわんと揺すられる感覚がした。一気に飲みすぎたかもしれない。久々だった上に、やたらとハイペースで缶を開ける先生に釣られてしまった。

 視界に星が散る。頭が重たくなって支えられなくなり、僕は背中からぱたりと倒れた。



 ぼたっと、耳元で音がした。水風船が天井から落ちてきたような、そんなような音だった。物音で目を覚ました僕は、ここがどこなのか思い出すまでに、少し時間がかかった。そうだ、僕は先生の部屋でお酒を飲んでおり、そして潰れてしまったのだった。


 部屋は真っ暗だ。今は何時だろう。横に顔を倒すと、テーブルの足の向こうに、寝そべる先生の背中を見つけた。タオルケットを布団代わりに引っ掛けて、床で寝ている。


 僕は先生のほうに向けていた顔を、今度は反対側に倒した。顔の横に落ちたものを確認する。暗くてよく見えないので、触って確かめた。

 柔らかいような硬いような、丸いような細長いような。ああ、これは手だ。先生の手だろう。


 寝ぼけた頭でそこまで思ってから、いや、と考え直す。先生はテーブルを挟んで向こう側、こちらとは反対側にいた。先生の手が、ここにあるはずない。

 徐々に目が暗闇に慣れてきて、僕が触っていたそれの輪郭がはっきりしてきた。


 床に落ちていたのは、ごつごつとした大きな手だった。手首から切り落とされた手「だけ」が、手の甲を向けてそこにある。


 電流が流れたような衝撃が、全身を襲う。


「うわあああ!!」


 僕は転がるように落ちている手から逃げた。腰が抜けてしまって立ち上がれず、這って転がるのがやっとだった。

 なんだあれは。どうして人の手が、先生の部屋に落ちているんだ。いや、本物なわけがない。小説を書くための資料、とか、そういうものだろう。きっもそうだ。

 寝起きの頭で必死に処理して、僕ははたと気がついた。


 部屋の隅に、ぼやりと白い影が立っている。痩せて骨が浮き出た、憎しみで歪んだ顔をした女だ。

 僕はひゅっと息を呑んだ。嫌な予感が当たった。彼女は今夜も、僕を取り殺しにきたのだ。

 僕は震えながら先生を振り向いた。先生は幽霊を見るのを楽しみにしていたのに、泥酔して熟睡しており全く起きない。


 しかし、幽霊の様子がどこかおかしい。部屋の角でぼうっと立っているだけで、動く気配がない。それに僕の体も金縛りが起きておらず、自由に動いた。


 と、そこで突然、床に落ちていた手がびくんと痙攣した。僕はひっと声を上げて飛び退き、女もぶわっと髪をうねらせて広げた。

 床の手がびくんびくんとのたうち回る。女は零れそうなほど目を見開いていた。

 ややもすると彼女の姿が、砂嵐のテレビみたいに、ジリッと霞みはじめた。ジリッ、ジリリッと、ちらつきの頻度が上がり、女性の形をしていたシルエットも、輪郭が乱れていく。

 僕の体には異変はない。なにが起こっているのだろう。


 僕はハッとして、即座に叫んだ。


「あ、そうだ! 先生! 幽霊ですよ!」


「なにっ!」


 寝ていた先生が一撃で覚醒した。しかし先生が飛び起きたときには、すでに部屋の隅の幽霊はジラジラした砂嵐に呑み込まれ、消滅していた。


「あれ?」


 目を疑う僕の横で、先生が目をらんらんと輝かせている。


「小鳩くん、幽霊はどこだ?」


「さっきまでいたんですけど、見えなくなってしまいました」


「なんなんだ小鳩くん。寝惚けているのか?」


 先生は呆れ顔でそう言うと、大欠伸をして、再び寝直してしまった。僕のほうは、気がついたら全身汗びっしょりで心臓の早鐘が止まらなくて、眠る気分にはなれなかった。

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