混沌 ※誠視点

 誠が麗香の部屋に着くと、消防隊員が窓から麗香の部屋に入り、救出するところだった。風呂場で手首を切ったらしかった。もう少し遅ければどうなったかわからないと言う。沙羅が即座に手配してくれたおかげで助かった。

 一緒に病院へと付き添う。

酒と薬で意識が朦朧としていたが、手首の傷はすぐに縫合手術が必要で、麗香の両親もあとから病院に駆け付けた。


「救急車を呼んでくださり、ありがとうございます」


 おそらく自分が娘の不倫相手だったと知りながら、母親は礼を言った。父親は、娘の不倫相手と知ると、誠を殴りつけ、看護婦と母親が止めに入った。


人様の大切な娘をもてあそんだ結果、こうなってしまったのだ。殴られても仕方がない。

 病室で土下座をして詫びるしかなかった。


 自分のしたことで、人の命が失われるところだった。今さらながら罪悪感で押しつぶされそうになる。


「私の落ち度でこの度は申し訳ありませんでした」

「ここまで追い詰められていたなんて……」


 罵倒されても仕方がないと思っていたが、怒りより悲しみのほうが大きいようで、母親は麗香の手を握りしめ泣いていた。


「皆川さんからうちのほうに連絡があったんです。もう執拗に追い詰めることはしないからって。あなたの奥さんから連絡があったそうです」


 式場のキャンセル代や慰謝料は、麗香の両親が一緒に支払っていくと言う。


「沙羅がそこまで……」


 本来なら守るべき妻に、そこまでさせてしまったことに自分のふがいなさを感じる。

 麗香に対して複雑な気持ちもあるだろうに、沙羅の芯の強さに驚いた。


 ──そうだ。沙羅のそういうところに惹かれたんだ。


 仕事に忙殺され、ささやかな日常の幸せを忘れて、誘惑に負けて大切なものを失った。迷いなく自分を送り出した沙羅の目を思い出す。


 同時に、沙羅の気持ちが1ミリも残っていないのだということを痛感した。麗香への嫉妬や恨みすらもない。沙羅の中では、もう終わったことなのだと。


 ずっと心の中にあった未練が、断ち切らなければならないものだとようやく悟る。

 自分が気づかなかっただけで、沙羅をたくさん傷つけたのだろう。子供が欲しいというのに、まだ焦る必要はないとろくに話も聞かずに、治療にも協力しなかったこと。

 遊びで沙羅を捨てるつもりはないから大事にならないと、高をくくっていたこと。


 いつからか沙羅の笑顔がくもっていたことに気づかなかった。

 幼少期に沙羅が父親に捨てられた傷をえぐったのは自分にほかならない。


 麗香とのことを疑いながら、一緒に暮らすのはどれほど辛かっただろう。自分にとっては軽い気持ちでも、沙羅が辻村とどうにかなるかもしれないと思ったことで初めて気持ちを考えることができた。

 大切なものを奪われる屈辱と悲しみは、絶望的に深い。


 ──こんな想いをずっとさせてたのか……。


 沙羅が別の男と恋愛していると思うと、世界が崩れ落ちるような気がした。自分に非があるとわかってはいても、負の感情がこらえきれずひどいことを言ったりもした。

 嫉妬に狂い、戸籍で縛り付けようとしたが、もうこれ以上不幸にしたくない。


 今も沙羅を失うことを思うと、恐ろしい。

 けれどこれ以上自分のエゴで沙羅を縛ってはいけない。自分も変わらなければいけない。


 ──沙羅を自由にしてやろう。


 

☆心の荷を下ろして


 誠を麗香のもとへ送り出した翌日、沙羅は病院にいる母のもとへ向かった。

 見舞いというより、自分が母に会いたくなったのだ。

 母の容態は日に日に悪化しているが、精神的には落ち着いていて、そのことが逆に痛ましかった。


「沙羅、誠さんとなにかあったの」


 なかなか一緒に病院を訪れないことに疑問を抱いたようだった。


「……なにもないよ。仕事が忙しいだけ」

「嘘おっしゃい。様子を見てたらわかるよ」


 余命わずかな母に、本当のことを言っていいのか、わからない。


「沙羅。言いたくないならいいけど、一人で悩んで辛いなら、言いなさい。あなたの心の荷が少しでも下せるなら」


 こんな時でも娘を想える強さに、優しい声に、泣いてしまう。


「だいぶ前からもう私たちは駄目なの。こんな時に心配させてごめんなさい」


 母を悲しませまいと隠してきた秘密を打ち明けると、心が軽くなる。


「あなたは家のゴタゴタで、苦労させたから、我慢が癖になってしまったのね。我慢ばっかりしてると我慢してることすら気づかなくなってしまうから」

「うん」

「しがみつくより手放すほうが楽なこともあるの。一人でだって生きていけるよ」


 失うかもしれない愛情に怯えながら暮らすのはもう嫌だった。


「うん……一人になっても大丈夫なようにちゃんと頑張る」

「どんな時も、沙羅の味方だから。どんな形でもいい。辛かったら逃げても、負けてもいいから楽なほうを選びなさい」

「ありがとう」


 泣いている沙羅の手を母の手が優しく包む。

 すっかり痩せて細くなった母の手は、ひんやりと冷たく別れの時が近づいていることを知る。


 



「これ書いたから」


 母の病院から帰ると、誠から離婚届を渡された。


「沙羅、本当にごめん。どれほど傷つけたか、今さら気づいても遅いけど謝りたい。沙羅と一緒になれて幸せだった」

「うん。私もごめんなさい。結婚して幸せだった時間も、忘れないで生きていく」


 初めてのデートにプロポーズ、結婚式。二人で幸せだった日々は遥か遠い夢のようだけれど、それもまた自分の人生の一部だったのだ。

最後に美しい思い出としてしまっておけるくらいには気持ちが落ち着いている。


「最後に抱きしめても?」

「うん」


 多分初めて触れ合った時よりも緊張したと思う。

 この温もりを互いに離さない未来ももしかしたらあったのかもしれない。一瞬そんな思いもよぎったけれど、まだこれからの人生のほうが長いのだ。



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