第5話 母子の会話

 俺の上着がある場所までは角を曲がって長い廊下を抜けて階段を上がって……、とにかくそれなりに遠い。

 その上緊急事態というわけでもないから、ミーシャはきっと走って取ってきたりはしないだろう。なにせ今日は上着なんて必要なさそうな、ぽかぽかと暖かい陽気なのだ。

 そもそもメイドのミーシャに俺と母上の会話に割り込めなんて言うのは無茶な話だ。戻ってきたところで、俺の気持ちがほんの少し穏やかになる程度で、言葉による援助は期待できない。

 さぁ、どうする。

 話題を広げようにも母上のことをあまり知らないから、どこに地雷があるかわからない。


「ルーサー、ルドックス先生との勉強は楽しい?」

「……はい。いつも僕の知らないことを教えてくださるので、会うたびに新鮮な気持ちになります」


 当たり前の親からの質問が飛んできて、俺は戸惑いながらも一拍おいて返答する。


「……良かった、ルーサーは本が好きですものね。心配ないと思うけれど、あまりはしゃいだりしてはダメよ。あなたは体が弱いのだから」

「ええと、はい、わかりました」


 体が弱い? 俺が?

 生まれてこの方熱を出したこともなければ、風邪らしきものに罹ったこともない。命の危機を感じるような大病なんて一つもしたことがないはずなのに、母上の言葉にはやけに熱がこもっていた。


「あなたくらいの年だと外に出たくなる気持ちはわかるの。私がいるときにこの中庭に来るのは構わないから、一人で街に出たりしてはダメよ」

「はい、それは、わかったのですが……」

「ごめんね、丈夫な体に産んであげられなくて……」

「いえ、その、母上?」


 すっかり俯いて紅茶に視線を落としてしまった母上は、いつもの厳しい表情から一変、庇護欲をそそるかわいらしい一面を見せていた。

 しかしどうも話がおかしい。

 何かを勘違いされている節がある。


「母上、僕は体調を崩したことなんてないと思うのですが……」

「私を気遣ってそんなこと言わなくていいのよ。本当なら友達を作って外ではしゃぎたいでしょうに……」

「いえ母上、そうではなく、僕は本当に健康体だと思うのですけれど……」


 しつこく言い募る俺に、母上は顔を上げて少し唇を尖らせる。


「そんなことを言ってもお出かけは許可できませんからね」


 ぷんぷんという効果音が似合いそうな怒り方だった。

 無言で眉間に皺を寄せているいつもの表情の方がよほど怖い。


 母上付きのメイドが「アイリス様、お耳を」と言うと、母上が耳を傾ける。俺に聞こえないような小声でメイドが何事かを告げると、母上は「ああ……」と頷いて悲しそうな目をしたまま微笑みをたたえた。


「怒ったりしてごめんなさい、ルーサー。そうよね、あなた自身は気づかないかもしれないものね……」


 俺の気づかないところで、俺の体に異変が起きてる……?

 そんなことを言われるとなんだか途端に体の節々が痛くなってきた気がする。もしかして気づいていないだけで、俺って難病を抱えていたりするんだろうか。


「驚かないで聞いてね。原因不明の意識消失。小さなころからあなたはそれをずっと繰り返しているの。お医者様も原因がわからないっておっしゃってたわ。最近は昼と夜に一度ずつになったから、成長に伴ってちょっとずつ良くなってきているようなのだけど……」


 ……あ、やばい。わかってしまった。

 これ、俺が魔法の鍛錬をし過ぎて意識消失しているのが、原因不明の病気だと思われている。

 どうしよう。これを正直に話すと、俺が赤ん坊の時からしっかりと意識があったことまで、全てつまびらかにしなければいけなくなるかもしれない。そうなったら、母上と父上はどう思うだろうか。

 どうしたものか。

 母上をちらりと見ると、いつの間にかその表情がいつもの眉間に皺を寄っているものになっている。

 まずい、動揺しすぎて怪しまれたか。


 しかし母上の厳しい顔は、徐々に緩みだしたかと思うと、今度はその目じりにうっすらと涙を浮かべた。


「そんなに不安そうな顔をして……。本当にごめんなさい、私があなたを健康にさえ生んであげられたら……」


 どうやら俺が事実を知ってショックを受けていると思ったようだ。都合のいい勘違いではあるのだけれど、母上の悲しんでいる顔を見たら、心がチクチクと痛みだした。

 俺が考え無しに興味本位で毎日気絶してたことが、今のこの母上の悲しみを作り出しているのだ。つまり俺が泣かせたということだ。罪悪感。


「は、母上! 気にしないでください。だんだん良くなっているということは、いずれ完治するということです。僕はこの家に、母上の息子として生まれてよかったと思っています。そ、そうだ、もし僕が元気になったら、一緒に街へお出かけしてください!」


 励ますつもりでいろいろ言ってみたのだけれど、言い募るほど母上の表情が崩れていく。困った、どうしたらいいんだ。


「わ、私、あなたのことが心配で、外に出ることも多いし、近づいて病気を移したりしないか心配だったの。何もしてあげられないし、甘えさせても上げられなかったのに、こんなに、こんなにいい子に育って……。ルーサー、わ、私も、あなたが息子として生まれて来てくれて、本当に嬉しかったの……。本当は本を読んであげたり、一緒に花の世話をしたり、お出かけしたりしてあげたいって思ってたの……」


 涙をぼろぼろとこぼしながら、母上が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

 なんだかだんだん、俺まで涙があふれてきてしまう。


「私のことが嫌いでなければ、元気になったら一緒にいろいろしましょうね、ルーサー……」

「母上……、嫌いだなんて……、そんなことありません……!」


 俺の頬を暖かい涙が伝う。

 ああ母上は、優しく微笑んでくれた時の母上のままだったんだ。

 俺が無駄に疑って、怖がって避けていたから、今までそれがわからなかったんだ。

 

 実の息子から恐れをはらんだ視線を向けられていた母上は、いったいどんな気持ちだったのだろう。


 いっつも泣きそうな気持ちをこらえて、俺に心配の言葉をかけていたんだろうか。


 肩からそっと上着がかけられる。


 振り返るとミーシャがすました顔をして立っていた。

 泣いてるところを見られたのは少し恥ずかしい。

 ぱちっと一度だけされたウィンクから『良かったですね』というミーシャの声が聞こえた気がした。


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