壊れていく夫 



 その夜は、誠からの着信を無視し続けて、我を忘れて辻村と愛を貪り合った。

 もうあの家には帰したくないという辻村と、彼の好意に甘えたい沙羅は離れがたく、一日中ベッドでまどろんでいた。

 相手にされたから自分もしていいとは思わない。

 いけないことだとわかってはいても、抗えない衝動に身を任せるしかなかった。


 ──誠もこういう気持ちだったのかな。


 どこか冷めた気持ちで夫の過去に想いを巡らせる。


 気まずい気持ちで夕方になって帰宅すると、誠がリビングで真っ白な顔で待っていた。

 

「どこへ行ってた?」

「母のところに」


 嘘をつく。幾度となく夫にされたことを、今度は自分がしている。苦い想いが胸に広がるけれど、本当のことを言えば辻村を巻き込んでしまう。

 夫が先に裏切ったのだから、許してほしいとは思わない。許さなくていい。もう戻れないのだから。

 突然強い力で腕をつかまれる。


「嘘だろ? 病院行ったけど沙羅は来てないってお義母さんが言ってた」

 

 誠が怒っているのがわかった。辻村と寝たと知ったらこの人はどうするのだろう。沙羅を責めたり、辻村のところへ乗り込んだりするのだろうか。

 昨夜自分が犯した過ちが、夫に裏切られた当てつけだったらまだよかった。


 ──私、本気なんだ。


 青春時代の淡い恋を汚してしまったような罪悪感もある。

 長くは続かない関係でも、大切な人であることには変わりないが、それとは別に夫への愛情が枯れてしまったことが全てだった。


「私……好きな人ができたの。だからもうあなたのことを責められない」

 

 夫の顔色が血の気を失っていくのを他人事のように見ていた。


「誰だ? いつから?」

「私が勝手に好きなだけ」

「離婚したいのか?」


 こくりと頷く。子供でもいたら別だろうが、これ以上一緒にいる意味はない。


「それで? 離婚してその男と再婚したいのか?」

「そんなんじゃない。ただ私が好きなだけ」


 辻村は夫の不貞に傷ついた沙羅をひととき慰めてくれただけだ。彼とのことは美しい思い出にするのがいい。もう昔のように無垢な気持ちだけで人を愛せない。


「駄目だよ、沙羅。離婚届に判は押さない。お義母さんだって悲しむ」

「それとこれとは別だわ」


 母の話を持ち出すのは卑怯だ。だが、余命いくばくもない母に娘夫婦のこじれにこじれた離婚話など聞かせるのは、あまりに酷だとは思っていた。


「とにかく離婚はしない。沙羅にどれだけ恨まれても、別れる気はない」

「勝手だわ」

「お義母さんに顔出したら、喜んでくれたよ。悲しませるようなことはやめよう」


 誠は言外に脅迫している。娘には幸せな結婚をと願っていた母に、自分たちの破綻した結婚生活のことを知られたくないという沙羅の弱みに付け込んでいるのだ。


「お義母さんのためにも、やり直そう。そのためならなんでもするから」

 

 腕をつかまれて、背筋に冷たい汗が流れた。


 ──なにを言っているの。


 さっきから話が通じない。夫だと思っていた人が、なにか別のものに乗っ取られているような不気味さを感じた。


 緊張感で満ちた部屋に、着信音が鳴り響いた。


「真帆から電話」


 誠のいない部屋に移動する。正直怖かったから助かった。


「沙羅、昨日誠さんから帰らないって電話が来たけどどうしたの? 今どこ?」


 そういえば昨日真帆からもメッセージが来ていた。誠が心配してあちこち連絡したのだろう。


「もう家だよ」

「誠さん、どうしたの? 様子がおかしかったから」

「実は……」


 簡単に麗香と誠のことを話すと、さすがの真帆も絶句した。辻村のことは、知り合いだけに言えなかった。


「でもさ、何年も一緒にいたら、よくあることだよ。私もやらかしかけたし……沙羅には不快だよね。ごめん」

「ううん。私も色々悪かったの。向き合うのが怖くて逃げてたから」

「そっか。うちもあのあと反省して、前より仲良くなったくらいだよ。けど、沙羅は潔癖だからな」

「私も潔癖なんかじゃないよ」


 もしそうなら、辻村と過ちは犯さなかっただろう。


 ──私も辻村さんと寝たの。


 親友にも言えない言葉を呑みこむ。


「沙羅ってさ、笑顔で不満をためこんで、いきなり限界が来て関係終わらせるタイプだから。誠さんはそれをわかってなかったんだろうね」

「それは……」

「思ったことを考える前に言っちゃう私みたいなのもいるからさ、なにも言わないと誠さんは不満なんてないんだって思ってただろうね」

「言わなきゃ伝わらないのはわかってるの」


 沙羅が言えなかったのは、父親のことがトラウマだったからだろうと今になって思う。幼少期の記憶のあまりの恐ろしさに、真実を知りたくなかった。

 それが皆川の存在で強制的に現実を知らされて今に至る。


「ね、沙羅も浮気してみれば。それで誠さんへの気持ちがどう変わるか考えてから離婚のこと考えたら」

「相変わらず、普通のアドバイスはしないのね」


 真帆は都会でバリバリ働いているせいか、価値観が先鋭的すぎる。

 

「沙羅は真面目過ぎるから、その殻を割ってさ、それからでも離婚は遅くないよ」

「真帆の考えにはついていけないよ」


 沙羅も不倫して、誠の気持ちがどう変わるか試したらいいということだった。

 昨夜のあれは、不倫の部類に入るだろう。それでなにか価値観が変わるようなことはあっただろうか。


 ──もう死んでしまった愛は生き返らない。


 皮肉にも、辻村に抱かれたことで、彼を本当に愛していることと誠への愛はもう戻らないことは確認してしまった。


「誠さんの意見に味方するわけじゃないけどさ、お母さんには離婚のこと言わないほうがいいよ。病気に悪影響を与えたらまずいし」

「うん。それはそうだよね」


 病院にいる母に、誠が言わなければ離婚することを隠すのはそう難しいことではない。

 そもそも誠は離婚しないと言っている。

 けれどこんな気持ちで、一緒に暮らし続けるのは無理がある。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る