第22話 「はずれ王子のもう一つの秘密」

 レティスはぽかんと口をあけて、リーンハルトの部屋の中を見渡した。


「これが、僕のもうひとつの秘密」

「……まぁ、なんてこと……」


 期せずして、感嘆の声が漏れる。


 目の前に――あの女性がたくさん、いた。


 リーンハルトの部屋は、内装こそレティスに与えられた部屋と代わり映えがしなかった。けれど、決定的に違うのは、そこここにキャンバスがたくさん置かれていることと、色々な画材が雑多に置かれていること、一番奥に設えてあるイーゼルには、真っ白のキャンバスが立てかけられていることだ。


 そして部屋の至る所に置かれたキャンバスには、あの女性が正面から描かれている。不思議なことに、初めて顔をみるのに“彼女”だとすぐに分かった。絵のタッチが同じだからだろう。

 ――そう、クリスティアーレ侯爵邸では後ろ姿しか描かれていない、あの女性だ。こちらを向く彼女の瞳が薄い紫色であることにレティスは気づいた。


(この方こそ、ラベンダー色、かしら……)


 一番手近にある、床に置かれたキャンバスの前にレティスは座り込む。右端に描かれているサインを目にいれる――それはまさにクリスティアーレ家で見ていたそれと全く同じで。

 

「……リーン様、が、あの、絵を描かれたんですね……」


 レティスは呆然としながら呟く。


 キャンバスに描かれた女性は、クリスティアーレ邸で想像していたようにレティスの母親ではもちろんない。けれどこちらを向いて微笑んでいる彼女は、とても若々しく、優しげな人だった。


「うん」

「サインも同じですもの」


 被っていた帽子を外して、リーンハルトが自身の銀髪をぐしゃぐしゃにかき回した。


「サインは自分の名前を書いているだけなんだけどね、上手に書けないからこうなっちゃうんだよね」


 確かにそのサインはミミズがのたくったような文字で、リーンハルトと記しているのだ、と言われるとかろうじて読もうと思えば読めないこともない。


(絵が素敵すぎて、サインもあえてそうしているのかな、と思っちゃう)


「この、女性はどなたですか……?」


 リーンハルトをのろのろと見上げながら、レティスは尋ねた。 


「僕の母親だよ。十年くらい前に流行った病で亡くなったんだ。それから絵を描くようになったんだ――母親のことを忘れないように、と」


 なるほど、だからリーンハルトの母の絵ばかりなのか、とレティスは思った。


「私の母も、その流行り病で命を落としました」


 クロッカスの瞳が見開かれる。


「亡くなったとは聞いていたけど、そうだったのか。……僕たち、同じ時に母親を亡くしたんだね……」

 

 レティスはこくりと頷く。


「それで……、いつも絵はここで描かれるんですか?」

「うん。描くとなると部屋にこもっちゃうんだ」

「ああ、そういうことだったんですか……」


 短時間、もしくは長時間部屋にこもっていたリーンハルトは、絵を描いていたのだ。寝食を忘れて打ち込んでいるのだろうが、なにか危険なことをしているわけではないのでジャスターたちが慌てないのも当然かもしれない。


「今度からは絵を描いていたとしても、部屋に入ってもらっていいよ」

「……本当に?」

「うん、レティスならいいよ」


 リーンハルトはあっさりと頷く。


「はい、では……お邪魔にならないように、そうさせてもらいますね。ご飯を食べているか見張らなくちゃ」

「ふふ、ありがと」


 またひとつ、リーンハルトとの心の距離が近づいた。

 リーンハルトからキャンバスにもう一度視線をうつしながら、レティスはそこに彼の面影をみる。


(貴方が、リーン様のお母様でいらっしゃるのですね……そして、私のこともずっと支えてくださっていた……)


 リーンハルトが母のことをどう思っているのか、絵を見れば一目瞭然だった。

 ここには慈愛と優しさしか描かれていない。

 胸が熱くなり、みるみるうちに視界がぼやけていく。


「レティスが母親の絵を気に入ってくれてたみたいだからって並べてみたら、やっぱり僕が描いていたのはほとんどは母親の絵で――わっ」


 ぼろぼろと涙をこぼすレティスに気づいたリーンハルトが彼女のすぐ隣に座り込む。


「どうしたの!? ごめん、なにか嫌だった……?」


 両手で涙を拭きながら、レティスはかぶりを振る。


「ううん、そうではないんです……ただ、感動しちゃって」

「……感動?」


 まぶたの下の涙を拭き取って、レティスは震え続ける唇をなんとか笑みの形にする。


「私、辛い時があるとあの絵を見て励まされていたんです。それが……リーン様の手によるものだったとは、と知って……胸がいっぱいです……」

「……レティス」

「やっぱり、リーン様は私にとってはずれ王子なんかじゃない」


 レティスがそう言うと、リーンハルトが唇をきゅっと噛み締めた。


「そうやって、言ってくれるの……?」

「もちろん。……ああ、それでクリスティアーレ侯爵とは親しくていらっしゃるのですね。リーン様が絵を描かれるから?」

「うん、そうなんだ」


 数年前、まだ社交の場に出ていたリーンハルトがとある夜会で――クリスティアーレ侯爵はリーンハルトの髪を見ても顔をしかめない数少ない人物で――クリスティアーレ侯爵から絵を集めるのが好きだと聞いた。色々と話しているうちに、リーンハルトの絵を拝見したい、という申し出をされたという。

