第12話 がつん
ユシリアの推測通り、バルコニーにはあの黒い人影らしき者――漆黒の髪を持つ長身痩躯の青年がいた。扉が開いた音に気付いてユシリアの方を振り返った青年は、月明かりを背にしているため顔はほとんど見えない。けれどユシリアはこの黒い青年が何者なのか、一目見て解った。
「……ゼロ…………?」
――どうして。どうしてあなたが……。
「どうして……ここに……」
ユシリアは青年がゆったりとした黒いローブを纏っているのに気付いた。目を凝らすと、青年の胸元には小さな銀バッジが光っている。
青年はユシリアに一歩近づいた。光の当たり方が変わり、今度は青年の端正な顔立ちがよく分かった。黒曜石のような漆黒の瞳は底なし沼のように何の感情も見せない。
「……ユシリア・シャオン」
ユシリアは青年の聞き覚えのない低い声に心を強く揺さぶられた。記憶にはない大人の男性の声と、記憶の中の少年の姿は相容れないはずなのに、ユシリアの直感が叫んでいた。この人はあの日――10年前、手を引いて逃してくれた少年だと。
「…………っ」
「――星が見えない夜だ」
青年――ゼロは不意に夜空を見上げて言った。つられてユシリアも視線を上に向けると、なるほど、月の明るさにばかり気を取られていたのは星の輝きが酷く弱まっていたからだったようだ。
「君はなぜここに?」
「……ゼロこそ、何をしにここへ? 私に会いに来たわけではないのでしょう」
ゼロは首を傾げた。その瞬間、ユシリアはひゅっと息を呑んだ。月光を照り返して一際輝いた、ゼロの胸元に光る銀バッジに彫られた模様が、先刻、大広間の天井に
「【ゼヌア】の印……そう、ゼロは【ゼヌア】の人だったわね……」
ゼロはびくりと肩を揺らした。
「あなたなの? 煙印を上げたのも、叔父様を殺したのも!」
ユシリアは絶叫した。
「答えてよ、ゼロラント・サヘル!」
――10年前、私とお母様を逃がしてくれたのは何だったのか。
ユシリアの放った心を抉るような叫びに、ゼロ――ゼロラント・サヘルは漆黒の瞳に初めて動揺の色を浮かべた。けれどすぐに平静を取り戻して応えた。
「ルゼハン統皇の死に【ゼヌア】は関わっていない」
ゼロラントは大広間の方を見た。相変わらず落ち着き払っている――ユシリアは歯を食いしばった。
「今日、【ゼヌア】は君を陰ながら護っていた。半年前にルゼハン統皇の依頼があったからな」
――私を……? 叔父様が、【ゼヌア】に護衛を依頼した……? ということは……。
「……叔父様は……知っていた……?」
「ああ。叔父君を護れず、すまなかった」
がつん、と頭を殴られた気分だった。
叔父は自分の代わりに死んだのかもしれないというのか。
顔が熱い。身体が火照る。半年前といえばユシリアをルゼハン統皇が迎えに来た頃だ。ユシリアが心を閉ざし、周囲を心配させていた頃だ。
「情けない。本当に、なさけない……」
ユシリアは泣けなかった。泣けるはずがなかった。
「……君は相変わらず “まとも” だな」
ゼロラントは呟いた。呆然と俯いていたユシリアには聞こえていなかった。
「ユシリア」
次ははっきりと言った。ユシリアは顔を上げた。エメラルドグリーンの瞳には想い出の少年とは別の、黒い青年が映っていた。
「君の叔父君……ルゼハン統皇が半年前、皇宮へ君を連れ戻したことは知っている。【
【ゼヌア】であるゼロラントが半年前の秘密を知っているというのは、何ら不思議なことではなかった。敵国の間諜でさえ知らないことを知り、一国の長から内密に護衛の依頼を受ける。【ゼヌア】とはそういう集団なのだ。
「ルゼハン統皇は死んだ。これでシャオン皇族は君一人になった。ユスタリア皇国は滅亡の危機に瀕しているということだ」
ユシリアは冷や水を浴びせられたようだった。それは少しも考えになかった。
「【ゼヌア】の起源はユスタリアだ。我々としても皇国の滅亡は避けたい」
ユシリアは頷いた。
「よって今回のルゼハン統皇の死の真相を追求することになった。俺がここにいたのはそのためだ」
その時、遠くから――部屋のドアの向こう、廊下の先から聞き慣れた声がした。
『ユシリア様ーっ! どちらにいらっしゃいますか! ユシリア様ーっ!』
「……キンジーだわ」
「時間か。では、手短に言う。『気を付けろ』」
騎士のように短く頭を下げたゼロラントは瞬きの間に宵闇へと溶け込んだ。
と同時に、部屋のドアがキンジーによって勢いよく開け放たれた。
「ユシリア様! こちらにいらっしゃったのですね!」
息を切らしたキンジーは膝に手をつき、安堵したように言った。
「先ほどエンズ公子の侍女の方がいらして……招待客の身辺検査があらかた終わったそうです。各国皇公の皆様方と三公爵閣下やエンズ公子が大広間でお待ちです」
――そうだ。私は皇女、ユスタリア皇国を統べる者は今、私しかいないのだ。
「分かったわ。待たせてしまってごめんなさい、キンジー」
振り返ったユシリアはどこか大人びていて、今にも壊れてしまいそうで、それでいて眩しい――――。
キンジーは瞬いた。自分の主が急速に変化していくのを悟った。もう泣き虫の皇女ではないのかもしれない。成長とは違うけれど、キンジーはその変化が嬉しいとも恐ろしいとも思った。
***
大広間に姿を現したユシリアたちを待っていたのは、厳しい表情の各国皇公とシルドレンゼ・ローダン、俯いた三公爵、ユシリアを心配そうに見つめるライゼル・エンズとイジェルナ・シーザ公爵夫人。そして白い棺だった。
――叔父様。
ユシリアは彼らの前に立つと、最敬礼をした。ドレスに沈み込むような、舞踏前の礼に似た美しい礼だった。
「……まず皆様方には、ご招待した身でありながら場を辞させていただきましたこと、深くお詫び申し上げます」
「そんな、殿下、顔をお上げになって……?」
「では、お言葉に甘えて」
立ち上がったユシリアは毅然としていた。まるで大広間で泣いていた少女とは別人のようだった。
「皆様を危険に晒してしまい、お詫びのしようもございません。ただ」
ユシリアは棺の傍に歩いていった。そっと棺に手を置き、撫でる。
――叔父様。私は……。
「皆様、今宵のことについて、私は箝口令を敷くつもりはございません。吹聴しないようお願いしたとて、宴の参加者は数百に上ります。きっと意味がない。ですから――」
「――皇女殿下、それ以上は仰いますな。私どもは今宵、偉大な『英雄』を喪ったことを生涯心に留め置くことでしょうから」
イビラメ大公が涙目に言った。イビラメ公国の長である大公は、10年前――ネデヴィー宮殿襲撃事件の頃まで公国に留学していたルゼハン統皇の学友であり、互いに気の置けない友だった。
「皇女殿下、もしお許しいただけるのであれば、彼の冥福を祈りたいのですが」
ユシリアが「もちろんです」と頷くと、一同は目を閉じ、棺に向けて手を合わせた。
――叔父様。私はきっと、統皇になります。皇位継承者だからではなく、両親とあなたが愛したこの皇国を、あなたが護った命を
長い長い黙祷の末、沈黙を破ったのはリンザルド統皇の下卑た声だった。
「……無粋な質問で申し訳ないが……今後ユスタリア皇国の為政はどうなさるのかな」
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