12  補習の日のヘルメス

 「国語のトップは、まぐれでしょ」、亜紀の母の言葉通り7月の定期試験で、亜紀は首位を守れなかった。Aクラスの小日向に奪還された。

 廊下で、ちらりと小日向は亜紀を見たはずだ。

 だが、亜紀は、それどころでなかった。数学が補習になること、確実だった。


「亜紀ちゃんといっしょ! どんまい!」

 山崎由良やまさきゆらが、手のひらをひらひらと亜紀に振った。亜紀と由良は性格はちがうが、補習の科目で気が合った。

「編入生の悲哀~。小島は裏切り者だ~」

 聞こえるところで由良にけなされて小島は、とばっちりだ。


 補習のことを携帯で母に告げたら、『だから、私立中高一貫校なんて亜紀には無理だって言ったのに』と、ひとしきり言われた。

挫折ざせつして公立高校に転校なんてなったら恥ずかしいわよ』


(そうなったらいやだって自分がいちばん思ってるよ)亜紀は言わずに、ただ、「そろそろ、晩礼の時間だから切るね」とした。

 母と話していると、さらに落ち込む。


『東京のお父さんには、お母さんから伝えるね。お仕事が大変なんだから、電話しちゃダメよ』


 父は最近、本社の部署に配属になったそうだ。平日は会社の単身寮で暮らし、週末には家に帰ってくるという。


「わかった。おやすみなさい」

 亜紀は通話を切って父には、ニコニコスタンプを送信しておいた。




 そして、夏休みの最初の1週間で補習がはじまった。

 午前中に行われる授業は、いつもより、ゆるい。

「今日も暑くなるぞぉ。熱中症には気をつけて」

 数学担当の田辺先生が亜紀たち補習者に1個ずつ、塩アメを配ってきた。

 〈田辺の塩アメ〉といって、補習名物だという。


 口に入れた塩アメは、しょっぱかった。涙の味ってことだろうか。

「夏休みが、せつないなんて年とったね」

 隣の席の由良も同じ気持ちらしい。


「がんばろ。とにかく、がんばろ」

 由良がいてくれるだけで、亜紀は心強かった。 


 

 そして、みっちり補習授業でしごかれて、昼、寮に帰る。

 3日め、ふらふらと亜紀は東門から坂道に出たところを、きらめく声に呼び止められた。

白亜紀はくあきさん」

 門の陰から小日向こひなたが、ひょこんと顔を出した。


「わっ」

 亜紀は相当、びっくりした。準制服として認められている、つば広の白い帽子をかぶって下を向いていたから、小日向が見えていなかった。


「初日に見かけたよ。ここにいたら会えるかと思ってさ。補習? 数学?」

 補習も苦手科目も、ばれていた。


「は、はい。不本意ながら」

「こっちは、入試基礎対策」

「もう受験準備? すごい」

 〈特進〉Aクラスの小日向が補習のはずない。


「はい。これ」

 小日向が亜紀に何か差し出してきた。

 カプセルトイだ。

 当たり前のように差し出してくるのを、亜紀は怪訝けげんな表情で受け取った。

石膏像せっこうぞう?」

 カプセルに入っているのは、小さな白いヘルメスの像だった。

 亜紀は、そういうおもちゃをはじめて見た。ふっと笑ってしまった。その顔をたしかめるように小日向は見て、「それじゃ」と坂道を下りはじめた。


(え)

 亜紀はわけがわからず、坂道を降りていく白い開襟シャツの小日向の背中をみつめた。

 その背中は10歩くらい進んだところで急に丸くなって、胸を押さえて立ち止まった。


「ど、どうかした?」

 亜紀は急いで駆け寄った。

「もしか、熱中症?」


「——水分は取ってる」

 小日向は顔をしかめていた。

「ちょっと、胸が痛くってさ」

 小日向の肩から学校鞄がずり落ちた。


「あ、あの、持ちましょう?」

 亜紀は申し出る。

「いや。大丈夫」

 小日向は、そう言うが大丈夫そうじゃない。

「保健室、行きますか」

「いや、帰る。家、近いし」

「近い?」

「徒歩9分」

「近い」


「あのさ」

 小日向は学校鞄を持たなければ、どうにか歩けた。

「悪いんだけど、鞄持って家までついてきてくれない?」


「あっ、はい」

 亜紀は左肩に自分の鞄、右肩に小日向の鞄をかけた。

 普段なら2個持ちは無理だったかもしれないが、数学のテキストしか入っていない亜紀の鞄は軽かった。小日向の鞄もだ。


「悪い。この恩は必ず返す」

「もう、ヘルメスもらったから」

 おまんじゅうも前にもらったし。亜紀は義理堅く覚えていた。


「そういうつもりじゃなかったんだけどね。ごめん……」

 小日向も自分の体調不良は予想外だった。

「なんか、笑ってくれそうだと思って。あげたくなってさ」

 本当にそれだけだった。

 


 小日向と亜紀は正門前の坂道ではなく、バス通りに出る他の坂道をくだって行った。

「こっちの道の方が近いんだ……」

 実は青木と下校のときは遠回りしている。小日向は省略した。


 ふたりがバス通りに出ると、目の前にスーパーがあった。

「あ、ここにスーパー、あるんですね」

 外装を白と青を基調にした洒落しゃれたスーパーに思える。

「総菜が、けっこうおいしい……」

 苦しそうなのに小日向が答えるから、亜紀は黙ることにした。

 

「家までは、もう少し……。あの角、曲がったところ」


 バス通りから入った静かな地区に、小日向の家はあった。

 白い塗り壁の瓦塀に囲まれた和風の家だった。


「それじゃ」

 亜紀は、その家の前で小日向の学校鞄を差し出した。

「待って」

 小日向は引き留めた。

「のど、かわいてない?」

 亜紀は小日向に、自分の学校鞄の持ち手をつかまれていた。

「で、でも」

 断る暇を亜紀に与えず、からら、と小日向は数寄屋門の格子戸を開けた。

「ただいま」


「お帰り」

 迎えてくれたのは、亜紀の父親よりは年上の男性だった。


「伯父さん。今年、高等部に編入してきた白井さん」

 簡潔に小日向は亜紀を紹介した。

「こんにちは。白井亜紀です」

 小日向のおじさん? 挨拶しながら、亜紀は興奮を抑えられなかった。

(本物の、ろまんすぐれーっ。うっ)

 小日向が、けっこう鋭く亜紀の脇腹をどついてきた。

 もしかしたら、ものすごい獲物を狙う目をしていたのだろうか。


理央りおが女の子を連れてくるなんて、めずらしいなぁ。大丈夫なのかい」

 伯父さんという人が、失礼でないぐらいに亜紀を見ている。

「白井さんは美術部だから」

「なるほど」


 なにが、なるほどなのだろう。


「今、伯母さんは出かけていてね。わたしでは、なんのおかまいもできそうにないが」

 伯父さんが、すまなそうに言うのを、「冷蔵庫の麦茶、もらうから。あがって、白井さん」小日向は、家の奥へ消えて行った。


 亜紀は玄関のたたきで固まった。

 玄関の上がりかまちは、ぴかぴかに磨いてある。玄関マットは、厚みのあるチベット絨毯だ。

 黒のローファーを脱ぐと、紺色の靴下の色あせとか、熱がこもっているのではないかとか、心配事が一気に押し寄せた。


(わ、わたし、男子の家に来たの、はじめてだ)

 ここに来て、うろたえる。

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