 クリスティアーレ侯爵の人柄を知り、彼を信頼したリーンハルトが母を描いたスケッチをみせると、非凡な才能がある、一枚でいいから絵を譲ってくれないか、と熱心に頼まれたらしい。


「それまで絵を描いていることはあまり歓迎されていなかったんだ。家庭教師にも、絵なんてどうでもいいからちゃんと政務をこなせるようにしなくては、と言われ続けていたから……そうやって褒めてもらえること自体が初めてで……嬉しかったな」


 とはいえ、いくらクリスティアーレ侯爵が口が固く、信頼に足りうる人物だったとしても、さすがに王の側妃のスケッチを勝手に渡す訳にはいかない。どうするべきかと悩んだリーンハルトは、思い余って王に相談したのだという。


「父上はすごく困惑していたけれど、最終的にいくつかの条件を守れば、と許可してくれたんだ」


 それがクリスティアーレ侯爵は絵を描いた人物の名前を明かさない、ということと、正面からではなく後ろ姿だけ、ということだった。廊下に飾られていた絵が、背景が描かれていない上に女性の後姿だけだったのは、そんな理由があったのだ。


 そういえばレティスが侯爵に画家の名前を聞いたときも、明かせないという答えだったのを思い出す。


「ふふ、だからあの絵をレティスが褒めてくれたときは驚いたよ」

「……え……?」


 途端、レティスは昨日、本人を前にしてあの絵を褒めちぎったことを思い出して、真っ赤になってしまった。


(は、恥ずかしい……)


 そんな彼女をリーンハルトが穏やかな眼差しで見守っている。


「ありがとう、レティス」

「……?」

「すごく、嬉しかった」


 クロッカス色の瞳を見返すと、恥ずかしさを忘れ、レティスの心は温かいもので満ちた。


(リーン様が喜んでくださっている……だったら、伝えて良かった、と思える。私が恥ずかしいと思ったのは……たいしたことではないわね)


 お互いににこにこして、顔を見合わせる。レティスはふと疑問に思ったことを口にした。


「そういえば、他にはどんな絵を描かれるんですか?」

「実はあんまり他のモチーフは描かないんだ」


 どうやらリーンハルトは、自身の想像上のなにかを絵にするわけではないらしい。もちろん、そうしてみたこともあるが、そこまで納得のいく作品はできなかったのだという。


「僕はもっと……自身の目で見たものを再現する方が好きかな」


 スケッチブックを見せてもらうと、一番多いのはやはり母親だが、次に多いのは植物だった。レティスがもらった大辞典の挿絵に引けを取らない秀逸さである。どの絵も伸び伸びしていて、リーンハルトの思いがこめられている。

 それからもちろん、じゃがいもも。


(リーン様はご自分が愛されたものを描かれるのが好きなのね。うん、すごくリーン様らしい)


「ちなみに、小説の人物とかだったら難しくなりますか?」

 

 試しにとある有名な児童文学の主人公の名前を言ってみる。その本を選んだのは、文章が平易で、幼い子供でも読むことができるからだ。きっとリーンハルトも読む練習で目を通してるのでは、と考えた。

 果たして彼は知っていた。

 リーンハルトが小さく首を傾げながら、スケッチブックをめくった。


「ああ、そんなことはしてみたことがないな……でもせっかくだからやってみようか。確か彼は赤毛で……、目がきりっとしているけどちょっと細長くて……とかだったかな?」


 リーンハルトはためらうことなく、さっさと鉛筆で描き始めた。彼が描くその輪郭を眺めているレティスの口がどんどん開いていってしまう。


(……すごいわ……)


「鼻は……鷲鼻まではいかないけど、しっかりした形、とかだった? でもあまりにも大きいと悪役みたいだよね。うーん、じゃあちょっとだけ細めにして……ちょっと違う気もするけど、僕の持ってる彼のイメージはこんな感じかな」


 あっという間に描き上がったその姿は、レティスが想像していた通りであった。件の本には挿絵がないから作者の考えはわからないが、それでも読者であるレティスが抱いていたイメージそのもの。


「リーン様、本当にすごい……!」


 レティスが心からそう言えば、リーンハルトは照れたように笑ったのだった。

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